「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「善法律寺」(ぜんぽうりつじ)

2007年01月11日 15時13分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都府下の八幡市に紅葉寺と呼ばれている「善法律寺」があると聞き、ドライブがてら訪ねてみた。早朝とあってまだ誰も参拝者は来ていなかった。というよりは、それほど名の知れたお寺ではなく、訪ね来る人もいないのかも知れない。

 当寺は全国的に知られた石清水八幡宮の男山山麓のふもと、八幡馬場の男山中学校跡地の馬場運動広場南側に、椿や孟宗竹、楓などに包まれ、隠れるように建っている、奈良唐招提寺末である。
 建物は本堂を中心に庫裡、阿弥陀堂、聖天童が配され、その本堂は、内陣を高御倉と呼び、神仏混淆の五間四方の堂で弘安年間(1278~88)に石清水八幡宮の社殿を移して建立したものである。堂の柱がすべて中途で特殊な方法を用いて接いであるのは、耐震の工夫と考えられている。当初の丹朱塗は剥落しているが、純然たる鎌倉様式を伝えていた。

 お寺は石清水八幡宮検校であった善法寺宮清が正嘉年間(1257~58)に私邸を喜捨して創立し、奈良東大寺から実相上人を招いて開山したことに始まる。室町時代には、善法寺通清の娘良子が将軍足利義詮に嫁ぎ、3代将軍義満の母となった。義満は神社信仰に篤く、特に八幡宮を崇敬したため、20数回も八幡を訪れている。以後の義教、義政も繁けく往来し、将軍家と善法寺家との密接な関係が続いた。従って律寺も足利家の庇護を得て隆盛を極めたのである。義満の母・良子は善法律寺へ自分の好きな紅葉の樹ををたくさん寄進したという。秋には深紅の葉が境内を染め、別名「紅葉寺」と呼ばれ、親しまれている。

 本堂に安置されている本尊の八幡菩薩(僧形八幡)は、明治元年に神仏分離が行われるまで石清水八幡宮の祭神とされていたものである。等身彩色の座像は、左手に宝珠、右手に錫杖を持っている。脇仏は不動・愛染の二明王で、本尊とともに鎌倉時代の作である。また、奥殿には石清水八幡宮の宿院頓宮にあったという宝冠阿弥陀(南北朝時代)や千手観音菩薩立像(鎌倉時代)等寺宝は多い。境内の放生池畔には鎌倉時代の五輪塔もある。
かつて大乗院にあったものとされる五輪石塔や石地蔵が池のほとりに並んでいる。

 所在地:八幡市八幡馬場28。
 交通:京阪電鉄本線・八幡市駅下車、徒歩10分。

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