今日(3月22日)は、「放送記念日」
日本放送協会(NHK)が1943(昭和18)年に制定。今年で放送開始80周年を迎えたことで、NHK・ラジオ第1放送では、3月19日から今日まで4日間にわたって、80周年記念の番組が放送されている。
NHK東京放送センターの前身である東京中央放送局(JOAK)が1925(大正14)年3月22日に、東京都港区芝浦の仮送信所でラジオの仮放送を開始したことを記念して制定された。同年7月12日に本放送をするようになり、日本のラジオ放送の歴史は始まった。翌1926(昭和元)年8月、東京、大阪、名古屋の3放送局が合同で設立した社団法人日本放送協会は、1951(昭和26)年9月1日に日本最初の民間放送が開局するまで、日本で唯一の放送事業体であった。世界初のラジオ放送は1920(大正9)年に、アメリカで始まり、1920年代前半には世界各国でラジオ放送が開始されたが、日本における放送誕生の動きも、そのような第一次世界大戦の動向を反映してのものだったようである。しかし、その後、1923(大正12)年の関東大震災の発生により、情報が断絶し、大きな社会不安を生み出したことから、社会的必要性も痛感し、ラジオ局開設の動きを加速させたようだ。
3月22日の東京・芝浦の仮放送所での仮放送は、送信機は東京市から、送信用のポールは逓信省、土地、建物は東京高等工芸学校からの借り物で、運営費まで借金で賄い、「借り放送」だと皮肉られたという。元々は、3月1日に放送を開始する予定だったが、購入予定の日本にたった1台しかない放送用送信機が、同じく設立準備中の大阪放送局に買い取られてしまった。そこで東京放送局は、東京電気研究所の送信機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省(後の郵政省)の検査で「放送設備は未完成のため3月1日からの放送はできない」と判断されてしまった。既に3月1日から放送を開始すると報じており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験放送」という形で逓信省の許可を受け、なんとか3月1日から放送を開始することができるようになる。そして、3月22日には逓信省から正式に免許を受けて仮放送を開始したのだという。本放送は7月12日の愛宕山から開始された。因みに、大阪放送局はその年の6月1日大阪三越屋上から仮放送を開始している。
このラジオが家庭に入ってきて、各家庭に与えた一番の変化は、それまで、ただ寝るだけの場所だった家庭が、ラジオをみんなで一緒に聞くようになったことで、家族が団欒する場所になった事である。私が子供の頃の戦中戦後も、ラジオは唯一のリアルタイムな情報源であるとともに楽しみであった。
敗戦直後には、クイズ番組「話の泉」「二十の扉」、社会風刺が売り物の「日曜娯楽版」肉親の消息を求める「尋ね人」などの番組が人気を集めていた。特に、昭和21年から始まった「のど自慢素人音楽会」は、全くの素人の歌がラジオで聞けるとあって爆発的な人気を呼んでいた。このような番組があると、家族が皆揃って、ラジオに向かって座り聞いていたのを思い出す。
ただ、この頃のラジオはよく雑音が入った。時々聞こえなくなるとラジオを叩くと鳴り出したものだ。その後、テレビに取って代わられるが、戦争で何もかもなくし、どこの家も日本中が貧乏だったが、その代り、たったのラジオ一台で一家が団欒できた時代であった。それに代え、豊かになりなんでもあるこの時代に、家族の団欒が失われ、寒々とした家庭が多くなっているのは悲しいことだね~。
(画像は、大阪放送局放送開始一周年記念絵葉書”子供が鉱石ラジオを聴いている図柄”:大正15年6月1日、大阪放送局発行)
参考:
日本放送協会(NHK) > http://www.nhk.or.jp/
Wikipedia - 放送記念日 http://ja.wikipedia.org/wiki/放送記念日
JOBK(大阪放送局)放送開始一周年記念http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-26.html
日本放送協会(NHK)が1943(昭和18)年に制定。今年で放送開始80周年を迎えたことで、NHK・ラジオ第1放送では、3月19日から今日まで4日間にわたって、80周年記念の番組が放送されている。
NHK東京放送センターの前身である東京中央放送局(JOAK)が1925(大正14)年3月22日に、東京都港区芝浦の仮送信所でラジオの仮放送を開始したことを記念して制定された。同年7月12日に本放送をするようになり、日本のラジオ放送の歴史は始まった。翌1926(昭和元)年8月、東京、大阪、名古屋の3放送局が合同で設立した社団法人日本放送協会は、1951(昭和26)年9月1日に日本最初の民間放送が開局するまで、日本で唯一の放送事業体であった。世界初のラジオ放送は1920(大正9)年に、アメリカで始まり、1920年代前半には世界各国でラジオ放送が開始されたが、日本における放送誕生の動きも、そのような第一次世界大戦の動向を反映してのものだったようである。しかし、その後、1923(大正12)年の関東大震災の発生により、情報が断絶し、大きな社会不安を生み出したことから、社会的必要性も痛感し、ラジオ局開設の動きを加速させたようだ。
3月22日の東京・芝浦の仮放送所での仮放送は、送信機は東京市から、送信用のポールは逓信省、土地、建物は東京高等工芸学校からの借り物で、運営費まで借金で賄い、「借り放送」だと皮肉られたという。元々は、3月1日に放送を開始する予定だったが、購入予定の日本にたった1台しかない放送用送信機が、同じく設立準備中の大阪放送局に買い取られてしまった。そこで東京放送局は、東京電気研究所の送信機を借り放送用に改造して使用することにしたが、2月26日の逓信省(後の郵政省)の検査で「放送設備は未完成のため3月1日からの放送はできない」と判断されてしまった。既に3月1日から放送を開始すると報じており、また、大阪放送局よりも先に日本初のラジオ放送を行いたいということで、「試験放送」という形で逓信省の許可を受け、なんとか3月1日から放送を開始することができるようになる。そして、3月22日には逓信省から正式に免許を受けて仮放送を開始したのだという。本放送は7月12日の愛宕山から開始された。因みに、大阪放送局はその年の6月1日大阪三越屋上から仮放送を開始している。
このラジオが家庭に入ってきて、各家庭に与えた一番の変化は、それまで、ただ寝るだけの場所だった家庭が、ラジオをみんなで一緒に聞くようになったことで、家族が団欒する場所になった事である。私が子供の頃の戦中戦後も、ラジオは唯一のリアルタイムな情報源であるとともに楽しみであった。
敗戦直後には、クイズ番組「話の泉」「二十の扉」、社会風刺が売り物の「日曜娯楽版」肉親の消息を求める「尋ね人」などの番組が人気を集めていた。特に、昭和21年から始まった「のど自慢素人音楽会」は、全くの素人の歌がラジオで聞けるとあって爆発的な人気を呼んでいた。このような番組があると、家族が皆揃って、ラジオに向かって座り聞いていたのを思い出す。
ただ、この頃のラジオはよく雑音が入った。時々聞こえなくなるとラジオを叩くと鳴り出したものだ。その後、テレビに取って代わられるが、戦争で何もかもなくし、どこの家も日本中が貧乏だったが、その代り、たったのラジオ一台で一家が団欒できた時代であった。それに代え、豊かになりなんでもあるこの時代に、家族の団欒が失われ、寒々とした家庭が多くなっているのは悲しいことだね~。
(画像は、大阪放送局放送開始一周年記念絵葉書”子供が鉱石ラジオを聴いている図柄”:大正15年6月1日、大阪放送局発行)
参考:
日本放送協会(NHK) > http://www.nhk.or.jp/
Wikipedia - 放送記念日 http://ja.wikipedia.org/wiki/放送記念日
JOBK(大阪放送局)放送開始一周年記念http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-26.html