愛宕神社は、標高924mの山城と丹波の国境にあり、全国に約900社を数える愛宕神社の根本社として、京都市最高峰の霊山である愛宕山上に鎮座する。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えない。
その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~04)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えるが正確な史実は不明である。源氏物語の愛宕聖は、愛宕山の修験者といわれている。
早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に7高山の1つに数えられた。
平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。
神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
尚、本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされている。平成15年9月28日、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われた。
天正10年(1582)5月、徳川家康が武田の旧領である駿河の国加増の御礼言上のため、安土城に登城するに際し光秀はその接待役を命じられた。しかし、数日にしてその役を解かれ、備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の応援を命ぜられたので、軍備を整えるため坂本城を経て丹波亀山城に入った。
5月27日戦勝祈願のため愛宕神社に参籠し、本能寺の主君信長を攻めるべきかの心の
揺れからか吉凶を占うため籤を2度3度引いたという。翌日、同神社西ノ坊で連歌師里村紹巴らと連歌の会を催した。発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全9名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。
このとき詠んだ光秀の冒頭の句が、「時は今 あめが下しる 五月哉」であり、時は土岐に、あめ(雨と天)が下しるは天下を支配するに通じ、織田信長の襲殺を秘めた句として知られている。
登り口は何ヵ所かあるが、清滝からの道が表参道、他に月輪寺からの道、首なし地蔵からの道、水尾からの道などがある。清滝の登り口から10合目が愛宕神社で約4キロ。
所要時間は2時間から2時間半を要しきつい山道である。健脚は歩くのだが、ここまでバスがきており、駐車場もあって車で来ることもできる。
明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都のほとんどの家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。
所在地:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1。
交通:JR京都駅より京都バス清滝行(約1時間)、清滝より山頂まで徒歩。
その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~04)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立。その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えるが正確な史実は不明である。源氏物語の愛宕聖は、愛宕山の修験者といわれている。
早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に7高山の1つに数えられた。
平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。
神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っている。
尚、本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされている。平成15年9月28日、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われた。
天正10年(1582)5月、徳川家康が武田の旧領である駿河の国加増の御礼言上のため、安土城に登城するに際し光秀はその接待役を命じられた。しかし、数日にしてその役を解かれ、備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の応援を命ぜられたので、軍備を整えるため坂本城を経て丹波亀山城に入った。
5月27日戦勝祈願のため愛宕神社に参籠し、本能寺の主君信長を攻めるべきかの心の
揺れからか吉凶を占うため籤を2度3度引いたという。翌日、同神社西ノ坊で連歌師里村紹巴らと連歌の会を催した。発句を光秀が詠み、脇句を威徳院の行祐法印、第三句を連歌師の里村紹巴がつけた。全9名で100韻を詠み(愛宕百韻)、書き留めた懐紙を神前に捧げた。
このとき詠んだ光秀の冒頭の句が、「時は今 あめが下しる 五月哉」であり、時は土岐に、あめ(雨と天)が下しるは天下を支配するに通じ、織田信長の襲殺を秘めた句として知られている。
登り口は何ヵ所かあるが、清滝からの道が表参道、他に月輪寺からの道、首なし地蔵からの道、水尾からの道などがある。清滝の登り口から10合目が愛宕神社で約4キロ。
所要時間は2時間から2時間半を要しきつい山道である。健脚は歩くのだが、ここまでバスがきており、駐車場もあって車で来ることもできる。
明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都のほとんどの家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。
所在地:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1。
交通:JR京都駅より京都バス清滝行(約1時間)、清滝より山頂まで徒歩。