今日(8月11日)は、「初代三遊亭圓朝 」(落語家『牡丹燈籠』) の1900 (明治33)年の忌日[1839(天保10)年4月1日生]
三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、幕末から明治期に活躍した噺家(はなしか=落語家)。
本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。父の長蔵も前田備前守に使えていたが武士を嫌い2代目三遊亭円生の門に入り橘家円太郎を名乗っていたそうだ。次郎吉も7歳の時小円太を称していたというが、母は商家へ奉公させたそうだ。1858(安政4)年18歳で真打ちになり、芝居道具を用いて世話物を講じ芝居噺といわれて大いに名声を上げたという。
圓朝は噺家と称してはいても、「お笑い」の分野より、自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築いた。当時日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博したという。これが作家・二葉亭四迷(1864-1909)に影響を与え、1887年(明治20年)「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いたのだそうだ。また海外文学作品の翻案にも取り組んでいたという。又、圓朝 は、時の有力者で元勲・井上馨(1835-1915)の知遇を得て、身延山参詣(1886年明治19年1月8日)、北海道視察(明治19年8月4日より9月17日)に同行したそうだ。
※二葉亭四迷と「浮雲」口語体(言文一致体)のことなどについては、私のブログ今日(5月10日)は「四迷忌」『浮雲』の作家・二葉亭四迷の忌日を見てください。
1876(明治9)年円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り移り住んだという。 庭は、割下水(わりげすい=堀割)から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、圓朝の生涯のうちで最も贅沢で工夫を凝らした邸宅だったという。ここに新宿へ転居するまでの約10年間住んでいたそうだ。
1892年(明治25年 53歳)、病の為に廃業。多数の自作演目を創作、「四谷怪談」「真景累ケ淵」)」「怪談牡丹燈籠」など怪談ものが多い。本業以外にも多彩で、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(の目利き)等にも秀でており、建築、作庭にも秀でていたという。晩年、内藤新宿に自邸の数寄屋作りの建物や茶室をこしらえ、百坪当たりの枯山水の庭園は見事であったという。(以下参考の落語の舞台を歩く第48話 落語「お若伊之助」 参照)1892年(明治25年 53歳)、病の為に廃業し、「無舌」と号した。
「今すこし遊びたけれどお迎ひに 一足さきに、ハイ左様なら」の句を残して、1900 (明治33)年の今日(8月11日)、下谷車坂の自宅にて死去。61歳であった。
東京谷中さんさき(三崎)坂・臨済宗国泰寺派「全生庵」(ぜんしょうあん)にある(台東区谷中五丁目4番7号[東京都指定旧跡])の墓石には山岡鉄舟筆による「三遊亭円朝無舌居士之墓」とある。「全生庵」は、彼の集めた「幽霊画コレクション」を収蔵しており、このお寺では、毎年圓朝の命日には「谷中圓朝まつり」と称して、「幽霊画コレクション」の公開と、 「圓朝寄席」を開いているそうだ。
全生庵/台東区HP「全生庵」では、「圓朝幽霊画コレクション」が見れるよ。写真をクリックすると拡大写真になる。「暑い夏の夜、すこし涼を召し上がれ」とか・・・。円山応挙の有名な「幽霊図」もあるが 、映画などで見る幽霊などと違って”表情が静かで上品”なだけ一層怖い 感じがしないでもない。
夏と言えば怪談。怪談といえば、人情噺の三遊亭圓朝 の「真景累ケ淵」「怪談牡丹灯篭」」「四谷怪談」などである。
明治の歌舞伎界に多くの作品を残した河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)の死後、劇界は新しい作者、新鮮な作品を渇望していた。そこで注目されたのが、高座で斬新な人情噺を演じていた圓朝で、圓朝は「道具入り芝居噺」と称する新しい演出方法を確立していた。芝居の書割りを背景にして、歌舞伎調の噺をして人気を得ていた。「真景累ケ淵」や「牡丹灯篭」は5代目菊五郎らによって劇化され、こちらでも絶賛を得た。そして、生世話ものとしての「文七元結」や「芝浜」も人気狂言となって、歌舞伎界を救ったといわれている。
又、四谷怪談は、元禄時代に起きた事件を元に創作された日本の怪談。四谷が舞台となっているために、この名がある。鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名だが、怪談の定番とされ、おりに触れ舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。圓朝の創作落語「四谷怪談」では、伊右衛門の見た幽霊は、アルコール依存症による幻覚であるという解釈が加わっている。 そして、最近の小説・映画化には京極夏彦の『嗤う伊右衛門』がある。『嗤う伊右衛門』では、怨霊も祟りも消え失せたあとに残るのは、伊右衛門と岩のあまりにも不器用で切ない愛の物語になっている。
四谷怪談で、圧倒的に有名な四世鶴屋南北の歌舞伎脚本「東海道四谷怪談」(1825年初演)は5幕7場の大作で、四谷左門町に伝わる田宮家の因縁話はあくまでも素材のひとつでしかない。本書の原型は、「東海道四谷怪談」の100年前、1727(享保12)年に成立した、作者不詳の「四谷雑談集(ぞうだんしゅう)」といわれている。”雑談集”だから怪談〟ではなく〝雑談〟を集めたものである。 しかし、(物語中では失踪したとされる)岩が1500年代に稲荷神社を勧請したことが田宮神社の由来とされ、四谷雑談集の内容とは年代があわず、また、田宮家も現在まで続いており、信憑性には疑問があるといい。永久保貴一氏は、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかとしているそうだ。
史実では、岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人で岩と伊右衛門は江戸の町でも有名な仲のよい夫婦だったといわれている。事実、伊右衛門は収入がとぼしく、食べる物もないような生活をしていたが、岩が奉公に出て生活を支えていた。岩が田宮神社を勧請したのちは生活が上向いたと言われており、岩を田宮家中興の祖とする見方もある。(於岩稲荷田宮神社パンフレット)四谷怪談の史実がどうであったかは、別として、近世の日本の文芸表現のひとつに、「世界」と「趣向」という様式があり、例えば有名な赤穂浪士の討ち入りを脚色した『忠臣蔵』の内容を観客周知の「世界」とすると、不義士・田宮伊右衛門の悪行を描いた『東海道四谷怪談』はその「趣向」ということになる。この二作は裏表の関係で同時上演されていた。歌舞伎作品の類型性を利用した江戸芝居らしい表現といえるだろう。『東海道四谷怪談』では、伊右衛門は義士の一人である義父を殺害し、裕福な隣家の入婿になるため妻のお岩に毒薬を飲ませ死にいたらしめる。お岩の亡霊の祟りに苦しんだ挙げ句、伊右衛門は雪の中で討ちとられる。それは『忠臣蔵』の雪の討ち入りと同じ情景を演出したものだった。『四谷怪談』初演時の折、この二作は裏表の関係で同時上演され、大当たりとなった。歴史的事件(世界)の裏側にひそむ私的な事件(趣向)を脚色したところに『四谷怪談』の成功があったわけである。江戸歌舞伎らしい表現技法といえるだろう。
歌舞伎の世界(裏の舞台)である、『忠臣蔵』については、私のブログ今日(12月14日)は 「四十七士討ち入りの日、忠臣蔵の日」で、趣向(裏の舞台)となる不義士・田宮伊右衛門の悪行を描いた『東海道四谷怪談』の話については、今日(7月26日)は、「幽霊の日」でも採りあげたので、時間があれば見てください。
また、歌舞伎では『四谷怪談』を、上演の際には出演者・関係者が四谷の田宮神社(お岩稲荷)に必ずお参りに行くことになっているという。「於岩稲荷・田宮神社」は、実在していたお岩さんが信仰していた屋敷神の稲荷が一般に公開されたもの。1825(文政8)年の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になったのだそうだ。しかし、1879(明治12)年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移った。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)の2カ所に再建したのだという。しかし、東京には、この於岩稲荷と称するものがほかに2箇所あるそうで、その3つ目が、四谷左門町の田宮神社と細い道を隔てて向き合うようにある陽運寺というお寺で、その境内にも「於岩稲荷」が祀られているという。これは、田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのだろうという。また、4つ目は、四谷3丁目のスーパー丸正の入り口にセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」というものがあるそうだ。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっているのだとか。これは、如何してつくられたのだろうね~。客寄せだろうか?
この於岩稲荷・田宮神社のパンフレットには、お岩さんがどのような形で『四谷怪談』に採りいれられていったかなどが記されているそうで、以下参考の「四谷 再発見 (2)四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)」や、「四谷怪談の真実」を見ると、凡そのことがわかるだろう。
和漢の怪異談をこよなく愛した反骨の文士・田中貢太郎(1880年~1941年 )は、怪談文芸の大家としても知られている。彼が生涯にわたり蒐集と再話に努めた怪談は実に総数500編を超え、怪談事典まで著している。以下参考の「作家別作品リスト:田中貢太郎」(青空文庫)を読むと、きっと、あなたは怪談通になれるよ。 その中で、今回は、当ブログとも関係のありそうなものを以下に紹介しておく。怪談好きは是非一読しておくと良いのでは・・・。
日本三大怪談のひとつ、四世鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」を、田中貢太郎らしい簡潔な文体で短くまとめた再話小説。
→田中貢太郎「南北の東海道四谷怪談」(青空文庫)
有名な「お岩さん」の物語の小説化。「四谷怪談」といえば鶴屋南北による歌舞伎『東海道四谷怪談』が最も知られているが、この田中貢太郎版は、歌舞伎のヒントとなったとみられる、江戸時代に本当にあったとされる内容にそったものとなっているといる。
→田中貢太郎「四谷怪談」(青空文庫)
『牡丹燈記』:原典は、明代はじめ頃の中国の怪異小説集「剪燈新話(せんとうしんわ)」(作者・瞿佑(くゆう))の中にある『牡丹燈記』。原典の『牡丹燈記』は、上田秋成の『雨月物語』や三遊亭圓朝の『牡丹燈籠』など、日本文化にも与えた影響は大きい。
→田中 貢太郎「牡丹灯記」(青空文庫)
江戸時代、三代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)は歌舞伎『東海道四谷怪談』再演の際、幽霊にどんな衣裳を着せようかと悩んでいたが……。文末に「悟道軒円玉(ごどうけんえんぎょく)氏談」という原注がある
田中 貢太郎{幽霊の衣裳」(青空文庫)
これで、今夜は少し涼めるかな?それとも、眠られなくなるかな?。(^0^)
(画像は東海道四谷怪談 「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」歌川国芳画。フリー百科事典Wikipedia{四谷怪談」より)
参考:
三遊亭圓朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%9C%9D
河竹黙阿弥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%B9%E9%BB%99%E9%98%BF%E5%BC%A5
四谷 再発見 (2)四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)
http://www.orchid.or.jp/ORCHID/PEOPLE/walke/Yotsuya-Oiwa-0.html
四谷怪談の真実
http://members.at.infoseek.co.jp/mubeling2/yotsuya/yotsuya1.htm
作家別作品リスト:三遊亭圓朝
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person989.html
作家別作品リスト:田中貢太郎
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person154.html
荷風塾No4荷風とお岩さん
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/Kafu_site/Education141.html
浮世絵閲覧システム -外題「於岩稲荷験玉櫛」
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&gedai=%B1%F7%B4%E4%B0%F0%B2%D9%B8%B3%B6%CC%B6%FB
落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/index.htm
第92話落語「牡丹灯籠・お札はがし」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/92botandourou/botandoro.htm
第11話落語「ぞろぞろ」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/011zorozoro/zorozoro.htm
三遊亭圓朝 「真景累ヶ淵」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000989/card350.html
三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、幕末から明治期に活躍した噺家(はなしか=落語家)。
本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。父の長蔵も前田備前守に使えていたが武士を嫌い2代目三遊亭円生の門に入り橘家円太郎を名乗っていたそうだ。次郎吉も7歳の時小円太を称していたというが、母は商家へ奉公させたそうだ。1858(安政4)年18歳で真打ちになり、芝居道具を用いて世話物を講じ芝居噺といわれて大いに名声を上げたという。
圓朝は噺家と称してはいても、「お笑い」の分野より、自ら創作した噺、講談に近い分野で独自の世界を築いた。当時日本に導入された速記法により記録された文章は新聞で連載され人気を博したという。これが作家・二葉亭四迷(1864-1909)に影響を与え、1887年(明治20年)「浮雲」を口語体(言文一致体)で書いたのだそうだ。また海外文学作品の翻案にも取り組んでいたという。又、圓朝 は、時の有力者で元勲・井上馨(1835-1915)の知遇を得て、身延山参詣(1886年明治19年1月8日)、北海道視察(明治19年8月4日より9月17日)に同行したそうだ。
※二葉亭四迷と「浮雲」口語体(言文一致体)のことなどについては、私のブログ今日(5月10日)は「四迷忌」『浮雲』の作家・二葉亭四迷の忌日を見てください。
1876(明治9)年円朝は本所南二葉町23番地(現・墨田区亀沢)にあった旗本下屋敷跡500坪を買い取り移り住んだという。 庭は、割下水(わりげすい=堀割)から水を引いて池をつくり、多摩川の橋材を用いて庵室の柱とするなど、圓朝の生涯のうちで最も贅沢で工夫を凝らした邸宅だったという。ここに新宿へ転居するまでの約10年間住んでいたそうだ。
1892年(明治25年 53歳)、病の為に廃業。多数の自作演目を創作、「四谷怪談」「真景累ケ淵」)」「怪談牡丹燈籠」など怪談ものが多い。本業以外にも多彩で、歌道、和歌、俳句、書画、骨董(の目利き)等にも秀でており、建築、作庭にも秀でていたという。晩年、内藤新宿に自邸の数寄屋作りの建物や茶室をこしらえ、百坪当たりの枯山水の庭園は見事であったという。(以下参考の落語の舞台を歩く第48話 落語「お若伊之助」 参照)1892年(明治25年 53歳)、病の為に廃業し、「無舌」と号した。
「今すこし遊びたけれどお迎ひに 一足さきに、ハイ左様なら」の句を残して、1900 (明治33)年の今日(8月11日)、下谷車坂の自宅にて死去。61歳であった。
東京谷中さんさき(三崎)坂・臨済宗国泰寺派「全生庵」(ぜんしょうあん)にある(台東区谷中五丁目4番7号[東京都指定旧跡])の墓石には山岡鉄舟筆による「三遊亭円朝無舌居士之墓」とある。「全生庵」は、彼の集めた「幽霊画コレクション」を収蔵しており、このお寺では、毎年圓朝の命日には「谷中圓朝まつり」と称して、「幽霊画コレクション」の公開と、 「圓朝寄席」を開いているそうだ。
全生庵/台東区HP「全生庵」では、「圓朝幽霊画コレクション」が見れるよ。写真をクリックすると拡大写真になる。「暑い夏の夜、すこし涼を召し上がれ」とか・・・。円山応挙の有名な「幽霊図」もあるが 、映画などで見る幽霊などと違って”表情が静かで上品”なだけ一層怖い 感じがしないでもない。
夏と言えば怪談。怪談といえば、人情噺の三遊亭圓朝 の「真景累ケ淵」「怪談牡丹灯篭」」「四谷怪談」などである。
明治の歌舞伎界に多くの作品を残した河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)の死後、劇界は新しい作者、新鮮な作品を渇望していた。そこで注目されたのが、高座で斬新な人情噺を演じていた圓朝で、圓朝は「道具入り芝居噺」と称する新しい演出方法を確立していた。芝居の書割りを背景にして、歌舞伎調の噺をして人気を得ていた。「真景累ケ淵」や「牡丹灯篭」は5代目菊五郎らによって劇化され、こちらでも絶賛を得た。そして、生世話ものとしての「文七元結」や「芝浜」も人気狂言となって、歌舞伎界を救ったといわれている。
又、四谷怪談は、元禄時代に起きた事件を元に創作された日本の怪談。四谷が舞台となっているために、この名がある。鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名だが、怪談の定番とされ、おりに触れ舞台化・映画化されているため、さまざまなバリエーションが存在する。圓朝の創作落語「四谷怪談」では、伊右衛門の見た幽霊は、アルコール依存症による幻覚であるという解釈が加わっている。 そして、最近の小説・映画化には京極夏彦の『嗤う伊右衛門』がある。『嗤う伊右衛門』では、怨霊も祟りも消え失せたあとに残るのは、伊右衛門と岩のあまりにも不器用で切ない愛の物語になっている。
四谷怪談で、圧倒的に有名な四世鶴屋南北の歌舞伎脚本「東海道四谷怪談」(1825年初演)は5幕7場の大作で、四谷左門町に伝わる田宮家の因縁話はあくまでも素材のひとつでしかない。本書の原型は、「東海道四谷怪談」の100年前、1727(享保12)年に成立した、作者不詳の「四谷雑談集(ぞうだんしゅう)」といわれている。”雑談集”だから怪談〟ではなく〝雑談〟を集めたものである。 しかし、(物語中では失踪したとされる)岩が1500年代に稲荷神社を勧請したことが田宮神社の由来とされ、四谷雑談集の内容とは年代があわず、また、田宮家も現在まで続いており、信憑性には疑問があるといい。永久保貴一氏は、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかとしているそうだ。
史実では、岩の父、田宮又左衛門は徳川家康の入府とともに駿府から江戸に来た御家人で岩と伊右衛門は江戸の町でも有名な仲のよい夫婦だったといわれている。事実、伊右衛門は収入がとぼしく、食べる物もないような生活をしていたが、岩が奉公に出て生活を支えていた。岩が田宮神社を勧請したのちは生活が上向いたと言われており、岩を田宮家中興の祖とする見方もある。(於岩稲荷田宮神社パンフレット)四谷怪談の史実がどうであったかは、別として、近世の日本の文芸表現のひとつに、「世界」と「趣向」という様式があり、例えば有名な赤穂浪士の討ち入りを脚色した『忠臣蔵』の内容を観客周知の「世界」とすると、不義士・田宮伊右衛門の悪行を描いた『東海道四谷怪談』はその「趣向」ということになる。この二作は裏表の関係で同時上演されていた。歌舞伎作品の類型性を利用した江戸芝居らしい表現といえるだろう。『東海道四谷怪談』では、伊右衛門は義士の一人である義父を殺害し、裕福な隣家の入婿になるため妻のお岩に毒薬を飲ませ死にいたらしめる。お岩の亡霊の祟りに苦しんだ挙げ句、伊右衛門は雪の中で討ちとられる。それは『忠臣蔵』の雪の討ち入りと同じ情景を演出したものだった。『四谷怪談』初演時の折、この二作は裏表の関係で同時上演され、大当たりとなった。歴史的事件(世界)の裏側にひそむ私的な事件(趣向)を脚色したところに『四谷怪談』の成功があったわけである。江戸歌舞伎らしい表現技法といえるだろう。
歌舞伎の世界(裏の舞台)である、『忠臣蔵』については、私のブログ今日(12月14日)は 「四十七士討ち入りの日、忠臣蔵の日」で、趣向(裏の舞台)となる不義士・田宮伊右衛門の悪行を描いた『東海道四谷怪談』の話については、今日(7月26日)は、「幽霊の日」でも採りあげたので、時間があれば見てください。
また、歌舞伎では『四谷怪談』を、上演の際には出演者・関係者が四谷の田宮神社(お岩稲荷)に必ずお参りに行くことになっているという。「於岩稲荷・田宮神社」は、実在していたお岩さんが信仰していた屋敷神の稲荷が一般に公開されたもの。1825(文政8)年の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になったのだそうだ。しかし、1879(明治12)年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移った。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)の2カ所に再建したのだという。しかし、東京には、この於岩稲荷と称するものがほかに2箇所あるそうで、その3つ目が、四谷左門町の田宮神社と細い道を隔てて向き合うようにある陽運寺というお寺で、その境内にも「於岩稲荷」が祀られているという。これは、田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのだろうという。また、4つ目は、四谷3丁目のスーパー丸正の入り口にセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」というものがあるそうだ。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっているのだとか。これは、如何してつくられたのだろうね~。客寄せだろうか?
この於岩稲荷・田宮神社のパンフレットには、お岩さんがどのような形で『四谷怪談』に採りいれられていったかなどが記されているそうで、以下参考の「四谷 再発見 (2)四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)」や、「四谷怪談の真実」を見ると、凡そのことがわかるだろう。
和漢の怪異談をこよなく愛した反骨の文士・田中貢太郎(1880年~1941年 )は、怪談文芸の大家としても知られている。彼が生涯にわたり蒐集と再話に努めた怪談は実に総数500編を超え、怪談事典まで著している。以下参考の「作家別作品リスト:田中貢太郎」(青空文庫)を読むと、きっと、あなたは怪談通になれるよ。 その中で、今回は、当ブログとも関係のありそうなものを以下に紹介しておく。怪談好きは是非一読しておくと良いのでは・・・。
日本三大怪談のひとつ、四世鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」を、田中貢太郎らしい簡潔な文体で短くまとめた再話小説。
→田中貢太郎「南北の東海道四谷怪談」(青空文庫)
有名な「お岩さん」の物語の小説化。「四谷怪談」といえば鶴屋南北による歌舞伎『東海道四谷怪談』が最も知られているが、この田中貢太郎版は、歌舞伎のヒントとなったとみられる、江戸時代に本当にあったとされる内容にそったものとなっているといる。
→田中貢太郎「四谷怪談」(青空文庫)
『牡丹燈記』:原典は、明代はじめ頃の中国の怪異小説集「剪燈新話(せんとうしんわ)」(作者・瞿佑(くゆう))の中にある『牡丹燈記』。原典の『牡丹燈記』は、上田秋成の『雨月物語』や三遊亭圓朝の『牡丹燈籠』など、日本文化にも与えた影響は大きい。
→田中 貢太郎「牡丹灯記」(青空文庫)
江戸時代、三代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)は歌舞伎『東海道四谷怪談』再演の際、幽霊にどんな衣裳を着せようかと悩んでいたが……。文末に「悟道軒円玉(ごどうけんえんぎょく)氏談」という原注がある
田中 貢太郎{幽霊の衣裳」(青空文庫)
これで、今夜は少し涼めるかな?それとも、眠られなくなるかな?。(^0^)
(画像は東海道四谷怪談 「神谷伊右エ門 於岩のばうこん」歌川国芳画。フリー百科事典Wikipedia{四谷怪談」より)
参考:
三遊亭圓朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%81%8A%E4%BA%AD%E5%9C%93%E6%9C%9D
河竹黙阿弥 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%AB%B9%E9%BB%99%E9%98%BF%E5%BC%A5
四谷 再発見 (2)四谷 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)
http://www.orchid.or.jp/ORCHID/PEOPLE/walke/Yotsuya-Oiwa-0.html
四谷怪談の真実
http://members.at.infoseek.co.jp/mubeling2/yotsuya/yotsuya1.htm
作家別作品リスト:三遊亭圓朝
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person989.html
作家別作品リスト:田中貢太郎
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person154.html
荷風塾No4荷風とお岩さん
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/Kafu_site/Education141.html
浮世絵閲覧システム -外題「於岩稲荷験玉櫛」
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&gedai=%B1%F7%B4%E4%B0%F0%B2%D9%B8%B3%B6%CC%B6%FB
落語の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/index.htm
第92話落語「牡丹灯籠・お札はがし」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/92botandourou/botandoro.htm
第11話落語「ぞろぞろ」の舞台を歩く
http://ginjo.fc2web.com/011zorozoro/zorozoro.htm
三遊亭圓朝 「真景累ヶ淵」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000989/card350.html