京都バス「鈴虫寺」停留所から三分ほど南へ歩くと、住宅街の一角に通称「竹の寺」と呼ばれている山号を衣笠山と称する地蔵院に出会う。
この地は今から7百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立し開山した。
その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26ヵ寺、諸国に領地54ヵ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)で諸堂ことごとく焼失した。
しかし、皇室と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には伝教大師(最澄)の作という本尊の地蔵菩薩を安置し、中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之の各木像が配されている。本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。
方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、宗鏡禅師の作、頼之の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、16羅漢の庭とよばれ石の一つ一つは羅漢を意味している。
当院は一休禅師が幼少の頃修養した寺としても知られ、禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家で生れ、当院で成長した後、6才のとき安国寺に移って本国的な修行に入っている。
開基細川頼之は、元徳元年(1329)三河国(愛知県)に生れ、貞治6年、将軍足利義満を補佐して管領職となり、後、武蔵守として南北両朝の和合に尽力している。頼之の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、よく知られているところである。明徳3年(1392)64才で没している。
紅葉は例年12月初め頃に色付き、薄暗い竹林を抜けると鮮やかな紅葉が目にとびこむ。竹林と紅葉の参道が美しい、またこの季節は山茶花の古木が二本見事な花を付け紅葉と花の美の共演を満喫できる。
所在地:京都市西京区山田北ノ町23。
交通:阪急嵐山線「上桂駅」下車徒歩13分、京都バス「苔寺」下車徒歩3分。
この地は今から7百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立し開山した。
その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26ヵ寺、諸国に領地54ヵ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)で諸堂ことごとく焼失した。
しかし、皇室と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には伝教大師(最澄)の作という本尊の地蔵菩薩を安置し、中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之の各木像が配されている。本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。
方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、宗鏡禅師の作、頼之の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、16羅漢の庭とよばれ石の一つ一つは羅漢を意味している。
当院は一休禅師が幼少の頃修養した寺としても知られ、禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家で生れ、当院で成長した後、6才のとき安国寺に移って本国的な修行に入っている。
開基細川頼之は、元徳元年(1329)三河国(愛知県)に生れ、貞治6年、将軍足利義満を補佐して管領職となり、後、武蔵守として南北両朝の和合に尽力している。頼之の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、よく知られているところである。明徳3年(1392)64才で没している。
紅葉は例年12月初め頃に色付き、薄暗い竹林を抜けると鮮やかな紅葉が目にとびこむ。竹林と紅葉の参道が美しい、またこの季節は山茶花の古木が二本見事な花を付け紅葉と花の美の共演を満喫できる。
所在地:京都市西京区山田北ノ町23。
交通:阪急嵐山線「上桂駅」下車徒歩13分、京都バス「苔寺」下車徒歩3分。