戦国の武将たちが神として祀られている神社は各地方にも見られ、最も有名なのが、“東照大権現”として知られる徳川家康を祀る栃木県日光の「東照宮」(ユネスコ・世界文化遺産)であろう。そして、徳川家康の前に天下統一を果たし、今日でも大阪では“太閤さん”として親しまれている関白豊臣秀吉も「豊国神社」として祀られている。甲府には「信玄神社」、山形には「上杉神社」と、名を馳せた武将たちは、その地域地域で崇拝され続けている。
慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉は、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神を賜った。秀吉の遺骨は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。翌年勅命により太閤坦に日本最初の権現造りで結構壮麗、雄大な社殿の造営が成された豊国社の遺跡であり、明治31年豊太閤300年祭に当たり豊国会の手によって大改修が行なわれ諸殿宇が完備された境域七万坪余、古くから桜、紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れる。
本社境内には桃山風造りの宝物館(大正14年開館)があり、豊太閤にゆかり深い宝物が公開されているが、主な物とすれば豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)や与二郎鉄燈籠(辻与二郎作・重文)、等約80点が常設展示されており、太閤秀吉と桃山文化の関わりを学ぶことができる。鉄燈籠は重要文化財で、豊国神社の両脇に立てられ、荘厳な威風を漂わせている。
豊太閤大仏造営に当たり、21ヶ国に巨石の提供を求め、俗に「石狩り」といわれた。諸大名が競って自領の名石を運びその大きさ等も争ったと伝えられ蒲生石、蜂須賀小六の泣石などの名も残っている「豊公大石垣」の、延長約900㍍が現存している。
社の正面石段下の30㍍ほどした所の小丘陵上にある五輪塔は、奇怪な伝説をもつ「耳塚」として知られている。文禄慶長の役に総大将加藤清正が首級の代わりに鼻を持ち帰ったものを、異人とはいえ、兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚と云われた、いつしか訛って「耳塚」と呼ばれるようになったという。
社殿の前の格子壁には、太閤秀吉の出世物語にあやかろうと、瓢箪を象ったお札に願いを掛けて吊るされていた。私も、願掛けにあやかった。
交通:JR京都駅、市バス三十三間堂前下車、北に300㍍、徒歩5分。
慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉は、後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神を賜った。秀吉の遺骨は遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られた。翌年勅命により太閤坦に日本最初の権現造りで結構壮麗、雄大な社殿の造営が成された豊国社の遺跡であり、明治31年豊太閤300年祭に当たり豊国会の手によって大改修が行なわれ諸殿宇が完備された境域七万坪余、古くから桜、紅葉の名所として知られ、多くの人が訪れる。
本社境内には桃山風造りの宝物館(大正14年開館)があり、豊太閤にゆかり深い宝物が公開されているが、主な物とすれば豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)や与二郎鉄燈籠(辻与二郎作・重文)、等約80点が常設展示されており、太閤秀吉と桃山文化の関わりを学ぶことができる。鉄燈籠は重要文化財で、豊国神社の両脇に立てられ、荘厳な威風を漂わせている。
豊太閤大仏造営に当たり、21ヶ国に巨石の提供を求め、俗に「石狩り」といわれた。諸大名が競って自領の名石を運びその大きさ等も争ったと伝えられ蒲生石、蜂須賀小六の泣石などの名も残っている「豊公大石垣」の、延長約900㍍が現存している。
社の正面石段下の30㍍ほどした所の小丘陵上にある五輪塔は、奇怪な伝説をもつ「耳塚」として知られている。文禄慶長の役に総大将加藤清正が首級の代わりに鼻を持ち帰ったものを、異人とはいえ、兵士の霊を厚く弔うべしとして葬り御身塚と云われた、いつしか訛って「耳塚」と呼ばれるようになったという。
社殿の前の格子壁には、太閤秀吉の出世物語にあやかろうと、瓢箪を象ったお札に願いを掛けて吊るされていた。私も、願掛けにあやかった。
交通:JR京都駅、市バス三十三間堂前下車、北に300㍍、徒歩5分。