ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

オペラ「金閣寺」

2016-01-23 11:14:28 | オペラ
12月5日神奈川県民ホールで、黛敏郎作曲のオペラ「金閣寺」をみた(原作:三島由紀夫、台本:クラウス・H・ヘンネベルク、指揮:下野竜也、
オケ:神奈川フィル、演出:田尾下哲)。

丹後半島成生岬の貧しい寺に生まれた溝口。右手に障害を持つ彼はコンプレックスにより世間に心を閉ざしがちであった。僧侶である父から
「金閣ほど美しいものはない」と聞かされ、後に青年僧として金閣寺住職に預けられる。戦時下、空襲で焼け落ちるかも知れない運命を
思うと、金閣は悲劇的美に輝いて見えた。しかし京都は戦火を逃れ、溝口は幾多の屈折した経験を通し、自身の中で固執化された美の象徴
「金閣」にますます束縛されるようになる。「自由になるためには金閣を焼かねばならない」溝口は決然と金閣に向かって歩み出した・・・。

ドイツ語上演。というのも、これはベルリン・ドイツ・オペラが黛に委嘱し1976年に初演した作品だから。
日本では1991年初演、今回は16年ぶり4度目の上演の由。

主人公溝口は右手が萎えていて、だらんと垂れている。原作では吃音だが。そこが大きな違い。たぶん台本作家が吃音ではオペラにならない
と考えたのだろう。だが片手が不自由なのと吃音とでは世界との関わり方がだいぶ違うと思うが。演出家もそこに最も悩み苦しんだという。
日本人作家で三島が一番好きだという彼は、それゆえにこそ、この作品の演出に際して大変な「苦難」を経験したのだった。
『もちろんオペラで吃音のキャラクターが主人公ではセリフがままならず、音楽劇としてふさわしくないと考えたのだろう。だが、そうだろうか?
三島の原作でも、お経や英語はスラスラ喋ることができるが対話時にだけ吃音となる青年僧として描かれている。その上、心の中の言葉が「どもる」
ことはないので、三島の原作においても彼の言葉が吃音で書かれている箇所はほとんどない。ならば対話だけ吃音にして、多くはモノローグである
この作品を雄弁に歌わせたら良かったのではないか』(「『金閣寺』演出プラン」より)
全く同感だ。
初め作曲家は三島由紀夫本人に台本執筆を依頼したが、三島はオペラ化自体は喜んだが執筆は断ったという。その時が自決の数か月前だったので、
恐らく作家の心中はそれどころではなかったのだろう。それで弱冠29歳のドイツ人ヘンネベルクが執筆することになったという。

紅葉の幕に囲まれた寺が美しい。

父の死の前後が原作と違う。
米兵と娼婦と溝口のシーンを寺の皆が見ているのは変だ。
米兵は歌もセリフもない。淡々と事柄のみ提示される。

この機会に、ずっと気になっていた原作を読むことができた。最近こういうことが多い。
ただ、読めたのは嬉しいが、鑑賞中も、つい原作との違いに注意が向いてしまった。





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