今日(3月26日)は、「カチューシャの歌の日」
1914(大正3)年、日本新劇の父といわれている島村抱月と松井須磨子が起こした芸術座が、トルストイの『復活』の初演を行った。この中で松井須磨子が歌った劇中歌「カチューシャの歌」が大流行した。
カチューシャかわいや
わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願ひを(ララ)かけましょか・・・
主人公である娘カチューシャが、貴族の青年ネフリュードフと楽しく遊んだ頃の回顧シーンに、この悲しくもロマンチックな歌が登場する。カチューシャはその後、娼婦となり、ネフリュードフはその彼女を裁く陪審員となる。
懐かしい歌ですね~。ここでは、カチューシャの歌のMIDIを歌詞を見ながら聞けますよ。若い人などは、自分たちの知っているロシア民謡のカチューシャの歌と違うじゃないかと思っている人もいるのでは・・・。
この歌は、日本語版カチューシャとも言われているもので、島村抱月は渡欧中、ロンドンでトルストイの「復活」の舞台に劇中歌が歌われ評判になっているのを観ており、1913(大正2)年に松井須磨子らと、芸術座を新設。芸術的な成果を目標としながら新劇の大衆化を意図していたが、軌道になかなかのらない芸術座の起死回生をかけて、劇中に主題歌を入れる方式を試み、これが大成功を収めたのである。
作詞は抱月自身が台本執筆中に1番の歌詞を作詞し、2番以降を弟子の相馬御風に託し、作曲は抱月宅の書生をしていて当時まだ無名であった中山晋平に依頼した。だから、中山晋平にとって、この歌が実質上のデビュー作となるのである。この時代、先端的な人たちは、大正モダニズムの中で、ロシア民謡やオペラのアリア、英語の歌を口ずさみ、「モダーン」な娯楽として蓄音機・レコードを楽しんでいた。そして、日本の歌謡曲第1号とも言われる大正時代の大ヒット曲は、翌大正4年にレコード化され売り上げは2万枚強にも及んだといわれている。大正モダニズムのこの切ない雰囲気が人々の心をとらえているのだと思う。
大正時代を代表する女優、松井須磨子は、二度の離婚後に女優となった当時としては新しい女である。世界中に女性解放の渦を巻き起こしたイプセンの「人形の家」(島村抱月訳・演出、1911年文芸協会初演)の主人公ノラを演じ、女優の時代が日本にも来たことをその自然な演技で示した。女役者市川九女八や貞奴とは異なり、須磨子は坪内逍遥の主宰する文芸協会付属演劇研究所で俳優として養成された女優である。須磨子は、ここで出会った15歳も年上で妻子もある島村抱月(早大教授もしていた)といつしか恋仲となった。協会内の恋愛を禁じていた坪内逍遥は困っていたが、二人の恋愛は新聞紙上でまで騒がれ、松井須磨子は文芸協会から退会を命ぜられる。抱月は早稲田大学教授の名誉も地位も、そして妻子までも捨てて須磨子を追い、二人で芸術座を設立したのである。正に須磨子も抱月もこの時代の新しい女と男であった。この「復活」は大成功を収め444回もの公演を重ねた。しかし、須磨子は1919(大正8)年1月5日、スペイン風邪で急逝(前年年11月5日)した抱月の後を追って人生の幕を自ら下ろした。 33歳の短い一生であった。
(画像は、「20世紀デザイン切手」シリーズより、「カチューシャの歌」楽譜表紙絵と松井須磨子・島村抱月の肖像。楽譜は当時、作曲者の中山晋平が発行したもので表紙の題字とイラストは竹久夢二画。須磨子著「牡丹刷毛」(大正3年発行)に掲載された写真で、「復活」の舞台姿。抱月の肖像は、相馬御風記念館所蔵のもの)
参考:
早稲田と演劇(島村抱月と「芸術座」)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/column/05/clm05-04.htm
日々激動46 松井須磨子 ・恋人の抱月追い命日に死出の旅
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040817.html
女優松井須磨子自殺
http://www.c20.jp/1919/01sumak.html
カチューシャの唄 - 島村抱月 相馬御風/中山晋平
http://www.d-score.com/ar/A03042501.html
二木絃三のMIDI・歌声喫茶
1914(大正3)年、日本新劇の父といわれている島村抱月と松井須磨子が起こした芸術座が、トルストイの『復活』の初演を行った。この中で松井須磨子が歌った劇中歌「カチューシャの歌」が大流行した。
カチューシャかわいや
わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願ひを(ララ)かけましょか・・・
主人公である娘カチューシャが、貴族の青年ネフリュードフと楽しく遊んだ頃の回顧シーンに、この悲しくもロマンチックな歌が登場する。カチューシャはその後、娼婦となり、ネフリュードフはその彼女を裁く陪審員となる。
懐かしい歌ですね~。ここでは、カチューシャの歌のMIDIを歌詞を見ながら聞けますよ。若い人などは、自分たちの知っているロシア民謡のカチューシャの歌と違うじゃないかと思っている人もいるのでは・・・。
この歌は、日本語版カチューシャとも言われているもので、島村抱月は渡欧中、ロンドンでトルストイの「復活」の舞台に劇中歌が歌われ評判になっているのを観ており、1913(大正2)年に松井須磨子らと、芸術座を新設。芸術的な成果を目標としながら新劇の大衆化を意図していたが、軌道になかなかのらない芸術座の起死回生をかけて、劇中に主題歌を入れる方式を試み、これが大成功を収めたのである。
作詞は抱月自身が台本執筆中に1番の歌詞を作詞し、2番以降を弟子の相馬御風に託し、作曲は抱月宅の書生をしていて当時まだ無名であった中山晋平に依頼した。だから、中山晋平にとって、この歌が実質上のデビュー作となるのである。この時代、先端的な人たちは、大正モダニズムの中で、ロシア民謡やオペラのアリア、英語の歌を口ずさみ、「モダーン」な娯楽として蓄音機・レコードを楽しんでいた。そして、日本の歌謡曲第1号とも言われる大正時代の大ヒット曲は、翌大正4年にレコード化され売り上げは2万枚強にも及んだといわれている。大正モダニズムのこの切ない雰囲気が人々の心をとらえているのだと思う。
大正時代を代表する女優、松井須磨子は、二度の離婚後に女優となった当時としては新しい女である。世界中に女性解放の渦を巻き起こしたイプセンの「人形の家」(島村抱月訳・演出、1911年文芸協会初演)の主人公ノラを演じ、女優の時代が日本にも来たことをその自然な演技で示した。女役者市川九女八や貞奴とは異なり、須磨子は坪内逍遥の主宰する文芸協会付属演劇研究所で俳優として養成された女優である。須磨子は、ここで出会った15歳も年上で妻子もある島村抱月(早大教授もしていた)といつしか恋仲となった。協会内の恋愛を禁じていた坪内逍遥は困っていたが、二人の恋愛は新聞紙上でまで騒がれ、松井須磨子は文芸協会から退会を命ぜられる。抱月は早稲田大学教授の名誉も地位も、そして妻子までも捨てて須磨子を追い、二人で芸術座を設立したのである。正に須磨子も抱月もこの時代の新しい女と男であった。この「復活」は大成功を収め444回もの公演を重ねた。しかし、須磨子は1919(大正8)年1月5日、スペイン風邪で急逝(前年年11月5日)した抱月の後を追って人生の幕を自ら下ろした。 33歳の短い一生であった。
(画像は、「20世紀デザイン切手」シリーズより、「カチューシャの歌」楽譜表紙絵と松井須磨子・島村抱月の肖像。楽譜は当時、作曲者の中山晋平が発行したもので表紙の題字とイラストは竹久夢二画。須磨子著「牡丹刷毛」(大正3年発行)に掲載された写真で、「復活」の舞台姿。抱月の肖像は、相馬御風記念館所蔵のもの)
参考:
早稲田と演劇(島村抱月と「芸術座」)
http://www.littera.waseda.ac.jp/sobun/column/05/clm05-04.htm
日々激動46 松井須磨子 ・恋人の抱月追い命日に死出の旅
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040817.html
女優松井須磨子自殺
http://www.c20.jp/1919/01sumak.html
カチューシャの唄 - 島村抱月 相馬御風/中山晋平
http://www.d-score.com/ar/A03042501.html
二木絃三のMIDI・歌声喫茶