今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

遠山の金さんの日

2005-03-02 | 歴史
今日(3月2日)は「遠山の金さんの日」
1840(天保11)年、遠山の金さんこと、遠山左衛門尉影元が北町奉行に任命された。
江戸時代の名奉行、テレビ時代劇でもお馴染みの 遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)[(寛政5年8月23日=1793年9月27日)~安政2年2月29日(1855年4月15日)]は、大岡越前の100年程後の天保年間(1840年代)に勘定奉行をへて北町奉行になった。もともと、遠山家は中堅の旗本で、本来は奉行になれるような立場ではなかったが、寛政の改革の際に優秀な人材を確保すべく行われた「学問試(がくもんおためし)」に、父親が合格して手柄を重ねたことから家柄が上がる。金さんは、次男坊でもあり、青年時代、なにか複雑な家庭環境から家を出て町屋で放蕩生活を送るが、兄が亡くなり、結果として、父親の後を継ぐこととなった。そのため、若い頃の「遊び」の経験から、庶民の気持ちを理解し、その生活をよく知っていたということは間違いなかったようで、実際に、天保改革のなかで、老中水野忠邦のブレーンの一人であったが、強行派の水野忠邦、南町奉行鳥居耀蔵とは異なり、庶民派であったようで、例えば、江戸歌舞伎三座取り潰し策には、「芝居小屋を取り潰して、反感を買うより一カ所に集めて監視した方がよい」と水野忠邦を説得し、浅草猿若町への小屋移転という比較的穏便な形に落ち着かせた。この遠山の働きに感謝した歌舞伎関係者が遠山を賞賛する意味でしきりに「遠山の金さん」ものを上演したことが、後に遠山が名奉行とされる大きな要因となったといわれている。
また、株仲間解散令でも水野忠邦と対立するなど、厳しい市中取り締まりに抵抗し、北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付になる(地位は上がったが実質的には左遷)が、2年後、南町奉行に返り咲いている。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極めて異例のことなのだそうである。映画やTVドラマなどでお馴染みの遠山の金さんは放蕩時代に彫ったといわれる「桜吹雪の刺青」で知られているが、『遠山の金さん』が有名になったのは、1893(明治2)年に中根香亭が書いた『帰雲子伝』という雑誌が最初だそうで、刺青は「花の模様」「背中に女の生首」「右腕のみ」と諸説あり、そもそも 刺青があったという記録はないそうだ。それよりも、遠山は、1841(天保12)年に刺青・彫物の禁止令を出しており、もし自分に刺青があったら、こういうお触れは出せないことから、金さんの背中には何も描かれてなかったと考えたほうが妥当で、第一、テレビや映画のように、当時お白州で罪人を裁いている時に罪人の前で刺青を見せるなどというようなことは有り得ないのだから、誰も見たものは居ない。「桜吹雪の刺青」は、テレビや映画での作り話なのであろう。
それと余談であるが、刺青の歴史は古いが、流行するようになったのは江戸後期である。滝沢馬琴も「著作堂雑記省」に明和、安栄ごろから、江戸の侠客達が体中にいれずみ(黒に京と書く)をしていたと述べている。このような刺青の流行にいっそう拍車をかけたのが北斎の「新編水滸伝」で、一勇斎国芳の勇壮な版画によって広まった。また、その後、歌舞伎などによる遠山の金さんの桜の刺青も影響したようだ。
因みに、大岡越前の日は 2月3日である。
(画像は杉良太郎「遠山の金さん」新歌舞伎座チラシ)
参考:
辞書記事
http://koneeta.hp.infoseek.co.jp/zisyokizi.html
99年度 各論 S L
http://koneeta.hp.infoseek.co.jp/99kaku13.HTM
遠山の金さん(1793-1855)
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-edo/kinsan.htm