オーナーとの話し合いで社業を閉じることとなったが、FAXにてオーナーより以下のような手紙が入った。
『編集長殿
厳しい寒さがまだまだ続いておりますが、もうしばらくの辛抱と思われます。さて、最近体力の衰えが日々身に感じるようになり、それにつれて気力も薄れてきております。
会社創立75年、うち25年は貴殿の尽力もあり何とか続けてこれましたが、そろそろ打ち止めにしようと決意した次第でした。自身に残された人生も僅かだと思うと、その間、自分だけの時間が欲しくなり仕事から解放されたいと日ごとにつのっておりました。
つきましては過日、貴殿の考えも聞き、また昨日の打ち合わせにて、3月末をもって廃刊しようと決意したところです。
貴殿とは保険会社に入社以来半世紀に亘りご指導賜り感謝の念に絶えません。本当に有難うございました。一抹の寂しさはありますが、互いに過ぎし時間より残された時間の方が短い故、健康に留意し有意義な日々を送りたいものと願うところです。本来ならば面会し御礼申し上げねばならないところですが、老いた身、下阪もかなわず、どうかお許しください。また改めてご挨拶させて頂きます。早々』
オーナーは前勤務先時代の私の後輩で、彼が新入社員時代は同フロアーにて先輩後輩の関係でもあった。私が先に拠点勤務を命じられ、転々としたのち、京都勤務になったおり、彼は天王寺支社長として同時期に赴任し、同じ関西圏として仕事にも、ゴルフにも、麻雀にも、カラオケも共にし親交を深めた間柄。
私が50歳にて自主退職し著作・講演家の道へ。彼はそれから4年後、やはり退職し父親が創業した保険業界新聞社へ転職、二代目を継いだ叔父さんの下で修業。その折、毎日新聞社を定年退職して再就職し編集長をしていたN氏が、ガンに罹患し逝去。その後任として私を招聘したものだった。その頃、講演業も日本郵政公社や生損保の専任講師として軌道にのっていたのだが、彼の三顧の礼もあり、妻も定まった報酬のほうがよいという希望もあり、常務取締役編集長として入社。以来25年も勤めることとなった。業界のドンと云われ政界にも顔をきかせていた二代目が前立腺がんに罹患し引退してから、得意先では「うるさ方」が居なくなったというわけで、その反動から締め付けが始まり、三代目にして業績が低下。「ヤマさん、何とか力を貸してくれ」ということもあり、ない知恵を絞って先代から引き継いで15年社業を維持してきた。しかしオーナーを私に譲りたいと言い出したので私が断ったことから着地点を探っていた。
パソコンのキーボードの打ちすぎで手指の腱鞘炎はなはだしく、また目のかすみも加わったこともあり休刊という決着をした。
いざ、無職の人生になると思うと、やはり寂しく一筋の涙がこぼれ、傍にいた妻ももらい泣きしていた。仕事人間の自分、この先、どう生きて行こうか。太鼓と写真、以前のようにエッセイでも綴ろうか。嗚呼
『編集長殿
厳しい寒さがまだまだ続いておりますが、もうしばらくの辛抱と思われます。さて、最近体力の衰えが日々身に感じるようになり、それにつれて気力も薄れてきております。
会社創立75年、うち25年は貴殿の尽力もあり何とか続けてこれましたが、そろそろ打ち止めにしようと決意した次第でした。自身に残された人生も僅かだと思うと、その間、自分だけの時間が欲しくなり仕事から解放されたいと日ごとにつのっておりました。
つきましては過日、貴殿の考えも聞き、また昨日の打ち合わせにて、3月末をもって廃刊しようと決意したところです。
貴殿とは保険会社に入社以来半世紀に亘りご指導賜り感謝の念に絶えません。本当に有難うございました。一抹の寂しさはありますが、互いに過ぎし時間より残された時間の方が短い故、健康に留意し有意義な日々を送りたいものと願うところです。本来ならば面会し御礼申し上げねばならないところですが、老いた身、下阪もかなわず、どうかお許しください。また改めてご挨拶させて頂きます。早々』
オーナーは前勤務先時代の私の後輩で、彼が新入社員時代は同フロアーにて先輩後輩の関係でもあった。私が先に拠点勤務を命じられ、転々としたのち、京都勤務になったおり、彼は天王寺支社長として同時期に赴任し、同じ関西圏として仕事にも、ゴルフにも、麻雀にも、カラオケも共にし親交を深めた間柄。
私が50歳にて自主退職し著作・講演家の道へ。彼はそれから4年後、やはり退職し父親が創業した保険業界新聞社へ転職、二代目を継いだ叔父さんの下で修業。その折、毎日新聞社を定年退職して再就職し編集長をしていたN氏が、ガンに罹患し逝去。その後任として私を招聘したものだった。その頃、講演業も日本郵政公社や生損保の専任講師として軌道にのっていたのだが、彼の三顧の礼もあり、妻も定まった報酬のほうがよいという希望もあり、常務取締役編集長として入社。以来25年も勤めることとなった。業界のドンと云われ政界にも顔をきかせていた二代目が前立腺がんに罹患し引退してから、得意先では「うるさ方」が居なくなったというわけで、その反動から締め付けが始まり、三代目にして業績が低下。「ヤマさん、何とか力を貸してくれ」ということもあり、ない知恵を絞って先代から引き継いで15年社業を維持してきた。しかしオーナーを私に譲りたいと言い出したので私が断ったことから着地点を探っていた。
パソコンのキーボードの打ちすぎで手指の腱鞘炎はなはだしく、また目のかすみも加わったこともあり休刊という決着をした。
いざ、無職の人生になると思うと、やはり寂しく一筋の涙がこぼれ、傍にいた妻ももらい泣きしていた。仕事人間の自分、この先、どう生きて行こうか。太鼓と写真、以前のようにエッセイでも綴ろうか。嗚呼
