今日(8月18日)は、「米の日」
岩手県農政部農産物流通課が1998(平成10)年に制定。「米」の字を分解すると「八十八」になることからとか。
日本人の主食である「米」だから、当然記念日があるが、他にも、色々あるようで、全国農業協同組合が毎月8日を記念日に制定しているそうだが、それは、、先の米の字によることと米を作るのに88の手間ひまがかかるからだといわれている。
日本人にとって大事な食べ物である米(こめ)。地球上での米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯の周辺での陸稲栽培から始まり、まず中国南部、東南アジアへと広まったとされ、その後中国中・北部、南アジアに、そして日本へと伝わったといわれている。
米は世界中で食用として用いられており、世界三大穀物(小麦、米、トウモロコシ)の一つとも言われているようで、植物の中では小麦に次いで2番目に多く消費されているという。多くの国、特にアジアでは主食としている文化が定着しており、中国、ベトナム、タイなどではビーフン、ライスペーパーなど加工原料にも用いられるが、中でも日本では飯として食べられる他に、酒や餅、飴、菓子、味噌、醤油、酢、糊などの原料としても用いられるなどその用途は広い。
米は、イネ(稲)の種子であり、主に脱穀したものをいい、イネ(稲)は、 イネ科イネ属の一年草であり、古くはイネ科の植物の種子について広く「米」という単語が用いられていたそうだ。
古来稲が生産されていなかった中国の華北(漢字発祥の地)・中原において、華北黄河文明以来の主食は専ら粟米(谷子)であり、米の語は、長くアワ(粟)の種子に対して用いられていたようで、中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されているという。
又、稲米も周の時代から栽培が盛んになってきたが、長江から入ってきた蛮夷の穀物とみなして「雑穀」のように扱う風潮が知識人を中心に長く続いき、米が華北・中原においても主食とされるようになるのは唐代以後と言われている。日本では米より早く栽培が始まり、ヒエとともに庶民にとっての重要な食料作物だった。
稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、土器に残る痕跡などからわかっている。 縄文時代中期に、中国から台湾、琉球を経て九州南部に伝わり、その後九州北部、中国・四国へと伝わったという説がある。 大々的に、水稲耕作が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。弥生時代に、低地に水田を作り、水稲耕作を開始した人々は農業によって定住が可能になったことから、そこには、村ができ、同時に身分差や、貧富の差をも生み出し、初期国家とも言うべき地域のまとまり、つまり、各地に小さなクニといわれるものを生み出した。
1世紀には、奴国の王が後漢に、また、3世紀にあったと言われる邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に、倭の王であることを意味する金印を授けられたが、この頃以降の日本は、大陸からは倭国(わこく)と呼ばれた。
日本で、米の栽培が広まり、豊かになり、文化が高まって来た頃に、高度な大陸文化を持った人たちが日本に入ってきて弥生(やよい)文化が花開いたのである。そして、卑弥呼(ひみこ)を女王とする倭国、すなわち邪馬台国の時代には、稲作栽培の農業社会もほぼ完成されていたと考えられている。そして、 米栽培のための共同労働、農村共同体、水の管理から生まれた結(ゆい)という共同体などが、日本の社会の基礎ともなる。しかし、稲作が伝わり水田を作ったことによって、水田に使用する土地の拡大争いと水争いで集落・村落間の争いが、地域・地方と拡大してクニ同士の争いとなり、列島規模にまで広がっていった。そして、列島には、北部九州・吉備・山陰・近畿・東海・関東などの地域国家連合が出来上がった。これらの勢力圏が統合・同盟の関係を繰り返しながら、次第に日本の国家が成立してゆくことになったのである。
田楽(でんがく)などの芸能も田植えのときの囃子(はやし)や歌が始まりだといわれており、相撲では、土俵入りのときなどに 「四股(しこ)」を踏むという動作があるのも、大地を踏み、災いをを追いはらい、豊作をもたらす田の神の力が田から消えないようにする、という意味があったと考えられている。また、大切な儀式である誕生祝い、結婚式、葬式などの折には、米の神秘的な力にあやかろうと、白いご飯を高く盛って神物などに供えたり、米(精白米)を塩とともに供えたりする習慣も残っているほか、日本の花見もお米とイネと関係しているのだ。それに、民話や昔話などにも米をテーマにしたものがたくさんあるように、現在でも米は、日本人の生活文化に深く根づいている。
今までに私のブログ今日(3月16日)は、「十六団子の日」で、日本の農耕社会とイネの関係など書いたので興味のある人は見てね。
ところで、お米にも賞味期限があり、その目安は1ヵ月。これからの暑い夏には、特に1ヵ月ぐらいで食べきる量をそのつど買い、日光の当たらない低温で温度変化の少ない場所に保管するのがよい。量にもよるが、保存容器やペットボトルに密封したり、厚手のビニールに包み、冷蔵庫の野菜室で保管するのもひとつの方法。夏ばて防止にも、美味しいお米を沢山食べて、夏ばてしないようにしよう。
下記参考の「お米の一生」では、山形県新庄の農家のはしくれと自称するごろべえさんが、米」という字を解体すると、八十八という字になる。この字が言うように、昔は種をまいてからお米になるまでの約180日間に88回もの手間がかかるというが、本当にそれほど手間がかかるのだろうか?という素朴な疑問から、あらためてお米ができるまでの農作業と、そのイネたちの成長ぶりを追ってみることにしたという。ちょっと、そんな同じ様な疑問を持つ方は覗いて見ては・・・。
(画像:江戸時代の米の看板。「守定漫稿」国立国会図書館蔵。大阪の米屋では、長板に白紙を張り、」墨書の看板を軒によせかけ、白米は桶(大切盤)に盛り、国名と値段を掲げた。今でいう産地表示がされていたんだよね。流石大阪商人だ。NHKヴイジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3
和製漢字の辞典:巻13・禾部
http://homepage2.nifty.com/TAB01645/ohara/p13.htm
お米の学習/玉川学園マルチメディアセンター
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/rice/
せかいのお米
http://www.nisira.com/school/>http://www.nisira.com/school/>http://www.nisira.com/school/お米の一生
http://www.ic-net.or.jp/home/gorobe/rice/
岩手県農政部農産物流通課が1998(平成10)年に制定。「米」の字を分解すると「八十八」になることからとか。
日本人の主食である「米」だから、当然記念日があるが、他にも、色々あるようで、全国農業協同組合が毎月8日を記念日に制定しているそうだが、それは、、先の米の字によることと米を作るのに88の手間ひまがかかるからだといわれている。
日本人にとって大事な食べ物である米(こめ)。地球上での米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯の周辺での陸稲栽培から始まり、まず中国南部、東南アジアへと広まったとされ、その後中国中・北部、南アジアに、そして日本へと伝わったといわれている。
米は世界中で食用として用いられており、世界三大穀物(小麦、米、トウモロコシ)の一つとも言われているようで、植物の中では小麦に次いで2番目に多く消費されているという。多くの国、特にアジアでは主食としている文化が定着しており、中国、ベトナム、タイなどではビーフン、ライスペーパーなど加工原料にも用いられるが、中でも日本では飯として食べられる他に、酒や餅、飴、菓子、味噌、醤油、酢、糊などの原料としても用いられるなどその用途は広い。
米は、イネ(稲)の種子であり、主に脱穀したものをいい、イネ(稲)は、 イネ科イネ属の一年草であり、古くはイネ科の植物の種子について広く「米」という単語が用いられていたそうだ。
古来稲が生産されていなかった中国の華北(漢字発祥の地)・中原において、華北黄河文明以来の主食は専ら粟米(谷子)であり、米の語は、長くアワ(粟)の種子に対して用いられていたようで、中国後漢の許慎が著した漢字の解説書『説文解字』において、「米…粟實也。象禾實之形」(禾=粟)と書かれ、米即ちアワの実であると解説されているという。
又、稲米も周の時代から栽培が盛んになってきたが、長江から入ってきた蛮夷の穀物とみなして「雑穀」のように扱う風潮が知識人を中心に長く続いき、米が華北・中原においても主食とされるようになるのは唐代以後と言われている。日本では米より早く栽培が始まり、ヒエとともに庶民にとっての重要な食料作物だった。
稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、土器に残る痕跡などからわかっている。 縄文時代中期に、中国から台湾、琉球を経て九州南部に伝わり、その後九州北部、中国・四国へと伝わったという説がある。 大々的に、水稲耕作が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。弥生時代に、低地に水田を作り、水稲耕作を開始した人々は農業によって定住が可能になったことから、そこには、村ができ、同時に身分差や、貧富の差をも生み出し、初期国家とも言うべき地域のまとまり、つまり、各地に小さなクニといわれるものを生み出した。
1世紀には、奴国の王が後漢に、また、3世紀にあったと言われる邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に、倭の王であることを意味する金印を授けられたが、この頃以降の日本は、大陸からは倭国(わこく)と呼ばれた。
日本で、米の栽培が広まり、豊かになり、文化が高まって来た頃に、高度な大陸文化を持った人たちが日本に入ってきて弥生(やよい)文化が花開いたのである。そして、卑弥呼(ひみこ)を女王とする倭国、すなわち邪馬台国の時代には、稲作栽培の農業社会もほぼ完成されていたと考えられている。そして、 米栽培のための共同労働、農村共同体、水の管理から生まれた結(ゆい)という共同体などが、日本の社会の基礎ともなる。しかし、稲作が伝わり水田を作ったことによって、水田に使用する土地の拡大争いと水争いで集落・村落間の争いが、地域・地方と拡大してクニ同士の争いとなり、列島規模にまで広がっていった。そして、列島には、北部九州・吉備・山陰・近畿・東海・関東などの地域国家連合が出来上がった。これらの勢力圏が統合・同盟の関係を繰り返しながら、次第に日本の国家が成立してゆくことになったのである。
田楽(でんがく)などの芸能も田植えのときの囃子(はやし)や歌が始まりだといわれており、相撲では、土俵入りのときなどに 「四股(しこ)」を踏むという動作があるのも、大地を踏み、災いをを追いはらい、豊作をもたらす田の神の力が田から消えないようにする、という意味があったと考えられている。また、大切な儀式である誕生祝い、結婚式、葬式などの折には、米の神秘的な力にあやかろうと、白いご飯を高く盛って神物などに供えたり、米(精白米)を塩とともに供えたりする習慣も残っているほか、日本の花見もお米とイネと関係しているのだ。それに、民話や昔話などにも米をテーマにしたものがたくさんあるように、現在でも米は、日本人の生活文化に深く根づいている。
今までに私のブログ今日(3月16日)は、「十六団子の日」で、日本の農耕社会とイネの関係など書いたので興味のある人は見てね。
ところで、お米にも賞味期限があり、その目安は1ヵ月。これからの暑い夏には、特に1ヵ月ぐらいで食べきる量をそのつど買い、日光の当たらない低温で温度変化の少ない場所に保管するのがよい。量にもよるが、保存容器やペットボトルに密封したり、厚手のビニールに包み、冷蔵庫の野菜室で保管するのもひとつの方法。夏ばて防止にも、美味しいお米を沢山食べて、夏ばてしないようにしよう。
下記参考の「お米の一生」では、山形県新庄の農家のはしくれと自称するごろべえさんが、米」という字を解体すると、八十八という字になる。この字が言うように、昔は種をまいてからお米になるまでの約180日間に88回もの手間がかかるというが、本当にそれほど手間がかかるのだろうか?という素朴な疑問から、あらためてお米ができるまでの農作業と、そのイネたちの成長ぶりを追ってみることにしたという。ちょっと、そんな同じ様な疑問を持つ方は覗いて見ては・・・。
(画像:江戸時代の米の看板。「守定漫稿」国立国会図書館蔵。大阪の米屋では、長板に白紙を張り、」墨書の看板を軒によせかけ、白米は桶(大切盤)に盛り、国名と値段を掲げた。今でいう産地表示がされていたんだよね。流石大阪商人だ。NHKヴイジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
米 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3
和製漢字の辞典:巻13・禾部
http://homepage2.nifty.com/TAB01645/ohara/p13.htm
お米の学習/玉川学園マルチメディアセンター
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/rice/
せかいのお米
http://www.nisira.com/school/>http://www.nisira.com/school/>http://www.nisira.com/school/お米の一生
http://www.ic-net.or.jp/home/gorobe/rice/