1993(平成5)年の今日(8月9日)は自民党が破れ「 細川内閣」が成立した日。
細川内閣は、1993(平成5)年8月9日に第79代内閣総理大臣細川護熙によって組閣された内閣である。55年体制以来初の非自民連立政権(共産党を除く)。1994(平成6)年4月25日総辞職。
海部俊樹首相は政治改革(選挙制度改革)に熱心であったが、政治改革をテーマに解散・総選挙を行う決意を固めたことが最高実力者の金丸信氏の逆鱗に触れ、退陣に追い込まれた。
1989(平成元)年、リクルート事件が発覚し竹下内閣は総辞職、竹下氏は謹慎した。最大派閥の会長である金丸氏は「キングメーカー」として大きな力を持つようになっていた。1991(平成3)年10月の自民党総裁選では派内の異論を押し切って後任に宮沢喜一氏を指名した。金丸氏は竹下派七奉行の中でも特に小沢一郎氏に目をかけ、1989(平成元)年8月、竹下氏の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢氏の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢氏重用は派内のベテラン議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
1992(平成4)年、東京佐川急便事件を巡り金丸氏が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢一郎氏は竹下派七奉行のうち金丸氏に近かった渡部恒三氏、奥田敬和氏らとともに羽田孜氏を擁立し、竹下直系の小渕恵三氏を推す橋本龍太郎、梶山静六氏らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下氏自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕氏に内定した。政争に敗れた小沢氏は羽田、渡部、奥田氏らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田・小沢派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山氏が就任したことで、羽田・小沢派は反主流派に転落した。小沢氏はこの苦境を覆すために、持論であった政治改革の主張を前面に立てて、自らを「改革派」と呼び、主流派には「守旧派」とレッテルを貼って世論の支持を獲得しようとした。
また、1992(平成4)年5月、前熊本県知事細川護煕氏は雑誌『文藝春秋』に「『自由社会連合』結党宣言」を発表し、新党結成に動いた。そして、党名を公募し、「日本新党」に決定。同年5月から7月にかけては、参議院選挙比例区に公認候補17人を擁立した。同年7月26日、第16回参院選で約315万票(7.73%)を獲得し、ミニ政党としては過去最多の4議席を獲得。日本新党は、政治改革の流れの中で無党派層の支持を獲得し、55年体制崩壊をもたらした「新党ブーム」のいわば火付け役となった。 1993(平成5)年1月、新潟県白根市長選では日本新党の単独推薦候補者が、自民・社会両党の推薦候補者を破って当選を果たし、地方でもその人気の高さを示した。
宮沢氏は、政治改革の実現を強くアピールするも、実行力に欠き、政治責任を激しく追及され、野党から宮沢内閣不信任案が上程される。
そして、1993(平成5)年6月18日、衆議院本会議場では・・・。
自民党羽田・小沢派ら自民党議員が壇上に上がり、宮沢内閣不信任案に賛成の白票を投じるたびに、野党席からは大きな拍手がわく。羽田派以外の自民党議員の中にも白票を投じる者がいる。テレビでは38年間続いた自民党一党支配が崩壊していく歴史的瞬間をリアルタイムで全国に放送した。 そして、宮沢内閣に対する不信任案が可決(賛成255・反対220)し、宮沢内閣は衆議院を解散した。
6月21日には、武村正義、田中秀征氏らが自民党離党、新党さきがけを結成。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党が結成された。
6月27日、日本新党 は、都議選では22人の公認候補者を擁立し、初めての本格的な地方選に挑んだ。その結果、20人の当選を果たし、推薦を含めて27人と都議会の第3勢力に躍り出た。
1993(平成5)年7月、第40回衆院選に際し、日本新党 は追加公認を含めて57人を擁立、35人の当選を果たした。又、衆議院選挙に際し、細川護煕・小池百合子両氏は参議院から衆議院に転出、当選を果たした。選挙後、新党さきがけと衆院統一会派「さきがけ日本新党」を組み、52人の第5勢力となった。
7月18日 衆院選・投開票の結果、自民党は過半数割れとなる。 宮沢首相の早期退陣を求める小泉郵政大臣は7月20日、選挙後の宮沢首相の進退問題の対応を批判し辞任。7月29日 非自民7党1会派が連立政権発足への政策合意に調印 。8月6日 首班指名投票の結果、細川護煕氏262票、7月30日自民党総裁選で新総裁となった河野洋平氏224票で敗れる。そして、8月10日の今日、細川内閣(7党1会派の連立政権)が成立したのである。日本新党の細川護煕首相の誕生したこの日、まさに日本の戦後史に、一つの幕が下ろされ、同時に、新しい時代に向けて歩むことを国民は期待したのであるが・・・。
皮肉にも政治改革の実現は、非自民連立政権の結束を弱めることになり、小沢一郎氏、大蔵事務次官・斎藤次郎氏のラインに乗って発表した「国民福祉税」構想は、与党内でも批判を浴び取り下げざるを得なくなった。その後、細川護煕氏は自らの金銭スキャンダルが自民党によって取り上げられる中、1994(平成6)年4月、政権を投げ出すような形で電撃的に内閣総理大臣を辞職する。それにともなって、新党さきがけは日本新党との統一会派を解消した。これは細川政権内の小沢一郎氏と武村正義氏の政治路線に関する対立によるものだった。その後、前原誠司氏ら親党さきがけの日本新党議員は離党していくことになる。
1994(平成6)年10月、小選挙区制導入にともなう二大政党政治の実現に向けて、羽田孜氏の率いる新生党などと合流するため、党大会において解党を決定、同年12月、政権についてたった250日後に日本新党は解党してしまった。細川護煕氏ら日本新党所属の議員の多くは新進党に参加した。 細川護熙氏は近衛文麿の外孫で、祖父と孫が共に首相となったのは近衛・細川がはじめてであった。結局、マスメディア受けする毛並みの良い細川護煕氏は、権謀術数に長けた脚本・演出家小沢一郎氏の役者でしかなかなかったのか?
当時、宮沢首相の早期退陣を求めた小泉 純一郎郵政大臣は自らも辞任したが、彼は、郵政省が税制改正で要求してる「老人等の少額貯蓄非課税制度(通称・老人マル優)」の限度額引き上げに関して、「老人マル優と福祉を混同してはならない。今引き上げる必要は無い」と発言。郵政民営化にも言及するなど、自民党の政策とは全く違う発言を連発、異端者ぶりを発揮。その彼が、今は、内閣総理大臣となり、自民党内の抵抗勢力と対決しながらの政治改革への取り組みも半ばで、9月の任期で退陣しようとしている。
今年(2006年)4月、民主党が「ライブドア絡みの偽メール事件」で崩壊しつつある中、自由党の時以来、小沢一郎氏が民主党の「党首」になった。
この小沢氏を自民党時代一番買っていた人物が、政界のドンといわれた金丸信氏であった。
金丸氏は、1990(平成2)年、日本社会党のツテを頼り田辺誠氏らと訪朝団を編成。団長として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問する。このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。後の金丸氏の脱税捜査の際に発見された無刻印の金の延べ棒数億円分はこの時北朝鮮から貰ったのではないかとする疑惑もあるといわれている。この約束は帰国後批判を浴び、自民党の承認を得られず反故とされる。このとき1983(昭和58)年に、北朝鮮兵士・閔洪九(みん・ほんぐ)の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。
今、自民党では、小泉氏が首相になってから、初めて、北朝鮮を訪問し日本人拉致問題が表舞台に出てきて、その返還問題がクローズアップされている。しかし、、この「第十八富士山丸」事件の時に既に、日本人拉致問題がわかっていたにもかかわらず、日本外務省・政府は、人権問題として扱わずに隠蔽していた可能性がある。
金丸氏は1992(平成3)年東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚し党副総裁を辞任、事態の収拾を図った。しかし世論の反発が強く10月に衆議院議員を辞職。東京地検に政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。東京地検はこれにより、世間からすさまじい批判を受ける。また異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きいが、前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。一方、東京国税局は、金丸信氏の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、当時の日本債券信用銀行(日債銀)のワリシン(割引金融債)の一部が申告されていない(日債銀内では、金丸のことを”蟷螂紳士”との符号で呼び、申告漏れに協力していた)事実を突き止めた。1993(平成4)年3月6日、東京地検は金丸氏本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。(金丸信 - Wikipediaより)
小沢氏に担がれる形で、55年体制をはじめて打ち破り、内閣総理大臣となった細川護煕氏は、従来の自民党にない新鮮さで、ひょっとしたら、日本を根本的に変えてくれるのではないかと国民に思わせたのである。 しかし特に、佐川事件問題解決に執着することもなく、あっさりと政権を投げ出してしまった。これを、潔いと見るか無責任と見るかは、議論が分かれるだろうが、彼に期待した多くの人間には、失望感を与えた。 この後、あろう事か、「社会党」と自民党が手を組むという不思議な事態が起こり、所詮、政権政党となった「社会党」はいままで反対だった自衛隊を容認することになるが、基本的になんでも反対政党であり、真剣に日本の方向性を示すだけの能力などなく、あの阪神淡路大震災では、なすすべもなく大量の死者を出してしまう。あの震災があったときに、周りの人からなにもしなくていいのですかと 注意されながら会議をなさっていた白い間髭が取り柄だけのおじいさんが時の総理大臣であったことを神戸市民は本当に不幸だったと思っている。
今の小泉政権も改革改革と大合唱をして、多くの小泉チルドレンを当選させたものの、任期中の実績を振り返ってみるとその実、どの程度の改革が出来たのか・・・?この9月には、自民党総裁選が行われる。恐らく安部氏が勝つのだろう。そして、来年、参議院選が行われる。ここが勝負である。国民としては、自民党に対抗できる政党の出現、2大政党制が実現し、国民の期待にこたえられない政党に、政権を委ねられるようになることを期待したいところだが、さて、どうなるのだろうか?民主党の小沢氏には単に血統が良く見てくれだけの大根役者であった細川元首相ほどの人気もないし、人気では、自民党の安倍晋三氏には勝てないものね~。先日のボクシングではあの品のないスポーツマンとしては如何と思う亀田選手が、どこかの番組の演出効果で親子愛をうたい、その彼を応援するボクシングもわからないギャルのたちの応援を得て、内容では負けている試合に勝った。民主義の国では、政治のわからない人が単に格好が良いとか言うだけで選ぶ人にも真剣に政策で選んでいる人と同じ一票を投票する権利を有している。税金を全く払っていない人でも、ものすごく税金を払っている人と同じく福祉、福祉といって1票を投じる権利がある。此処に民主主義の理想と矛盾もある。しかし、もし、このまま、いつまでも自民党政権に代われるだけの政権担当能力を有する政党が現れない限り、本当の意味での政治改革も行政改革も出来ないであろう。政治が悪いということは、結局それを選んだ、国民自身がわるいことを理解すべきであろう。
(画像が、1994年4月25日。総辞職し首相官邸を去る細川護煕元首相と武村正義元官房長官。総辞職の理由は「新年度予算の成立が大幅に送れている政治責任に加え、私自身の問題に関わる道義的責任を明確にすることが、政治の最高指導者としてとるべき道」・・。週刊20世紀・朝日クロニクルより)・・格好良い・・?。)
参考:
細川内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%86%85%E9%96%A3
東京佐川急便事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage119.htm
元北朝鮮兵士が一時脱走 宇都宮
http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC04%5CBinn%5CDassou.htm
北朝鮮抑留第十八富士山丸事件の真相
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6030890/top.html
現代コリアコラム 「寺越武志さん拉致事件隠蔽-・・・」
http://www.modern-korea.net/column/total/19970624.html
『「拉致」異論』太田昌国さん招き公開講座
http://www.jrcl.net/web/frame031117b.html
2005年森田実政治日誌[78]
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C0969.HTML
小沢一郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E
内閣支持率の全体的推移・時事世論調査に見る内閣支持率の推移(1989-2004)
http://www.crs.or.jp/56912.htm
内閣総理大臣記者会見
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/PI/index.html
細川内閣は、1993(平成5)年8月9日に第79代内閣総理大臣細川護熙によって組閣された内閣である。55年体制以来初の非自民連立政権(共産党を除く)。1994(平成6)年4月25日総辞職。
海部俊樹首相は政治改革(選挙制度改革)に熱心であったが、政治改革をテーマに解散・総選挙を行う決意を固めたことが最高実力者の金丸信氏の逆鱗に触れ、退陣に追い込まれた。
1989(平成元)年、リクルート事件が発覚し竹下内閣は総辞職、竹下氏は謹慎した。最大派閥の会長である金丸氏は「キングメーカー」として大きな力を持つようになっていた。1991(平成3)年10月の自民党総裁選では派内の異論を押し切って後任に宮沢喜一氏を指名した。金丸氏は竹下派七奉行の中でも特に小沢一郎氏に目をかけ、1989(平成元)年8月、竹下氏の反対を押し切って47歳の若さで自民党幹事長に就任させるなど、小沢氏の強力な後ろ盾となったが、七奉行の中で最年少の小沢氏重用は派内のベテラン議員の反発を招くことになり、後の竹下派分裂の引き金となった。
1992(平成4)年、東京佐川急便事件を巡り金丸氏が世論から激しい批判を受け、派閥会長を辞任、議員辞職した。後継会長に小沢一郎氏は竹下派七奉行のうち金丸氏に近かった渡部恒三氏、奥田敬和氏らとともに羽田孜氏を擁立し、竹下直系の小渕恵三氏を推す橋本龍太郎、梶山静六氏らと対立。当初中立であった参院竹下派に派閥オーナーである竹下氏自らが関与して小渕支持を決定、この結果として後継会長は小渕氏に内定した。政争に敗れた小沢氏は羽田、渡部、奥田氏らと改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし、派閥は分裂した。
宮沢喜一改造内閣での羽田・小沢派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山氏が就任したことで、羽田・小沢派は反主流派に転落した。小沢氏はこの苦境を覆すために、持論であった政治改革の主張を前面に立てて、自らを「改革派」と呼び、主流派には「守旧派」とレッテルを貼って世論の支持を獲得しようとした。
また、1992(平成4)年5月、前熊本県知事細川護煕氏は雑誌『文藝春秋』に「『自由社会連合』結党宣言」を発表し、新党結成に動いた。そして、党名を公募し、「日本新党」に決定。同年5月から7月にかけては、参議院選挙比例区に公認候補17人を擁立した。同年7月26日、第16回参院選で約315万票(7.73%)を獲得し、ミニ政党としては過去最多の4議席を獲得。日本新党は、政治改革の流れの中で無党派層の支持を獲得し、55年体制崩壊をもたらした「新党ブーム」のいわば火付け役となった。 1993(平成5)年1月、新潟県白根市長選では日本新党の単独推薦候補者が、自民・社会両党の推薦候補者を破って当選を果たし、地方でもその人気の高さを示した。
宮沢氏は、政治改革の実現を強くアピールするも、実行力に欠き、政治責任を激しく追及され、野党から宮沢内閣不信任案が上程される。
そして、1993(平成5)年6月18日、衆議院本会議場では・・・。
自民党羽田・小沢派ら自民党議員が壇上に上がり、宮沢内閣不信任案に賛成の白票を投じるたびに、野党席からは大きな拍手がわく。羽田派以外の自民党議員の中にも白票を投じる者がいる。テレビでは38年間続いた自民党一党支配が崩壊していく歴史的瞬間をリアルタイムで全国に放送した。 そして、宮沢内閣に対する不信任案が可決(賛成255・反対220)し、宮沢内閣は衆議院を解散した。
6月21日には、武村正義、田中秀征氏らが自民党離党、新党さきがけを結成。 この事は羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党が結成された。
6月27日、日本新党 は、都議選では22人の公認候補者を擁立し、初めての本格的な地方選に挑んだ。その結果、20人の当選を果たし、推薦を含めて27人と都議会の第3勢力に躍り出た。
1993(平成5)年7月、第40回衆院選に際し、日本新党 は追加公認を含めて57人を擁立、35人の当選を果たした。又、衆議院選挙に際し、細川護煕・小池百合子両氏は参議院から衆議院に転出、当選を果たした。選挙後、新党さきがけと衆院統一会派「さきがけ日本新党」を組み、52人の第5勢力となった。
7月18日 衆院選・投開票の結果、自民党は過半数割れとなる。 宮沢首相の早期退陣を求める小泉郵政大臣は7月20日、選挙後の宮沢首相の進退問題の対応を批判し辞任。7月29日 非自民7党1会派が連立政権発足への政策合意に調印 。8月6日 首班指名投票の結果、細川護煕氏262票、7月30日自民党総裁選で新総裁となった河野洋平氏224票で敗れる。そして、8月10日の今日、細川内閣(7党1会派の連立政権)が成立したのである。日本新党の細川護煕首相の誕生したこの日、まさに日本の戦後史に、一つの幕が下ろされ、同時に、新しい時代に向けて歩むことを国民は期待したのであるが・・・。
皮肉にも政治改革の実現は、非自民連立政権の結束を弱めることになり、小沢一郎氏、大蔵事務次官・斎藤次郎氏のラインに乗って発表した「国民福祉税」構想は、与党内でも批判を浴び取り下げざるを得なくなった。その後、細川護煕氏は自らの金銭スキャンダルが自民党によって取り上げられる中、1994(平成6)年4月、政権を投げ出すような形で電撃的に内閣総理大臣を辞職する。それにともなって、新党さきがけは日本新党との統一会派を解消した。これは細川政権内の小沢一郎氏と武村正義氏の政治路線に関する対立によるものだった。その後、前原誠司氏ら親党さきがけの日本新党議員は離党していくことになる。
1994(平成6)年10月、小選挙区制導入にともなう二大政党政治の実現に向けて、羽田孜氏の率いる新生党などと合流するため、党大会において解党を決定、同年12月、政権についてたった250日後に日本新党は解党してしまった。細川護煕氏ら日本新党所属の議員の多くは新進党に参加した。 細川護熙氏は近衛文麿の外孫で、祖父と孫が共に首相となったのは近衛・細川がはじめてであった。結局、マスメディア受けする毛並みの良い細川護煕氏は、権謀術数に長けた脚本・演出家小沢一郎氏の役者でしかなかなかったのか?
当時、宮沢首相の早期退陣を求めた小泉 純一郎郵政大臣は自らも辞任したが、彼は、郵政省が税制改正で要求してる「老人等の少額貯蓄非課税制度(通称・老人マル優)」の限度額引き上げに関して、「老人マル優と福祉を混同してはならない。今引き上げる必要は無い」と発言。郵政民営化にも言及するなど、自民党の政策とは全く違う発言を連発、異端者ぶりを発揮。その彼が、今は、内閣総理大臣となり、自民党内の抵抗勢力と対決しながらの政治改革への取り組みも半ばで、9月の任期で退陣しようとしている。
今年(2006年)4月、民主党が「ライブドア絡みの偽メール事件」で崩壊しつつある中、自由党の時以来、小沢一郎氏が民主党の「党首」になった。
この小沢氏を自民党時代一番買っていた人物が、政界のドンといわれた金丸信氏であった。
金丸氏は、1990(平成2)年、日本社会党のツテを頼り田辺誠氏らと訪朝団を編成。団長として朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問する。このとき自民党の代表として国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、朝鮮労働党の3党で交した。後の金丸氏の脱税捜査の際に発見された無刻印の金の延べ棒数億円分はこの時北朝鮮から貰ったのではないかとする疑惑もあるといわれている。この約束は帰国後批判を浴び、自民党の承認を得られず反故とされる。このとき1983(昭和58)年に、北朝鮮兵士・閔洪九(みん・ほんぐ)の亡命事件に関連して北朝鮮にスパイとして拿捕され7年間服役していた「第十八富士山丸」の日本人紅粉勇船長と栗浦好雄機関長の2名の釈放・帰国についても合意し、こちらは実行された。
今、自民党では、小泉氏が首相になってから、初めて、北朝鮮を訪問し日本人拉致問題が表舞台に出てきて、その返還問題がクローズアップされている。しかし、、この「第十八富士山丸」事件の時に既に、日本人拉致問題がわかっていたにもかかわらず、日本外務省・政府は、人権問題として扱わずに隠蔽していた可能性がある。
金丸氏は1992(平成3)年東京佐川急便から5億円のヤミ献金が発覚し党副総裁を辞任、事態の収拾を図った。しかし世論の反発が強く10月に衆議院議員を辞職。東京地検に政治資金規正法違反で略式起訴され、東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。東京地検はこれにより、世間からすさまじい批判を受ける。また異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きいが、前科一犯が確定したため、叙勲を受ける資格を失った。一方、東京国税局は、金丸信氏の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、当時の日本債券信用銀行(日債銀)のワリシン(割引金融債)の一部が申告されていない(日債銀内では、金丸のことを”蟷螂紳士”との符号で呼び、申告漏れに協力していた)事実を突き止めた。1993(平成4)年3月6日、東京地検は金丸氏本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。金丸は、来るべき政界再編の軍資金であると述べたというが、真相は不明である。(金丸信 - Wikipediaより)
小沢氏に担がれる形で、55年体制をはじめて打ち破り、内閣総理大臣となった細川護煕氏は、従来の自民党にない新鮮さで、ひょっとしたら、日本を根本的に変えてくれるのではないかと国民に思わせたのである。 しかし特に、佐川事件問題解決に執着することもなく、あっさりと政権を投げ出してしまった。これを、潔いと見るか無責任と見るかは、議論が分かれるだろうが、彼に期待した多くの人間には、失望感を与えた。 この後、あろう事か、「社会党」と自民党が手を組むという不思議な事態が起こり、所詮、政権政党となった「社会党」はいままで反対だった自衛隊を容認することになるが、基本的になんでも反対政党であり、真剣に日本の方向性を示すだけの能力などなく、あの阪神淡路大震災では、なすすべもなく大量の死者を出してしまう。あの震災があったときに、周りの人からなにもしなくていいのですかと 注意されながら会議をなさっていた白い間髭が取り柄だけのおじいさんが時の総理大臣であったことを神戸市民は本当に不幸だったと思っている。
今の小泉政権も改革改革と大合唱をして、多くの小泉チルドレンを当選させたものの、任期中の実績を振り返ってみるとその実、どの程度の改革が出来たのか・・・?この9月には、自民党総裁選が行われる。恐らく安部氏が勝つのだろう。そして、来年、参議院選が行われる。ここが勝負である。国民としては、自民党に対抗できる政党の出現、2大政党制が実現し、国民の期待にこたえられない政党に、政権を委ねられるようになることを期待したいところだが、さて、どうなるのだろうか?民主党の小沢氏には単に血統が良く見てくれだけの大根役者であった細川元首相ほどの人気もないし、人気では、自民党の安倍晋三氏には勝てないものね~。先日のボクシングではあの品のないスポーツマンとしては如何と思う亀田選手が、どこかの番組の演出効果で親子愛をうたい、その彼を応援するボクシングもわからないギャルのたちの応援を得て、内容では負けている試合に勝った。民主義の国では、政治のわからない人が単に格好が良いとか言うだけで選ぶ人にも真剣に政策で選んでいる人と同じ一票を投票する権利を有している。税金を全く払っていない人でも、ものすごく税金を払っている人と同じく福祉、福祉といって1票を投じる権利がある。此処に民主主義の理想と矛盾もある。しかし、もし、このまま、いつまでも自民党政権に代われるだけの政権担当能力を有する政党が現れない限り、本当の意味での政治改革も行政改革も出来ないであろう。政治が悪いということは、結局それを選んだ、国民自身がわるいことを理解すべきであろう。
(画像が、1994年4月25日。総辞職し首相官邸を去る細川護煕元首相と武村正義元官房長官。総辞職の理由は「新年度予算の成立が大幅に送れている政治責任に加え、私自身の問題に関わる道義的責任を明確にすることが、政治の最高指導者としてとるべき道」・・。週刊20世紀・朝日クロニクルより)・・格好良い・・?。)
参考:
細川内閣 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%86%85%E9%96%A3
東京佐川急便事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage119.htm
元北朝鮮兵士が一時脱走 宇都宮
http://kamomiya.ddo.jp/%5CSouko%5CC04%5CBinn%5CDassou.htm
北朝鮮抑留第十八富士山丸事件の真相
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6030890/top.html
現代コリアコラム 「寺越武志さん拉致事件隠蔽-・・・」
http://www.modern-korea.net/column/total/19970624.html
『「拉致」異論』太田昌国さん招き公開講座
http://www.jrcl.net/web/frame031117b.html
2005年森田実政治日誌[78]
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C0969.HTML
小沢一郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E
内閣支持率の全体的推移・時事世論調査に見る内閣支持率の推移(1989-2004)
http://www.crs.or.jp/56912.htm
内閣総理大臣記者会見
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/PI/index.html