「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「方広寺」(ほうこうじ) 

2006年10月26日 09時39分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 天下を征した豊臣秀吉は、織田信長に仕えていた頃とは打って変わって次第に独裁者的権力を誇示していくようになった。その1つの象徴的事業として、天正14年(1586)、に奈良の東大寺を模した高さ約19㍍の大仏と大仏殿を東山山麓の地に建立、これが「方広寺」創設と言われるが、その10年後に地震で大破した。秀吉はすぐに大仏殿の再興を始めるが、志半ばで黄泉へと旅立った。その後、関ヶ原の戦いを経て、家康が秀頼と淀殿に寺の再興を勧めた。

 大仏、大仏殿、そして大鐘が完成したが、この大鐘が後の大坂冬の陣の引き金となってしまう。その後、寛文2年(1662)の地震で大仏殿が倒壊し、のちに造られた上半身だけの大仏も昭和48年3月に焼失。この鐘は、鋳物師大工・三条釜座(さんじょう かまんざ)の名越弥右衛門尉三昌、脇大工・芥田五郎右衛門などによって製作されたもので、日本四大鐘の1つとされ重要文化財に指定されている。他の3つは知恩院、東大寺、四天王寺にある。寂び行く当寺の大鐘は、ひっそりと栄枯盛衰の哀れさを漂わせている。

 大鐘のことを少し語っておこう。
 俗に「国家安康の鐘」と称されているこの鐘は、高さ4.5㍍、口径2.8㍍、厚さ3㌢、重量82.7㌧もある。製造は京都三条釜座の釜師、名越三昌の手によるもので、銘文は東福寺塔頭の天得院住職、文英清韓(ぶんえいせいかん)によって書かれた。「鐘銘事件」の発端となった鐘の銘文を家康に進言したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた家康の懐刀、南禅寺金地院の以心崇伝であったと伝えられている。鐘は「家康を呪詛するもの」とされているが、大坂冬の陣の理由を正当化するための言いがかりとも言われた。今でも、雨の夜には鐘の内側に秀頼を抱いた淀殿の亡霊が白いシミになって現れると言われている。本堂を拝観すると、鐘楼に入れ近くで見ると、問題の銘文が白線で囲んで示してある。

 さて、「鐘銘事件」を知らない方のために説明しおくと
 鐘銘事件とは、豊臣家滅亡の原因となった方広寺の鐘銘にまつわる事件で、鐘銘に「国家安康君臣豊楽」と刻まれており、前者「国家安康」を「家康を引き裂けば、国安し」と、後者「君臣豊楽」を「豊臣を君となし、豊臣の繁栄を楽しむ」と読み取れるとして、豊臣家に大鐘の破棄を求めたが、実のところは豊臣家、つまり大阪城を攻め落とす「言いがかり」であったと歴史家も解釈しているところで、この結果、大坂冬の陣が起こり、ついには豊臣家滅亡となっていく。
 現在も延長約九百㍍にわたって現存している「太閤石垣」は、豊太閤大仏造営に当たって21ヶ国に巨石の供出を命じた、俗に「石狩り」といわれた。
 大石垣は最初、小石で築かれたが、秀吉は「仏法も衰えれば、盗まれることもあろう」と思い、諸大名に命じて各地から巨石を集めさせた。諸大名は家紋を刻み寄進したという。
 この石垣の中でも特に有名な巨石は蒲生氏郷(がもううじさと)と加賀前田侯が運んだ2石と言われている。蒲生氏郷が献上した石は二間に四間という巨石で、容易に搬送することができなかったため、遊女を巨石に乗せ、音頭を取らせ、これを出迎えた秀吉は帷子を着て、木やり歌を歌い、笛や太鼓ではやし立てて引いたと伝えられている。また前田侯が献上した西北隅の巨石は、俗に「泣き石」と呼ばれ、その由来は秀吉の機嫌を取ろうとした前田侯が無理をして運んできたものの、あまりの重さに人夫一同が泣いたからという説や、あまりに経費がかかり過ぎて、さすがの加賀百万石の殿様もこれに泣いたからだという説などがある。

 交通:JR京都駅、市バス三十三間堂前下車、北に300㍍、徒歩5分。
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