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黒澤明監督の初監督作品『姿三四郎』が封切られた。

2005-03-25 | 歴史
1943年3月25日 、黒澤明監督の初監督作品『姿三四郎』が封切られた。
富田常雄の同名の柔道小説を原作に、明治のなかば、旧来の柔術と新興の柔道がせめぎあう中、青年柔道家・姿三四郎が修道館・矢野正五郎の門下生となり師の教のもとに、厳しい修行を積み、柔道を通して己を磨きながら成長していくさまをそれまでの日本映画にはなかったカラリとしたタッチで描かれている。
第二次世界大戦のさなかガダルカナルからの日本軍の撤退など、戦局が険しくなるなかで、大ヒットを記録した黒澤明監督の記念すべき初監督作品である。実在の講道館の嘉納治五郎(映画では修道館・矢野正五郎として大河内傳次郎が演じている。)とその門下生・西郷四郎(藤田進演じる姿三四郎)をモデルにしている。
黒澤明は18歳で二科展に入選、画家を目指していたが、映画の弁士をしていた兄の影響で、東宝の前身PCLに入社。山本嘉次郎監督に師事して映画を学ぶが、戦時統制の強化されるなか、演出の機会がなかった。そんななか、本当に活動写真らしいものを作りたくて撮ったという黒澤明の満を持しての作品である。ラストシーンの檜垣源之助(月形龍之介)との「右京ケ原」に於ける死闘シーンは、柔の間合いを巧みに捉えた構図を、迫力のあるカメラワークで押さえ、黒澤監督の独自性が非常によく打ち出されているといわれている。
その後、1945(昭和20)年5月に『続 姿三四郎 』が公開された。しかし、前作の大ヒット作の続編として急遽企画されたため、黒澤自身余り乗り気ではなかったといわれている。内容も、出演者もほぼ同じであるが、太平洋戦争終結間際という時節を反映してか、明治のロマンティシズムよりも闘争本能がメインになってしまっており、悪さを働くアメリカ人水兵たちを三四郎が懲らしめるといった、いかにも戦意昂揚場面もある。
この「三四郎」を題材としたものは、波島進(東映、1955年)、加山雄三(東宝、1965年※黒澤明 脚本による)、竹脇無我(松竹、1970年)、三浦友和(東宝、1977年)で再映画化されている。又、テレビでも、1963年にはフジテレビで倉丘伸太郎、1970年には、日本テレビで竹脇無我により演じられている。
1963年のフジテレビの『姿三四郎』の主題歌「姿三四郎」は村田英雄が唄い大ヒット、村田英雄の代表歌にもなっている。
人に勝つより 自分に勝てと 云われた言葉が 胸にしむ
つらい修行と 弱音を吐くな 月が笑うぞ 三四郎
いい歌で、私も好んで歌っていた。
思えば、1964(昭和39)年は、日本で初めての「東京オリンピック」のあった年であり、この年より柔道とバレーが新種目となる。日本は体操、レスリング、柔道でメダル・ラッシュ。女子バレーも圧倒的な勝利を収め「東洋の魔女」とも呼ばれた。 そして、金16 銀5銅 8を獲得。このオリンピックでのすべての競技をTV中継をしたのも、宇宙中継をしたのも東京オリンピックが最初である。そして、このことにより、女子にはバレー、男子には柔道が一大ブームとなった。
しかし、このオリンピックの柔道で、一番強い男を決める無差別級で優勝したのは、オランダのヘーシングであった。日本のお家芸である柔道が、無差別級で、オランダ人に負けたのが口惜しくて仕方のなかったことを思い出す。このヘーシングは、オリンピックにでる数年前に講道館で柔道の修行をしていた。試合前から、その大きな体から繰り出される技の凄さに日本柔道会は不安を抱えていたそうだ。それが、現実となったのである。
試合の翌日、ヘーシングは、日本柔道関係者に会い「自分が勝ってしまい、どうもすみません」とひらすら頭を下げ謝り続けたそうである。
自分を強くしてくれた日本柔道界。その人達が一番望んでいる金メダルをオランダ人の自分が獲ってしまっことで、関係者に気を使っていたのだろう。なんと、スポーツマンらしい心がけであろうか。
そして、この無差別級でヘーシングが優勝したことにより、その後、柔道は世界のスポーツとして認知され、世界に広がり、1972(昭和47)年のミュンヘンオリンピックからは正式種目となった。自分を育ててくれた恩を、ちゃんと返したといえるのではないだろうか。
この無差別級柔道では、ロサンゼルス・オリンピックで、山下泰裕選手がエジプトの代表選手ラシュワンとの決勝戦で足の怪我を克服して金メダルを勝ち取り、涙を流していたのを思い出すが、この試合でラシュワン選手は、決して山下選手の足を攻めなかった。私は、むしろ、そのことに感動をした。逆に、シドニーオリンピックでは、柔道・篠原信一選手が審判の審判ミスによって、フランスのドイエ選手に負けとされた。このとき、篠原選手は、記者団の質問に対して「自分が弱いから負けた。それだけです。ドイエはやっぱり強かった。誤審? 不満はありません。」と応えた。これも立派だった。もし、この時の相手が、ヘーシングやラシュワン選手であったら、自ら自分の負けを表明したかも知れない。しかし・・・ドイエ選手の態度は・・・、これは国民性か本人の人間性か・・・。
(画像は、黒澤監督第1作映画「姿三四郎」ポスター画絵葉書」

参考:
黒澤監督映画全30作品絵入り葉書
http://m-yousan.hp.infoseek.co.jp/room2-2.html
東京オリンピック -Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BA%94%E8%BC%AA
巨匠黒澤明の世界
http://www.sadanari.com/eiga980705_01.html