「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「直指庵」(じきしあん)

2006年08月06日 07時59分47秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「窓近き 竹の林は  朝夕に 心をみがく 種とこそなれ」(津崎村岡)

 奥嵯峨野は牧歌的景色がいまだに残る所であり、愛宕山を借景にして四季折々の風情にひたることができる。
 梅雨には少し早い五月雨が降る土曜日、奥嵯峨野に向かって車を走らせた。
仁和寺門前の通りから福王子の交差点を大覚寺へと向かうと、右手に広沢池がある。時代劇の撮影場所としてよく使われる弁才天社の小さな祠が見える細い道を右にハンドルを切ると、そこは田園風景が広がっている。

 後宇多天皇陵に向かう道すがらに竹林が覆い尽くし、雨に打たれてうす緑の竹葉から滴がしたたり落ちていた。ここから北嵯峨の領域となる。離合が難しい小径を右に入りほどなく走らせると祥鳳山直指庵がひっそりと竹林に見え隠れしていた。同庵は大覚寺の北に位置しており、紅葉の時節ともなれば車などはもう入れないほど人の列が続く。

 天明6年(1786)の拾遺(しゆうい)都名所図会(ずえ)には、大伽藍を連ねた壮大な全景が載せられてある。臨済禅を学んだ独照性円が南禅寺栖雲庵から正保3年(1646)に北嵯峨細谷に庵を結んだのが当庵の始まりとされている。
 独照性円が明の高僧隠元に黄檗禅を学び、その隠元をここに請じてから上下の帰依者が伽藍を建立し大寺院になったと伝えられている。寛文10年(1670)、冬のなかばの夕暮れ前のこと、独照性円は庵に坐し、枯松の枝が地に落ちるのを見て大悟し、寺号をさけて直指人心の旨を守り「直指庵」と号したという。
 その後、衰退して行くが、幕末の頃、近衛家の老女・津崎村岡が再建し、浄土宗の庵寺としたものの、明治12年(1879)に京に上った留守に賊の焼き討ちに遭い焼失する。明治32年(1899)に北嵯峨の有志ちの手によって庵が整えられた。

 津崎村岡は、天明6年(1786)に嵯峨大覚寺宮の家来、津崎左京の娘として生まれ、名を矩子(のりこ)と称した。寛政10年(1798)に近衛家の侍女として仕え名を村岡と呼ばれ、後に老女の地位に昇った。
薩摩の島津斉彬(なりあきら)の養女篤姫が十三代将軍家定の側室として江戸へ向かう折、その養母となって江戸城に入った。村岡の豪放才女ぶりに将軍家定をはじめ側近たちを驚嘆させたと伝えられている。
 安政の弾圧によって、主家・近衛家が謹慎・蟄居され、村岡も投獄された。
その後、解き放たれて村岡は嵯峨の戻り直指庵を再興して籠り、風月を友として里人たちの教養に努め近衛家代々の冥福を祈った。後、明治天皇から年々十石を下賜され、明治6年(1873)8月23日88歳で寂した。
 庵の傍の石柵に囲まれた村岡の墓は自筆で「津崎氏村岡矩子」と刻まれ、降りしきる五月雨に静かに包まれていた。境内の庭は一面苔の絨毯に埋め尽くされ、その一角にポツリと据えられた岩の上に置かれた小さな地蔵が無常の世界を醸し出していた。

 京都市右京区北嵯峨北ノ段町三番地。
 交通:市バス28系統 大覚寺下車徒歩20分
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