今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

航空安全の日、茜雲忌

2006-08-12 | 記念日
8月12日「航空安全の日、茜雲忌」
1985(昭和60)年の今日(8月12日)、史上最悪の航空機事故「日航ジャンボ機」が墜落した日。
1985(昭和60)年8月12日18時56分30秒ごろ、乗員524人を乗せた日本航空の123便、ボーイング747SR・100が群馬県の御巣鷹山(おすたかやま)に墜落した。搭乗者520人が死亡、乗客4人が奇跡的に重傷で救出された。※。墜落地点は御巣鷹山のすぐ南の高天原山にある無名の尾根である。後に、この尾根は、上野村村長であった黒沢丈夫によって「御巣鷹の尾根」と命名されるが、実際は御巣鷹山に属する尾根ではないそうだ。
遺族らがつくる「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」とも呼ばれれている。
日本航空123便は、8月12日18時12分に東京国際空港(羽田)を離陸、大阪国際空港(伊丹)に向かった。しかし、18時24分35秒、機内にドーンと言う音と共に123便は異常事態に陥った。伊豆半島東岸に達する直前で、高度は2万3900フィートを上昇中であった。その後、123便は約30分間、操縦不能に陥り、迷走飛行を続けた。駿河湾を横断して北上、北東に転じて山梨県大月周辺を通過、さらに西北西に向きを変えた。墜落に至る高度低下は、フラップ(翼の前縁か後縁の一部を変形させることで揚力と抗力を増加させる装置)を出しすぎたためと推測されている。事故の直接原因は、後部圧力隔壁(客室内の気圧を支える半球状の壁)の爆発であったという。その後の事故調査の中で、事故機は7年前、大阪国際空港で離陸時、後部胴体を滑走路に接触させる尻もち事故を起こしていた。その時のボーイング社の修理ミスがあった。後部圧力隔壁の下半分を交換したのだが、胴体に変形が残っていたらしい。上下隔壁を接合するとき、一部のリベット(複数枚の板状のものを束ね固定する鋲の一種)を打つ余裕がなくなり、そこに継ぎ板を用いたが継ぎ板は機能しない状態で取り付けられていたという。そのためリベットに想定以上の荷重がかかり、隔壁に金属疲労による亀裂が発生し、隔壁の破壊、ひいては垂直尾翼の破壊・油圧系統の喪失が起こり、操縦不能となっていたことがわかたという。
修理のミスは、専門家がよほど注意深く見ないとわからない種類のものであったという。一方金属疲労による亀裂は、事故前7ヶ月の検査の時、大きなものは、リベット両側で約1センチに達していたという。しかし、検査は、亀裂発見を主目的にしたものでなかったため、髪の毛より細い亀裂は発見されなかったという。航空機を製造ラインでつくるときには、間違いを犯さないための配慮が多くされる。しかし、修理は千差万別で、作業もその場その場で工夫する。航空機は修理の方が製造ラインで造るより難しいという。修理にミスは入り得る。航空界はその認識に欠け、修理ミスをチェックする機構が用意されていなかった。これが、この事故の本質的原因であるとされているようだ。(アサヒクロニクル・週刊20世紀より)
当時放送されていた日本テレビの「ザ・トップテン」では番組を時折中断して、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時はまだ不確定)を報道していた。事故の一報をNHKや他局より先にキャッチしたフジテレビは、ニュース速報を流した直後の午後7時半頃からレギュラー番組をすべて休止し、露木茂アナ(当時)をメインとした報道特別番組を約10時間に渡り放送していた。なお、同じフジテレビの逸見政孝アナ(当時)も123便に搭乗する予定であったが、妻の助言で直前に予約を取り消し、東海道新幹線に乗り換えていたため難を逃れている。その後もフジテレビは報道特別番組を流し続け、翌朝には中継に必要な機材を現場に運び上げ、生存者救出の映像を事故現場から生中継した。
巡航中に発生したトラブルが原因となった事故としては 世界的に見ても最も悲惨な事故であったといえるだろう。しかし、機内での乗客は、事故直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることもなく、みな落ち着いて行動している。そして、乗客の中には最期を覚悟し、家族への遺書を残す者もいた。これらの遺書は、事故現場から発見されたが大阪商船三井船舶神戸支店長の遺書 には、妻や子どの将来を案じ、妻に対して最後に「ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機はまわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」と記されていた。何と言う冷静さだろう。私には、自信がない。阪神大震災のときでも私より家人の方が落ち着いていたくらいだから・・・。
ボイスレコーダーの音声が、事故後15年以上たった2000年に、表に出てきた。なんでも、運輸省は1999年11月に関係資料を廃棄処分にしており非公開扱いのボイスレコーダーも廃棄されていたというが、ニュースステーションは日航機墜落事故の特集で、それをある人物がそのコピーを取っており、「たまたま入手」(久米宏)したとして、謎の爆発音から墜落に至るコクピット内の音声記録を放送した。当時ニュースでも大きく取り上げられていたので記憶のある方も多いだろう。しかし、運輸省はこのような重要なものを処分しようとするとはどういうことか?この事故に関しては、未だに、色々と疑惑が残っている。
ボイスレコーダーには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っていた。最初に残っていた音声は事故直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取り中、冷静で正常な客室乗務員の声とは裏腹にパイロット達の会話は正常な飛行状態では異常ともとれる緊迫した声だったと分析されている。この緊迫を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。
以下参考の「日航機墜落事故 - Wikipedia」にリンクされているボイスレコーダーと調査委報告書を基にしたflash(JAL123便墜落までの記録) では、そのボイスレコーダーの音声が聞ける。
機長と副長の、墜落を避けようと必死に努力するやりとりが 生々しく再現されているが、ノンフィクションだけにショッキングで胸が詰まりそうになる。
この日航機事故により、あの「上を向いて歩こう」の歌で有名な坂本九が僅か43歳の若さで亡くなった。坂本は本来、事故の多い日航を避け国内移動には必ず全日空を使っていたというが、この日は全日空便が満席でチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日航123便であったという。不運としか言いようがない。その反面、私が現役時代勤めていた会社では、東京本社で、役員クラスのものが全員集合しての重要会議があった。会社は、もともと大阪が本社であったため大阪から東京に出かけているものが非常に多かった。この事故後に話題となったことであるが、これら、大阪から東京に出張していた者の殆どが、大阪への帰りに、この日本航空123便のチケットを予約していたという。それが、朝から会議が紛糾し、相当時間が送れそうだというので、全員、他の時間の少し遅い便や新幹線などに予約を変更していたという。今まではその業界のトップクラスの企業になっているが、もし、その時、大阪の者がこの便に乗っていたなら、会社の半数近くの大物役員をなくしていたことになり今の会社の生長はなかったかもしれない。と言うよりも、会社そのものの存続すら危ぶまれたものである。そのため、以来、会社では、内規で、部長職以上のものは、事故に備えて出張の際は、何班かに分かれて同じ列車や航空便に固まって乗らないこととされた。
坂本九ではないが、当時から、日航機は事故が多く、避けていた人が多かったが、その時以来、殆どの者が出来るだけ使わないようにしていた。日航機は、それ以降も、事故を繰り返している。親方日の丸体質はなかなないらないのだろうね~。
(画像は、ボーイング747型機(-200型、外観は塗装以外ほぼ事故機と同様)フリー百科事典(Wikipedia)日本航空123便墜落事故より)
参考:
日航機墜落事故 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
日本航空123便墜落事故- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
日航機墜落事故 東京-大阪123便/新聞見出しに見る20年間の記録( 8・12連絡会 HP)
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
日航ジャンボ機墜落事故 ボイスレコーダー音声
http://popcorn-t.hp.infoseek.co.jp/
高揚力装置 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%8F%9A%E5%8A%9B%E8%A3%85%E7%BD%AE
リベット - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88