地蔵盆
2006-08-23 | 行事
8月23日、24日は、「地蔵盆」
地蔵盆は、地蔵の法会つまり、地蔵菩薩の縁日、(旧暦7月24日)に行う会式であった。
地蔵盆の提灯元は地蔵会、地蔵祭と呼ばれたが、8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆にちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったと言われている。地蔵祭では、地蔵のある町内の人々はこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたりお供え物をしたりして祀る。 地蔵盆の前後には、地蔵の据えられる家や祠の周囲などに、地蔵盆独特の提灯が多く飾られる。
この地蔵盆は、京都で洛外の六ヶ所にある地蔵菩薩(六地蔵)の縁日(旧暦7月24日)に行う会式が始まりである。(京の地蔵のことについては以下参考の「京の六地蔵とは」を見るとよく分かる。)その行事が広がったのであろう、近畿地方では古くから盛んな子供中心の行事として、地蔵に供物・灯明を供え、仏名を唱えたりする。
地蔵盆のお地蔵さんは、子どもの守り仏として古くから信仰されていたが、元は仏教に属する地蔵菩薩であった。
「地蔵菩薩本願経」に釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現されるまで、この世には仏がおられないので、仏に替わって衆生を済度されると説かれている。一切智成如来という仏であるが親しみやすい僧形である。地蔵菩薩(Skt:Ksiti - garbha)は、仏教の信仰対象である菩薩の1人で、kuksi(大地)と、garbha(胎内、子宮)の合成語で、意訳して「地蔵」と言う。
人間界のみにあらず地獄・飢餓・修羅・畜生・天といった六道すべてにおもむき、人々を救済したという。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされている。
地獄の王とも言われる閻魔大王は、「地蔵菩薩」の化身であるという話があり、また、地獄の十王(閻魔大王を含む、十人の裁判官)を統率しているのが地蔵菩薩であるともいう。地獄の思想と地蔵菩薩とは本来全く関係のないものであり、両者には何のつながりがないが、このようなことが結びつけられるようになったのは先にも述べたように、地蔵は「大地」を司る存在でもあり、そこから、地の底にある地獄を統率するのもまた地蔵であるという信仰が生まれ、そして、地獄での救い手を差し伸べるのも又地蔵だとされたのであろう。
京都・洛外の六地蔵の六体という数は、六道から来ている。平安時代、命は六道を輪廻・転生するという思想が広まると、人界だけではなく、六道全てにおいて救済してくれる存在として、六地蔵信仰が盛んになった。これらの地蔵にはそれぞれ名前がついている。文献によって相違があるようだが、『覚禅鈔』の例を出せば、先の六道の順番で、大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固の各地蔵である。これらは、持ち物などで姿からも区別される。(以下参考の「江戸六地蔵」を参照されたい)。
観音菩薩は多くの現世利益を目的としているのに対して、地蔵菩薩も同じ現世利益をといてはいるが、さらに過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰されている。地蔵は、地獄における死者の救済者として、死後のことは地蔵様におまかせする、俺たちは生きねばならぬ、困苦欠乏した苛烈な生活の中にありながら、人生を楽しまんとする当時の庶民の生活の知恵であったのであろう。
京都・洛外の六ヶ所の6地蔵は、いずれも墓地の近くにあるがそれは、六道に旅立つ死者を守るためであろう。地蔵信仰は奈良時代に日本伝わり、平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、現世利益を追求する民衆の欲求に応える形で、地蔵は現世から冥界に行く者を救済する存在として知られるようになり、これが京都を中心として全国的に広がったようだ。
地蔵と地獄に関する話としては、「賽の河原 」が有名である。賽の河原 は、冥土に至る途中にあると信じられている三途の河原で、親に先立って死んだ小児がこの河原で父母供養のために小石を積んで塔を作ろうとするが、石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現れて小児を救うという仏教説話がある。
この「賽の河原」 は、どこから来たかというと、京都西院(斎院)の河原かららしい。
四条西大路の北東角(京都市右京区西院高山寺町18番地)にある「高山寺」、寺号は日照山。本尊は地蔵菩薩。通称名:西院の河原 と言 われている。今ある寺院の多くは豊臣・徳川時代 に再現された物が多いという。 山門を潜ると先ず3メートル近い巨大な地蔵菩薩石像が目に入る。足利義政の妻日野富子はこの地蔵菩薩に子宝を祈願し、義尚を生んだ。その後、先に養子となっていた義視との間の将軍争いが応仁の乱にまで発展した為、この地蔵尊がその原因を作り、平安京を焼け野原にしてしまったといわれている。西院の河原、すなわち賽の河原で、子どもたちの霊が「ひとつ積んでは親のため…・」と河原の石を積んでいると、鬼がやってきてせっかく積んだ石を崩してしまう。すると高山寺のお地蔵様が現れ、子ども達を救ったという伝説から子ども守護の信仰が生まれたという。加茂川と桂川の合流するこのあたりの河原を、昔は、道祖(さい:佐比とも書く)大路・左比の河原と呼び、 淳和天皇が現在の阪急電車西院駅辺りに離宮を造営し、皇居から見 て西に当たるため「西院」と呼ばれた。 このようなことから西院は、「さいいん」とも読むが、「さい」とも読む(京福電鉄の西院駅は「さいえき」)。天皇が亡くなった後に離宮が焼失し、天神川の度重なる氾濫で一帯は荒廃して広い河原となった。この西院(さい)の河原には多くの捨て子が置き去られたり、子供の屍骸が捨てられたりで、悲惨な様子だったようだ。空也上人が憐れんで、石の地蔵菩薩像を刻み供養したという。空也上人が都を巡化された承平・天慶・天暦の頃(931-957)は、関東に平将門の乱が起こ り、南海に藤原純友らの海賊が横行していた乱世である。各地に戦いが起こり、群盗が横行し、 都大路でさえも夜半は盗賊の群れに占領されているという有様だったから、下層の庶民は子供の葬式どころではなく死ねば河原に捨てられたのであろう。
「帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」という実に哀れな文句で、始まる『西院河原(賽の河原)地蔵和讃』
「地蔵和讃」にはいろいろあり、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも多少歌詞が違っているようである。
8世紀の空也上人作と伝えられるが、実際には地蔵菩薩の信仰が普及した室町時代以降に空也上人に託して色々作られたものだろうと考える。、もともとの句には、むごいと思われる語句も含まれており、後世にそのむごい箇所を削除して書き換えて、広くうたい継がれている。ただ、この「西院の河原」が「西の河原」になり、いつしか「賽の河原」になったと伝えられている。この「地 蔵 和 讃」については、以下参考の「和上巡礼-38/地 蔵 和 讃」の説明がよく理解できる。
地蔵はよく子供と結びつけられるが、これは賽の河原地蔵和讃において、地蔵菩薩が幼くして死んだ子供を守る仏として描かれていることによるものと思われる。
特に昔は、子どもの死亡率の高さ故に、先のような話からだんだんと子どもを救う守護神として定着し、各地の原始的な精霊信仰とも習合されながら道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになり、それぞれ地域の道端にも石地蔵が見られるようになったのである。
地蔵盆は全国的に行われている風習であるが、滋賀、京都、大阪など関西地方において特に盛んである。この地蔵盆が、関東に定着しなかったのは、地蔵信仰の歴史のちがいによるもので、京都では室町時代に地蔵盆が大流行したが、東京では江戸時代になって、やっとお地蔵さんが作られたからだろう。
地蔵盆は、京都では、地蔵菩薩の縁日である24日に向け、その前日(23日)の宵縁日と2日間行われているが、私の地元神戸でも同じく8月23日、24日の両日に行われている。このように、地蔵盆は基本的に8月23日24日の2日間行われるが、現代では、多少日程をずらして土日に行うところも増えているようであり、又、 近年、子どもが少なくなり2日を1日だけに短縮しておこなわれているところもあるようだ。
地蔵盆の主役は、あくまで子どもたちである。京都では、各町内ごと地蔵尊の前に屋台を組んで花や餅などの供物をそなえ、お菓子を食べながらゲームなどの遊び、福引きなどが行われる。また数珠繰りや数珠回し、といって玉が大きくて長い数珠を子供達みんなで回す儀式をする。大阪では地蔵盆には地車がでたり、神戸の中でも、歴史の古い長田区は、地蔵盆が盛んに行われている地いきの一つであり、宵縁日の8月23日を中心にお地蔵さんの掃除やお化粧をし、おそなえ物をして、お地蔵さんのまわりを提灯でかざり、線香を持ってお参りにきた子どもたちには町内の人からお菓子が配られる。これをお接待と言う。
お地蔵さんは、大概狭い路地裏にあった。何時もひっそりとあるお地蔵さんも、この日だけは飾り付けをし提灯の灯りで照らされて賑やかであった。私の小さい頃、家の近所の子供たちと線香を沢山持って、自分の住んでる町内だけでなく、相当遠くの方まで暗い路地を提灯の灯りをめざして歩いていった。子供のことであるからお参りすることよりも、お菓子をもらえるのが楽しみで行っていたのである。袋にお菓子を一杯つめてクタクタになって家へ帰ってきた。丁度、そのころは、戦後の食べ物のない貧しい時期だった。今の豊かな時代の子どもたちはどうしているんだろう?
しかし、このお地蔵さん、神戸地方ではあの阪神淡路大震災で多くが崩壊してしまった。そういえば、「長田区など被害の大きかったところでは、区画整理で、お地蔵さんを設置していた私道であった路地などが、区画整理事業完了後はすべて公道となり、市側が「宗教上の対象として公道に再び設置するのは難しく、障害物にもなる」と、存続を希望する住民の意見に難色を示している」といった報道を耳にしたことがある。震災後、月日が経った今、それらのお地蔵さんがどうなっているのか・・何処へ移設されているのだろうか・・・と心配をしていたのだが、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」をみてわかった。神戸市須磨区須磨寺町にある須磨寺の正覚院の前に引き取られているのである。
須磨寺正覚院/引き取られたお地蔵さん ↓
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html#<須磨寺正覚院>
あの阪神大震災も被害はこんなところにも及んでいたのである。他にも多数、被害にあったものがあり、各地で供養されている。一度、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」を見て貰いたい。
(画像は、須磨寺正覚院の引き取られたお地蔵さん 。以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」より)
参考:
京の六地蔵とは
http://shigeru.kommy.com/sikioriorirokujizoumeguri.htm
仏教入門
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_18.htm
地蔵盆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E7%9B%86
地蔵菩薩の部屋
http://www.geocities.jp/jizo_3/
地蔵菩薩像のお話
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/jizoubosatsu.htm
京都あちらこちら : 六地蔵めぐり 伏見六地蔵
http://piita.exblog.jp/3348308
京の通称寺 039 西院の河原
http://maru4114.blog.ocn.ne.jp/tusyo/2006/01/post_3d3a.html
和上巡礼-38/地 蔵 和 讃
http://homepage2.nifty.com/amida/jyunrei38.html
賽の河原(さいのかわら)の物語/瑞雲院 法話のページ
http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/80sai.htm
賽の河原地蔵和讚
http://kupo.hp.infoseek.co.jp/wasan.html
賽の河原(西院の河原)地蔵和讃
http://www.geisya.or.jp/~oterasan/okyou/sainokawara.htm
十王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B
江戸六地蔵
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizou.htm
日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/index.html
斎院 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BA%D8%B1%A1/detail.html?LINK=1&kind=epedia
京都伝説 西院の河原
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-75.html
空也上人
http://www4.ocn.ne.jp/~mibu/mibu/kuya.html
長田区地蔵盆
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kb/kb03/kb03025.htm
神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html
[PDF] 岩上力先生連続講演ノート 第 4 回
http://www.higashiyama.ed.jp/info/pdf/iwagami050820.pdf
地蔵盆は、地蔵の法会つまり、地蔵菩薩の縁日、(旧暦7月24日)に行う会式であった。
地蔵盆の提灯元は地蔵会、地蔵祭と呼ばれたが、8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆にちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったと言われている。地蔵祭では、地蔵のある町内の人々はこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたりお供え物をしたりして祀る。 地蔵盆の前後には、地蔵の据えられる家や祠の周囲などに、地蔵盆独特の提灯が多く飾られる。
この地蔵盆は、京都で洛外の六ヶ所にある地蔵菩薩(六地蔵)の縁日(旧暦7月24日)に行う会式が始まりである。(京の地蔵のことについては以下参考の「京の六地蔵とは」を見るとよく分かる。)その行事が広がったのであろう、近畿地方では古くから盛んな子供中心の行事として、地蔵に供物・灯明を供え、仏名を唱えたりする。
地蔵盆のお地蔵さんは、子どもの守り仏として古くから信仰されていたが、元は仏教に属する地蔵菩薩であった。
「地蔵菩薩本願経」に釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現されるまで、この世には仏がおられないので、仏に替わって衆生を済度されると説かれている。一切智成如来という仏であるが親しみやすい僧形である。地蔵菩薩(Skt:Ksiti - garbha)は、仏教の信仰対象である菩薩の1人で、kuksi(大地)と、garbha(胎内、子宮)の合成語で、意訳して「地蔵」と言う。
人間界のみにあらず地獄・飢餓・修羅・畜生・天といった六道すべてにおもむき、人々を救済したという。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされている。
地獄の王とも言われる閻魔大王は、「地蔵菩薩」の化身であるという話があり、また、地獄の十王(閻魔大王を含む、十人の裁判官)を統率しているのが地蔵菩薩であるともいう。地獄の思想と地蔵菩薩とは本来全く関係のないものであり、両者には何のつながりがないが、このようなことが結びつけられるようになったのは先にも述べたように、地蔵は「大地」を司る存在でもあり、そこから、地の底にある地獄を統率するのもまた地蔵であるという信仰が生まれ、そして、地獄での救い手を差し伸べるのも又地蔵だとされたのであろう。
京都・洛外の六地蔵の六体という数は、六道から来ている。平安時代、命は六道を輪廻・転生するという思想が広まると、人界だけではなく、六道全てにおいて救済してくれる存在として、六地蔵信仰が盛んになった。これらの地蔵にはそれぞれ名前がついている。文献によって相違があるようだが、『覚禅鈔』の例を出せば、先の六道の順番で、大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固の各地蔵である。これらは、持ち物などで姿からも区別される。(以下参考の「江戸六地蔵」を参照されたい)。
観音菩薩は多くの現世利益を目的としているのに対して、地蔵菩薩も同じ現世利益をといてはいるが、さらに過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰されている。地蔵は、地獄における死者の救済者として、死後のことは地蔵様におまかせする、俺たちは生きねばならぬ、困苦欠乏した苛烈な生活の中にありながら、人生を楽しまんとする当時の庶民の生活の知恵であったのであろう。
京都・洛外の六ヶ所の6地蔵は、いずれも墓地の近くにあるがそれは、六道に旅立つ死者を守るためであろう。地蔵信仰は奈良時代に日本伝わり、平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、現世利益を追求する民衆の欲求に応える形で、地蔵は現世から冥界に行く者を救済する存在として知られるようになり、これが京都を中心として全国的に広がったようだ。
地蔵と地獄に関する話としては、「賽の河原 」が有名である。賽の河原 は、冥土に至る途中にあると信じられている三途の河原で、親に先立って死んだ小児がこの河原で父母供養のために小石を積んで塔を作ろうとするが、石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現れて小児を救うという仏教説話がある。
この「賽の河原」 は、どこから来たかというと、京都西院(斎院)の河原かららしい。
四条西大路の北東角(京都市右京区西院高山寺町18番地)にある「高山寺」、寺号は日照山。本尊は地蔵菩薩。通称名:西院の河原 と言 われている。今ある寺院の多くは豊臣・徳川時代 に再現された物が多いという。 山門を潜ると先ず3メートル近い巨大な地蔵菩薩石像が目に入る。足利義政の妻日野富子はこの地蔵菩薩に子宝を祈願し、義尚を生んだ。その後、先に養子となっていた義視との間の将軍争いが応仁の乱にまで発展した為、この地蔵尊がその原因を作り、平安京を焼け野原にしてしまったといわれている。西院の河原、すなわち賽の河原で、子どもたちの霊が「ひとつ積んでは親のため…・」と河原の石を積んでいると、鬼がやってきてせっかく積んだ石を崩してしまう。すると高山寺のお地蔵様が現れ、子ども達を救ったという伝説から子ども守護の信仰が生まれたという。加茂川と桂川の合流するこのあたりの河原を、昔は、道祖(さい:佐比とも書く)大路・左比の河原と呼び、 淳和天皇が現在の阪急電車西院駅辺りに離宮を造営し、皇居から見 て西に当たるため「西院」と呼ばれた。 このようなことから西院は、「さいいん」とも読むが、「さい」とも読む(京福電鉄の西院駅は「さいえき」)。天皇が亡くなった後に離宮が焼失し、天神川の度重なる氾濫で一帯は荒廃して広い河原となった。この西院(さい)の河原には多くの捨て子が置き去られたり、子供の屍骸が捨てられたりで、悲惨な様子だったようだ。空也上人が憐れんで、石の地蔵菩薩像を刻み供養したという。空也上人が都を巡化された承平・天慶・天暦の頃(931-957)は、関東に平将門の乱が起こ り、南海に藤原純友らの海賊が横行していた乱世である。各地に戦いが起こり、群盗が横行し、 都大路でさえも夜半は盗賊の群れに占領されているという有様だったから、下層の庶民は子供の葬式どころではなく死ねば河原に捨てられたのであろう。
「帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」という実に哀れな文句で、始まる『西院河原(賽の河原)地蔵和讃』
「地蔵和讃」にはいろいろあり、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも多少歌詞が違っているようである。
8世紀の空也上人作と伝えられるが、実際には地蔵菩薩の信仰が普及した室町時代以降に空也上人に託して色々作られたものだろうと考える。、もともとの句には、むごいと思われる語句も含まれており、後世にそのむごい箇所を削除して書き換えて、広くうたい継がれている。ただ、この「西院の河原」が「西の河原」になり、いつしか「賽の河原」になったと伝えられている。この「地 蔵 和 讃」については、以下参考の「和上巡礼-38/地 蔵 和 讃」の説明がよく理解できる。
地蔵はよく子供と結びつけられるが、これは賽の河原地蔵和讃において、地蔵菩薩が幼くして死んだ子供を守る仏として描かれていることによるものと思われる。
特に昔は、子どもの死亡率の高さ故に、先のような話からだんだんと子どもを救う守護神として定着し、各地の原始的な精霊信仰とも習合されながら道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになり、それぞれ地域の道端にも石地蔵が見られるようになったのである。
地蔵盆は全国的に行われている風習であるが、滋賀、京都、大阪など関西地方において特に盛んである。この地蔵盆が、関東に定着しなかったのは、地蔵信仰の歴史のちがいによるもので、京都では室町時代に地蔵盆が大流行したが、東京では江戸時代になって、やっとお地蔵さんが作られたからだろう。
地蔵盆は、京都では、地蔵菩薩の縁日である24日に向け、その前日(23日)の宵縁日と2日間行われているが、私の地元神戸でも同じく8月23日、24日の両日に行われている。このように、地蔵盆は基本的に8月23日24日の2日間行われるが、現代では、多少日程をずらして土日に行うところも増えているようであり、又、 近年、子どもが少なくなり2日を1日だけに短縮しておこなわれているところもあるようだ。
地蔵盆の主役は、あくまで子どもたちである。京都では、各町内ごと地蔵尊の前に屋台を組んで花や餅などの供物をそなえ、お菓子を食べながらゲームなどの遊び、福引きなどが行われる。また数珠繰りや数珠回し、といって玉が大きくて長い数珠を子供達みんなで回す儀式をする。大阪では地蔵盆には地車がでたり、神戸の中でも、歴史の古い長田区は、地蔵盆が盛んに行われている地いきの一つであり、宵縁日の8月23日を中心にお地蔵さんの掃除やお化粧をし、おそなえ物をして、お地蔵さんのまわりを提灯でかざり、線香を持ってお参りにきた子どもたちには町内の人からお菓子が配られる。これをお接待と言う。
お地蔵さんは、大概狭い路地裏にあった。何時もひっそりとあるお地蔵さんも、この日だけは飾り付けをし提灯の灯りで照らされて賑やかであった。私の小さい頃、家の近所の子供たちと線香を沢山持って、自分の住んでる町内だけでなく、相当遠くの方まで暗い路地を提灯の灯りをめざして歩いていった。子供のことであるからお参りすることよりも、お菓子をもらえるのが楽しみで行っていたのである。袋にお菓子を一杯つめてクタクタになって家へ帰ってきた。丁度、そのころは、戦後の食べ物のない貧しい時期だった。今の豊かな時代の子どもたちはどうしているんだろう?
しかし、このお地蔵さん、神戸地方ではあの阪神淡路大震災で多くが崩壊してしまった。そういえば、「長田区など被害の大きかったところでは、区画整理で、お地蔵さんを設置していた私道であった路地などが、区画整理事業完了後はすべて公道となり、市側が「宗教上の対象として公道に再び設置するのは難しく、障害物にもなる」と、存続を希望する住民の意見に難色を示している」といった報道を耳にしたことがある。震災後、月日が経った今、それらのお地蔵さんがどうなっているのか・・何処へ移設されているのだろうか・・・と心配をしていたのだが、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」をみてわかった。神戸市須磨区須磨寺町にある須磨寺の正覚院の前に引き取られているのである。
須磨寺正覚院/引き取られたお地蔵さん ↓
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html#<須磨寺正覚院>
あの阪神大震災も被害はこんなところにも及んでいたのである。他にも多数、被害にあったものがあり、各地で供養されている。一度、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」を見て貰いたい。
(画像は、須磨寺正覚院の引き取られたお地蔵さん 。以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」より)
参考:
京の六地蔵とは
http://shigeru.kommy.com/sikioriorirokujizoumeguri.htm
仏教入門
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_18.htm
地蔵盆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E7%9B%86
地蔵菩薩の部屋
http://www.geocities.jp/jizo_3/
地蔵菩薩像のお話
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/jizoubosatsu.htm
京都あちらこちら : 六地蔵めぐり 伏見六地蔵
http://piita.exblog.jp/3348308
京の通称寺 039 西院の河原
http://maru4114.blog.ocn.ne.jp/tusyo/2006/01/post_3d3a.html
和上巡礼-38/地 蔵 和 讃
http://homepage2.nifty.com/amida/jyunrei38.html
賽の河原(さいのかわら)の物語/瑞雲院 法話のページ
http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/80sai.htm
賽の河原地蔵和讚
http://kupo.hp.infoseek.co.jp/wasan.html
賽の河原(西院の河原)地蔵和讃
http://www.geisya.or.jp/~oterasan/okyou/sainokawara.htm
十王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B
江戸六地蔵
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizou.htm
日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/index.html
斎院 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BA%D8%B1%A1/detail.html?LINK=1&kind=epedia
京都伝説 西院の河原
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-75.html
空也上人
http://www4.ocn.ne.jp/~mibu/mibu/kuya.html
長田区地蔵盆
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kb/kb03/kb03025.htm
神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html
[PDF] 岩上力先生連続講演ノート 第 4 回
http://www.higashiyama.ed.jp/info/pdf/iwagami050820.pdf