20年前の日記より
「わが人生の師、逝く。」
中之島のオフィスで原稿を書きなぐっているとき、妻から電話が入る。「お父さんが亡くなられた、すぐにお姉さんに電話を入れてください」…。
覚悟はしていた、その前日、父のために買い求めた介護用ベットが届き、父をそのベットに抱きかかえて寝かせた。
「庭を見ようか」と聞くと、「頷いた」。抱きかかえて庭と空を眺めさせてあげると、久しぶりの眺めに暫く目を凝らしてみつめていた。そして寝たいという父を下ろし母が手をさすると、安らかな息づかいとなり瞼を閉じた。病院から住み慣れた我が家に戻った安堵感が、父の心を安らかにしたのだ。この時、思った。もう時間が消え行く。
享年95歳、つい先ごろ誕生日を迎えたばかりであった。
「ニイタカヤマノボレ」が発せられてから程なくして生まれた私。3歳のころ感染症に罹患し死線をさまよいはじめてから4年もの余り、父は医者として懸命に私の命を救った。病弱な私はそれからもひ弱な体力で、学校を休み休み暮らさなければならなかった。小学校6年生になる頃、父は私の体力をつけるためテニスを教えてくれた。姉も兄も父に指導を受け、家族でテニスを楽しむことができるようになって、次第に私は健康になり、今日の体力を醸成したのだ。
父は決して怒ることをしなかった。しかし威厳に満ちた父の前では頭を垂れ、人としての在りかた、生き方を教えられた。説得上手な父の言葉は一つ一つ、心の奥深くまで沁み入るのである。大学受験の頃は医者を継げとは一言も言わなかった。
いつも父が望んでいたことは「人様に慕われる人になれ」「人を思いやる心をもて」「決して弱音をはくな、苦しい時にはその苦しさに感謝しろ。なぜなら、それはお前に与えられた試練だからだ」「お前は慌てものだから、事が生じたとき、冷静になる胆力を養え」「礼節を守り、人の和を重んじろ」「家族を大切にしろ、人を敬え」「家庭を持ったら、妻の尻に引かれろ。妻の前では馬鹿でいい、子供には尊敬される父の姿と、仲の良い夫婦の姿をみせろ」「子供は叱るな、怒るな。無言でも、してはいけないということを悟らせる父となれ」「会社では部下に尽くせ。愛情をもって接しよ」「仕事は人生、決して投げ出すな逃げるな」…。教わった父の語録は数え切れない。
父は私の人生の師、いや孔子か空海だ。信仰宗教を特に持たない私は、父そのものが信仰の対象となるほどであったからでもあろう。
息を引き取る4日前、父は私たちに手を合わせ「感謝している、ありがとう」と、言葉にはならない言葉を残した。
枕供養、通夜、葬儀、告別式と無事にすませ、飯盛斎場へ、父の遺影を抱いて行く。
棺に永の別れを言いながら花を添えるときも泣かなかった私。斎場で荼毘の釜に入れられて扉が閉まると、それまでこらえていた私は号泣した、「逝ってしまう、いやだー」、固く閉じた扉の前で体を震わせて泣いた。「HIDEちゃんが悲しむと、お父さん、仏さまの所にいけなくなるよ」と、姉が泣きながら私の肩を抱き寄せた。
父との想い出は枚挙につきない。兄とともに通夜の席で父が好きだった「田原坂」を二人して歌い、そして「五つ木の子守唄」「遥かな友へ」をデュエットした。父は若い頃より短歌にしたしんだ、アララギ派の父は、寝たきりになる3年前まで日記のように短歌を綴った。兄さんが「遺作集を作ろうか」「ウン、姉さんとも話していだんだが、お前が、幸い出版の仕事と関わりがあるから、まとめてみようかと話していたんだ」。恐らく全集ができるほどの数がある。兄弟で是非、まとめて見たいと真剣に考えている。
私の著作も来春には出版できる、ペンネームを父の名にして霊前に捧げたいと思っている。