<吉田健一のオセロー論>
吉田健一(1912年~1977年)は吉田茂元首相の長男で、作家・文芸評論家・英文学者です。
この人のことは前にも書いたことがありますが、英国留学が長く、ネイティブ並みに英語を操ることができたそうです。
かの地で本場のシェイクスピア劇を見る機会も多々あったことでしょう。
彼は著書「シェイクスピア」の中で9つの戯曲について論じていますが、その中でも「オセロ」が特に独創的で面白いのです。まさに目から鱗です。
あまりに面白いので、少々長くなりますが、以下に引用します。
いや、引用と言うより抜粋です。
例によって彼の文章は分かりにくいので、適宜変えてあります。
人物名は、原文のままにしました。
①時間の流れのトリック
不幸な恋愛を主題として、話が迅速に悲劇的な終末まで運ばれて行く点では、「オセロ」は「ロメオとジュリエット」に似ている。
事実、シェイクスピアが書いた悲劇の中で、こういう種類の作品はこの二つしかない。
「ロメオ・・」では、事件が始まってから終わるまで四、五日だが、「オセロ」ではもっと短い。
ヴェニスで黒人の将軍オセロが、貴族の一人娘デスデモナと内密に結婚したことがその直後に発覚し、オセロの素朴な愛情の告白によって
この結婚が公認され、それと同時に、トルコ人の襲来に対してサイプラス島の防備に当たるために、オセロが急きょ同島に赴任することを命じられる
という事件が一晩のうちに起こる。この第1幕を別とすれば、オセロとデスデモナがサイプラス島に着いてから、オセロが旗手のイアゴの奸計に陥って
デスデモナを猜疑し、その不実な行為の確証を握ったと信じてデスデモナを枕で窒息させて殺すまで、わずか二日間の出来事である。
勿論、「オセロ」が「ロメオ・・」に似ているというのは、そこまでで終わっている。
後者は、いかに高く評価するにしてもシェイクスピアの初期の天才が示した一つの開花と見るより他はないが、これに対して「オセロ」は
彼の爛熟期の作品であり、人物の動きにしても、その台詞の文体にしても、すでに「ロメオ・・」の比ではない域に達している。
この二つの作品で扱われている主題の性質にも、顕著な相違が認められる。
「ロメオ・・」では、二人の主人公の恋愛そのものには何も悲劇的な所がなくて、寧ろシェイクスピアが当時好んで描いた甘美なロマンスであり、
単に外的な事情がこのロマンスの持続を許さない為に悲劇的なのである。
これに対してオセロとデスデモナは、恋愛以上のもので結び付けられているのであって、それ故にそこに葛藤が生じたことが、それだけで救い難い悲劇を
書くのに充分な材料となっている。
「ロメオ・・」を悲劇として成立させる為に、これを四、五日間の出来事で終わらせたのと同じ必要が、「オセロ」では更に強力に働き、
また更に巧妙に逆用されているのが認められる。
・・・中略・・・
この作品の主題は嫉妬であって、従って二人の主要人物を単に恋人として扱うことは出来ない。・・・
嫉妬が悲劇の主題として成立する為には、恋愛がその所を得て落ち着き、二人の人物にとって互いに相手を信頼することが彼らの生活の基礎となっている時に、
その基礎が嫉妬に脅されて、一挙に破壊されるのでなければならない。
何故なら、ここでも速度が大切だからである。
夫が妻の貞操を疑ったり、或いは妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、悲劇の材料にはならない。
そしてもし生活の基礎が崩れ去って、それでもなお生きて行くのが現実というもののあり方であるとすれば、そのことから
人生は劇になり損なったものの連続であるということが考えられる。(→ここも実に面白い(笑))
しかしシェイクスピアは「オセロ」を一篇の悲劇として完成しなければならなかった。
それが、決して容易なことでなかったことは明らかである。
二人の間に生じた葛藤が二人を破滅に導くに足るものである為には、それだけ二人をその時まで結びつけていた感情が強固なものであることが必要だった。
そのような二人の間柄を、どうすれば舞台の上で表現出来ただろうか。
時間の経過は、・・・舞台でその実感を伝えるのに最も困難なものの一つである。
そして二人の人間のそういう親密な関係は、常にある程度の年月の経過から生じた結果であることを我々に思わせる。
しかし困難はそれだけで止まらなかった。
この作品では更に、名将ではあっても、どこから来たのかも解らない一人の黒人が、ヴェニスの大貴族の一人娘と、親の目をかすめて結婚するというのが
筋の重要な一部をなしている。シェイクスピアとしてはこのことをどうしても、作品の冒頭で扱わなければならなかった。・・中略・・
シェイクスピアは、二つの時間を二重写しの方法で重ねることによって、実に巧みにこの問題を解決している。・・中略・・
例えば、彼がデスデモナと結婚したことが忽ち彼女の父親に知れて、魔術を用いて娘を意のままにしたのだろうとヴェニスの統治者の前で詰問され、
申し開きをする時の台詞は・・中略・・
これはホメロスやダンテの英雄がする、同じ種類の遍歴の回顧談を思わせるものがあるが、それよりも注意すべきは、この台詞では、オセロがそれまでに
経験した苦難をデスデモナに話して聞かせたということになっていながら、むしろ二人がそれだけの体験をともにして来たという印象を受けることである。
・・中略・・
この台詞では・・・更に二人がそれだけ長年の間連れ添った仲であるということを暗示しさえしているかに見える。
またそれにも増して、この台詞の終わりでオセロが
あれは私が切り抜けて来た艱難の為に私を愛してくれたので、
その経験を憐れんでくれたデスデモナを私は愛したのです
と言う時、二人の関係はすでに憶測の域を脱した、揺るぎないものとなって我々に示される。
二重の時間についてはコットら他の評論家たちも指摘している。
そもそもイアゴーがオセローの耳に吹き込んだように、デスデモーナがキャシオーと何度も浮気を重ねることなど不可能なのだ。
そんな時間がどこにある?彼ら夫婦はやっと初夜を共にしたばかりなのに。
だが我々観客は、オセローの猜疑と苦悶を目にしても、それほど違和感を抱かない。
それは、吉田が指摘しているように、作者の巧妙なトリックのお陰なのだ。
②イアゴー
イアゴは・・オセロやデスデモナとは全く別な空気を呼吸している。
彼はデスデモナを手に入れようと焦慮しているロデリゴという馬鹿者に、デスデモナがいつまでもオセロを愛しているはずがない、と説明する。
ここで大切なのは、イアゴ自身がこの説明の論理を信じ切っていることである。
彼はシェイクスピアがオセロやデスデモナに言わせる台詞を聞く耳を持っていない。
彼にとって、二人は結婚したばかりであり、年齢、人種、育ちなどの点から言って、まずうまくは行かないと判断するのが妥当な夫婦である。
それは、具体的な資料が得られない問題については、理性にばかり頼っている者は、通例や可能性といった概算で行く他ないからであり、
それが論理の不足を補うものである故に、やがてはそういう概算も論理に見えてくる。
イアゴはその種類の合理主義者である。
イアゴはこの論理を逆用して、オセロにデスデモナを疑わせることができると確信している。
では彼は何が目的でそういう計画を立てるのだろうか。
そしてなぜ彼の計画は成功するのだろうか。
彼は始めに、自分がオセロの補佐官になるつもりでいたところが、オセロが彼の代わりにカシオを選んだのを根に持ち、
いずれはオセロに復讐するのを兼ねてカシオを失脚させ、自分がその代わりに起用されるようにするのだと言っているが、
他の場所では、ただオセロを苦しめることを目的としている風にも見える。
事実、彼がそういう、悪事を働くこと自体に生きがいを感じる、悪の権化とも言うべき存在であるというのが定説になっている。
しかし彼は、それほど大それた役割を振られているわけではない。
彼は腕利きの実務家で人当たりもよく、女を喜ばせる技術も心得ていて、最後に彼の悪事が露見するまでは誰にも信用され、「正直者のイアゴ」で通っている。
彼はこの悲劇の首謀者でありながら、その性格には深みがない。
そこに、俳優が彼に扮する時の困難がある。
シェイクスピアはこの役を、当時の有名な喜劇役者に当てて書いた。
彼には合理主義者の限界と喜劇的な性格が見られる。
彼は悪人と呼びうるほどの人物ではない。・・・
始めのうちは、オセロをそそのかしてカシオを失脚させ、その後釜に座ろうと計画していた。
彼は充分な自信を持っていた。
それは、二人の結婚が世俗に反したものであるとか、二人の年齢差が甚だしいとか、二人とも彼を信用しているとか、カシオが美貌で女に好かれる質の男である
というような、「客観的な」事実である。
そういう客観的な事実に即して冷静に行動し、それによって自分の計画を成功させることに、明晰な頭脳の持ち主としての優越を感じてもいる。
しかし彼の計画が成功したことは、実際は彼にとって一つの誤算だった。
彼の行動によって、彼が意図した通りにカシオは失脚し、オセロはデスデモナとカシオを疑い、自分がカシオに代わって補佐官に任じられる。
だが彼は、その背後の現実、オセロとデスデモナの現実を計算に入れていなかった。
計算に入れていないのは、それを理解していないからである。
したがって、自分の行動の結果生じた事件の性質も、彼には理解できない。
にもかかわらず、自分ではすべてを計算に入れたつもりでいるので・・・綿密な計算を怠らずにいながら五里霧中に行動することになり、
自分が企てたオセロの悲劇に翻弄されて、・・・悲劇が進展するにつれて彼のやることは全くぶざまに見えてくる。・・そういう間が抜けた所がある・・
このように、吉田健一のイアゴー分析は独創的で実に面白い。
この後彼は、オセローとデスデモーナの性格について論じ、悲劇に終わるこの戯曲が、我々に、いかにカタルシスをもたらすものであるかを語っている。
それは次回にご紹介します。
吉田健一(1912年~1977年)は吉田茂元首相の長男で、作家・文芸評論家・英文学者です。
この人のことは前にも書いたことがありますが、英国留学が長く、ネイティブ並みに英語を操ることができたそうです。
かの地で本場のシェイクスピア劇を見る機会も多々あったことでしょう。
彼は著書「シェイクスピア」の中で9つの戯曲について論じていますが、その中でも「オセロ」が特に独創的で面白いのです。まさに目から鱗です。
あまりに面白いので、少々長くなりますが、以下に引用します。
いや、引用と言うより抜粋です。
例によって彼の文章は分かりにくいので、適宜変えてあります。
人物名は、原文のままにしました。
①時間の流れのトリック
不幸な恋愛を主題として、話が迅速に悲劇的な終末まで運ばれて行く点では、「オセロ」は「ロメオとジュリエット」に似ている。
事実、シェイクスピアが書いた悲劇の中で、こういう種類の作品はこの二つしかない。
「ロメオ・・」では、事件が始まってから終わるまで四、五日だが、「オセロ」ではもっと短い。
ヴェニスで黒人の将軍オセロが、貴族の一人娘デスデモナと内密に結婚したことがその直後に発覚し、オセロの素朴な愛情の告白によって
この結婚が公認され、それと同時に、トルコ人の襲来に対してサイプラス島の防備に当たるために、オセロが急きょ同島に赴任することを命じられる
という事件が一晩のうちに起こる。この第1幕を別とすれば、オセロとデスデモナがサイプラス島に着いてから、オセロが旗手のイアゴの奸計に陥って
デスデモナを猜疑し、その不実な行為の確証を握ったと信じてデスデモナを枕で窒息させて殺すまで、わずか二日間の出来事である。
勿論、「オセロ」が「ロメオ・・」に似ているというのは、そこまでで終わっている。
後者は、いかに高く評価するにしてもシェイクスピアの初期の天才が示した一つの開花と見るより他はないが、これに対して「オセロ」は
彼の爛熟期の作品であり、人物の動きにしても、その台詞の文体にしても、すでに「ロメオ・・」の比ではない域に達している。
この二つの作品で扱われている主題の性質にも、顕著な相違が認められる。
「ロメオ・・」では、二人の主人公の恋愛そのものには何も悲劇的な所がなくて、寧ろシェイクスピアが当時好んで描いた甘美なロマンスであり、
単に外的な事情がこのロマンスの持続を許さない為に悲劇的なのである。
これに対してオセロとデスデモナは、恋愛以上のもので結び付けられているのであって、それ故にそこに葛藤が生じたことが、それだけで救い難い悲劇を
書くのに充分な材料となっている。
「ロメオ・・」を悲劇として成立させる為に、これを四、五日間の出来事で終わらせたのと同じ必要が、「オセロ」では更に強力に働き、
また更に巧妙に逆用されているのが認められる。
・・・中略・・・
この作品の主題は嫉妬であって、従って二人の主要人物を単に恋人として扱うことは出来ない。・・・
嫉妬が悲劇の主題として成立する為には、恋愛がその所を得て落ち着き、二人の人物にとって互いに相手を信頼することが彼らの生活の基礎となっている時に、
その基礎が嫉妬に脅されて、一挙に破壊されるのでなければならない。
何故なら、ここでも速度が大切だからである。
夫が妻の貞操を疑ったり、或いは妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、悲劇の材料にはならない。
そしてもし生活の基礎が崩れ去って、それでもなお生きて行くのが現実というもののあり方であるとすれば、そのことから
人生は劇になり損なったものの連続であるということが考えられる。(→ここも実に面白い(笑))
しかしシェイクスピアは「オセロ」を一篇の悲劇として完成しなければならなかった。
それが、決して容易なことでなかったことは明らかである。
二人の間に生じた葛藤が二人を破滅に導くに足るものである為には、それだけ二人をその時まで結びつけていた感情が強固なものであることが必要だった。
そのような二人の間柄を、どうすれば舞台の上で表現出来ただろうか。
時間の経過は、・・・舞台でその実感を伝えるのに最も困難なものの一つである。
そして二人の人間のそういう親密な関係は、常にある程度の年月の経過から生じた結果であることを我々に思わせる。
しかし困難はそれだけで止まらなかった。
この作品では更に、名将ではあっても、どこから来たのかも解らない一人の黒人が、ヴェニスの大貴族の一人娘と、親の目をかすめて結婚するというのが
筋の重要な一部をなしている。シェイクスピアとしてはこのことをどうしても、作品の冒頭で扱わなければならなかった。・・中略・・
シェイクスピアは、二つの時間を二重写しの方法で重ねることによって、実に巧みにこの問題を解決している。・・中略・・
例えば、彼がデスデモナと結婚したことが忽ち彼女の父親に知れて、魔術を用いて娘を意のままにしたのだろうとヴェニスの統治者の前で詰問され、
申し開きをする時の台詞は・・中略・・
これはホメロスやダンテの英雄がする、同じ種類の遍歴の回顧談を思わせるものがあるが、それよりも注意すべきは、この台詞では、オセロがそれまでに
経験した苦難をデスデモナに話して聞かせたということになっていながら、むしろ二人がそれだけの体験をともにして来たという印象を受けることである。
・・中略・・
この台詞では・・・更に二人がそれだけ長年の間連れ添った仲であるということを暗示しさえしているかに見える。
またそれにも増して、この台詞の終わりでオセロが
あれは私が切り抜けて来た艱難の為に私を愛してくれたので、
その経験を憐れんでくれたデスデモナを私は愛したのです
と言う時、二人の関係はすでに憶測の域を脱した、揺るぎないものとなって我々に示される。
二重の時間についてはコットら他の評論家たちも指摘している。
そもそもイアゴーがオセローの耳に吹き込んだように、デスデモーナがキャシオーと何度も浮気を重ねることなど不可能なのだ。
そんな時間がどこにある?彼ら夫婦はやっと初夜を共にしたばかりなのに。
だが我々観客は、オセローの猜疑と苦悶を目にしても、それほど違和感を抱かない。
それは、吉田が指摘しているように、作者の巧妙なトリックのお陰なのだ。
②イアゴー
イアゴは・・オセロやデスデモナとは全く別な空気を呼吸している。
彼はデスデモナを手に入れようと焦慮しているロデリゴという馬鹿者に、デスデモナがいつまでもオセロを愛しているはずがない、と説明する。
ここで大切なのは、イアゴ自身がこの説明の論理を信じ切っていることである。
彼はシェイクスピアがオセロやデスデモナに言わせる台詞を聞く耳を持っていない。
彼にとって、二人は結婚したばかりであり、年齢、人種、育ちなどの点から言って、まずうまくは行かないと判断するのが妥当な夫婦である。
それは、具体的な資料が得られない問題については、理性にばかり頼っている者は、通例や可能性といった概算で行く他ないからであり、
それが論理の不足を補うものである故に、やがてはそういう概算も論理に見えてくる。
イアゴはその種類の合理主義者である。
イアゴはこの論理を逆用して、オセロにデスデモナを疑わせることができると確信している。
では彼は何が目的でそういう計画を立てるのだろうか。
そしてなぜ彼の計画は成功するのだろうか。
彼は始めに、自分がオセロの補佐官になるつもりでいたところが、オセロが彼の代わりにカシオを選んだのを根に持ち、
いずれはオセロに復讐するのを兼ねてカシオを失脚させ、自分がその代わりに起用されるようにするのだと言っているが、
他の場所では、ただオセロを苦しめることを目的としている風にも見える。
事実、彼がそういう、悪事を働くこと自体に生きがいを感じる、悪の権化とも言うべき存在であるというのが定説になっている。
しかし彼は、それほど大それた役割を振られているわけではない。
彼は腕利きの実務家で人当たりもよく、女を喜ばせる技術も心得ていて、最後に彼の悪事が露見するまでは誰にも信用され、「正直者のイアゴ」で通っている。
彼はこの悲劇の首謀者でありながら、その性格には深みがない。
そこに、俳優が彼に扮する時の困難がある。
シェイクスピアはこの役を、当時の有名な喜劇役者に当てて書いた。
彼には合理主義者の限界と喜劇的な性格が見られる。
彼は悪人と呼びうるほどの人物ではない。・・・
始めのうちは、オセロをそそのかしてカシオを失脚させ、その後釜に座ろうと計画していた。
彼は充分な自信を持っていた。
それは、二人の結婚が世俗に反したものであるとか、二人の年齢差が甚だしいとか、二人とも彼を信用しているとか、カシオが美貌で女に好かれる質の男である
というような、「客観的な」事実である。
そういう客観的な事実に即して冷静に行動し、それによって自分の計画を成功させることに、明晰な頭脳の持ち主としての優越を感じてもいる。
しかし彼の計画が成功したことは、実際は彼にとって一つの誤算だった。
彼の行動によって、彼が意図した通りにカシオは失脚し、オセロはデスデモナとカシオを疑い、自分がカシオに代わって補佐官に任じられる。
だが彼は、その背後の現実、オセロとデスデモナの現実を計算に入れていなかった。
計算に入れていないのは、それを理解していないからである。
したがって、自分の行動の結果生じた事件の性質も、彼には理解できない。
にもかかわらず、自分ではすべてを計算に入れたつもりでいるので・・・綿密な計算を怠らずにいながら五里霧中に行動することになり、
自分が企てたオセロの悲劇に翻弄されて、・・・悲劇が進展するにつれて彼のやることは全くぶざまに見えてくる。・・そういう間が抜けた所がある・・
このように、吉田健一のイアゴー分析は独創的で実に面白い。
この後彼は、オセローとデスデモーナの性格について論じ、悲劇に終わるこの戯曲が、我々に、いかにカタルシスをもたらすものであるかを語っている。
それは次回にご紹介します。
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