今日(3月4日)は、「円の日」である。
1869(明治2)年明治新政府は、2月5日、太政官に造幣局を設置。1870(明治3)年の今日(3月4日)新円貨定まる。(「円貨」の制度を決め、翌年、銅貨・銀貨・金貨を鋳造する。)
では何故、このときの新貨幣が「円」に定められたのか?・・・今日は、円の日に因んで円のお話を・・・。
新通貨を「円」と定めたことについては、諸説あるが、次の3説が有力な説のようである。
楕円形、方円、円形などの貨幣の形状を、すべて円形に統一することとしたので円と名づけた。
江戸時代末期に知識層等の間で、金貨の単位の「両」を「円」と呼ぶ習わしがあり(例えば、1863年佐久山象山が勝海舟に宛てた手紙の中にも「横浜にては、7~8円にて手に入り可申」云々という表現がある)、こうした呼称を明治政府が正式に採用した。
洋式近代貨幣製造のため英国香港造幣局の造幣機械を譲り受け、技術者も招いて香港銀貨と同重量、同品位の銀貨を製造することとした関係から、香港の銀貨に表示されていた単位である「圓」という呼称を採用した・・・などである。
他にも、 貨幣を造る時に、大隈重信公が「親指と人差し指で丸を作れば誰でもお金であることがわかるのだから、その形状を円いもの(円形)にする方がよい」と主張したことから、その呼称も便宜上「円」としたという説などもある。・・・。
このことは、「明治貨政考要」によっているようであるが、しかし、1869(明治2)年3月4日、大隈重信は久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び「元・銭・厘」の価名単位で建議したが、出来上がった試作貨では「一圓」になっており、大隈重信の建議から発行されるまでには、元から円に変更されたことになり、この円命名については、紆余曲折の経過で最終的に円が選ばれたようである。そのことからだろうか、この新「円貨」決定を、3月4日とするもその年度においては、「明治貨政考要」による1869(明治2)年とするものと、その1年後の1870(明治3)年としているものとがある。どちらが本当かは知らないが、ここでは、あえて、後者をとることとした。
ところで、この貨幣はどの面が表でどの面が裏だと思いますか?。
実は、貨幣の「表裏」を定める法律等はないそうだが、現在は年銘が彫られている側が「裏」、その反対を「表」という扱いをしているそうだ。
明治4年に新貨条例が決めら、発行された貨幣は全て「龍紋」(天皇の象徴として取入れ)のある方が表とされていたが、その後、旧貨幣法(明治30年)以降は様式公示に「表」「裏」の表示がなく、従って貨幣の表裏を定める法的根拠はなくなったが、一般的には菊紋のある方を表と呼ぶようになり、旧貨幣法制定後も年銘が常に裏側(菊紋のない方)にあったことから、「年銘のある方が裏」「その反対が表」という扱いをするようになり、現在に至っているそうだ。どうです?表と裏と逆なように思えませんか?
現在ある500円貨,100円貨,50円貨,10円貨,5円貨,1円は「補助貨幣」とも呼ばれていたが、1987(昭和62)年に「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」に改正されて,これらは貨幣と称されるようになり,その強制通用力は額面金額の20倍までと定められた法貨となっている。 つまり、本当は、同じ貨幣を20枚以上使えないのだよ。だから、言い換えれば、30円のものを買うのに1円30個では買えない。
この「円」は、ローマ字表示は「YEN」、「EN」ではなく「YEN」となっているのは、「EN」は外国人が発音すると「エン」より「イン」の音に近くなることから、これと区別するために母音の前に子音のYをつけて「YEN」としたのだとか。
(画像は500円硬貨)
参考:
(新)近現代・日本のお金
http://chigasakioows.cool.ne.jp/
日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
洋式新貨幣
総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/chouki/04exp.htm
money講座
http://www.capnet.or.jp/coin/09money.html
円の命名
http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/yen01.html
1869(明治2)年明治新政府は、2月5日、太政官に造幣局を設置。1870(明治3)年の今日(3月4日)新円貨定まる。(「円貨」の制度を決め、翌年、銅貨・銀貨・金貨を鋳造する。)
では何故、このときの新貨幣が「円」に定められたのか?・・・今日は、円の日に因んで円のお話を・・・。
新通貨を「円」と定めたことについては、諸説あるが、次の3説が有力な説のようである。
楕円形、方円、円形などの貨幣の形状を、すべて円形に統一することとしたので円と名づけた。
江戸時代末期に知識層等の間で、金貨の単位の「両」を「円」と呼ぶ習わしがあり(例えば、1863年佐久山象山が勝海舟に宛てた手紙の中にも「横浜にては、7~8円にて手に入り可申」云々という表現がある)、こうした呼称を明治政府が正式に採用した。
洋式近代貨幣製造のため英国香港造幣局の造幣機械を譲り受け、技術者も招いて香港銀貨と同重量、同品位の銀貨を製造することとした関係から、香港の銀貨に表示されていた単位である「圓」という呼称を採用した・・・などである。
他にも、 貨幣を造る時に、大隈重信公が「親指と人差し指で丸を作れば誰でもお金であることがわかるのだから、その形状を円いもの(円形)にする方がよい」と主張したことから、その呼称も便宜上「円」としたという説などもある。・・・。
このことは、「明治貨政考要」によっているようであるが、しかし、1869(明治2)年3月4日、大隈重信は久世喜弘と共に新貨幣制度を円形貨幣にすること及び「元・銭・厘」の価名単位で建議したが、出来上がった試作貨では「一圓」になっており、大隈重信の建議から発行されるまでには、元から円に変更されたことになり、この円命名については、紆余曲折の経過で最終的に円が選ばれたようである。そのことからだろうか、この新「円貨」決定を、3月4日とするもその年度においては、「明治貨政考要」による1869(明治2)年とするものと、その1年後の1870(明治3)年としているものとがある。どちらが本当かは知らないが、ここでは、あえて、後者をとることとした。
ところで、この貨幣はどの面が表でどの面が裏だと思いますか?。
実は、貨幣の「表裏」を定める法律等はないそうだが、現在は年銘が彫られている側が「裏」、その反対を「表」という扱いをしているそうだ。
明治4年に新貨条例が決めら、発行された貨幣は全て「龍紋」(天皇の象徴として取入れ)のある方が表とされていたが、その後、旧貨幣法(明治30年)以降は様式公示に「表」「裏」の表示がなく、従って貨幣の表裏を定める法的根拠はなくなったが、一般的には菊紋のある方を表と呼ぶようになり、旧貨幣法制定後も年銘が常に裏側(菊紋のない方)にあったことから、「年銘のある方が裏」「その反対が表」という扱いをするようになり、現在に至っているそうだ。どうです?表と裏と逆なように思えませんか?
現在ある500円貨,100円貨,50円貨,10円貨,5円貨,1円は「補助貨幣」とも呼ばれていたが、1987(昭和62)年に「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」に改正されて,これらは貨幣と称されるようになり,その強制通用力は額面金額の20倍までと定められた法貨となっている。 つまり、本当は、同じ貨幣を20枚以上使えないのだよ。だから、言い換えれば、30円のものを買うのに1円30個では買えない。
この「円」は、ローマ字表示は「YEN」、「EN」ではなく「YEN」となっているのは、「EN」は外国人が発音すると「エン」より「イン」の音に近くなることから、これと区別するために母音の前に子音のYをつけて「YEN」としたのだとか。
(画像は500円硬貨)
参考:
(新)近現代・日本のお金
http://chigasakioows.cool.ne.jp/
日本銀行金融研究所 貨幣博物館
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
洋式新貨幣
総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/chouki/04exp.htm
money講座
http://www.capnet.or.jp/coin/09money.html
円の命名
http://www5a.biglobe.ne.jp/~otukai/yen01.html