今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

桜田門外の変

2005-03-24 | 歴史
1860年3月24日(安政7年3月3日)は、井伊直弼が、江戸城桜田門外で関鉄之介が指揮する18人の浪士に暗殺された日。(桜田門外の変)。井伊直弼<46歳>[誕生:1815(文化12年)10月29日]。
この時代はアメリカ合衆国から使節のペリーが来て開国を求めたことをきっかけに、国内では、開国か攘夷かで人々が争い、騒がしかったが、このような状況下で井伊直弼は攘夷派の水戸斉昭を解任し、強行に開国路線を推し進めた。このことにより、開国に反対する水戸藩主・徳川斎昭をはじめとする攘夷派の大広間詰外様大名一派と開国論派の井伊ら溜間詰諸大名(老中経験者などの上級譜代大名)との対立は先鋭化しこの2派の対立は、廃人同様だったといわれる第十三代将軍家定の継嗣問題を契機に一段と激化、政争の焦点が、外交問題から内政問題へ移行。両派とも調停工作など推し進めていたが、その暗闘のなか井伊らの南紀派(紀州藩徳川慶富推進派)の策謀が功を奏した。井伊は大老になり、独断専行で慶富を将軍継嗣に決定するとともに、1859(安政5)年、天皇の許しを得ないままハリスとの日米修好通商条約を取り決めた。継嗣問題で一敗地にまみれた一橋派(斉昭の第七子・一橋慶喜擁立派)は、井伊の違勅調印を理由にいっせいに、井伊攻撃に立ち上がった。「違勅」にたいしては、「尊王」を、「開国」に対しては、攘夷」を唱え、ここに「尊王攘夷」が、反井伊・反幕府のスローガンとなった。孝明天皇も激怒し、攘夷の意向をしめし、条約調印に不満を示す勅諚(ちょくじょう)=戊午(ぼご)の密勅を水戸藩へ下した。このような事態に、幕府の危機を感じた井伊は、徹底的な弾圧策をとった。これを「安政の大獄」というが、この弾圧で切腹、死罪を命じられたものに水戸藩家老安島帯刀、越前藩土橋本佐内や儒学者頼三樹三郎、吉田松陰などの名が見られるという。
この暗殺事件は、井伊直弼が行った安政の大獄による弾圧、又、同じく井伊直弼が戊午の密勅事件で水戸藩に下された勅許の返還を強く迫ったことなどに対する反感から起きたものであった。
事件当日の旧暦安政7年3月3日は、3月18日に万延と改元されたため、万延元年3月3日である。この日は上巳の節句で、江戸に居る大名は総て登城するきまりがあった。現代のように、情報の少なかった当時としては、確実に井伊直弼が登城する日を選んだのであろう。早朝、愛宕山に集合した水戸浪士17人、薩摩浪士1名の18名は、季節はずれの雪が降る中、江戸城桜田門外の井伊家屋敷を出た直弼の乗る駕篭が桜田門にさしかかった時に襲撃し、井伊直弼を暗殺した。しかし、浪士のもっていた書状には「幕府政治を改めるのが目的であった」とあり、浪士にはまだ「倒幕」という意識はなく単に反幕府だった。しかし、天下の大老が白昼いとも簡単に討たれたことは、幕府の威信失墜を広く世間に印象づけることとなり、 この事件によって、尊王攘夷を志す浪士たちの倒幕意識に日をつけた格好になってしまったのである。
もともと、アメリカから開国を迫られた時に対立していた、鎖国=攘夷論と開国=通商論とは、その時点では、決して本質的に異なるものはなく、前者が、即時開戦の困難を知りながら幕藩体制をの危機の深刻さの故に非常手段の中に活路を見出そうとしたのに対し、後者は、当面の危機の一応の回避を狙ったものといった違いに他ならなかった。
この事件は、結果的に、もともとは、幕府政治の改革を目指した尊王攘夷運動が、倒幕運動に転換してゆく前兆の事件となっってしまった。
些細な意見の相違などが、いつの間にか、本質から離れたところでの争いへと変っていくことがよくある。先のアメリカによるイラク攻撃も当初の目的が途中から変化していっているが・・・ちょっと、質は違うな~。
参考:
桜田門外の変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
桜田門外の変
http://homepage2.nifty.com/mazzn/491494.htm
http://homepage2.nifty.com/mazzn/491494.htm