今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「菊池寛忌」小説家・菊池寛の忌日。

2007-03-06 | 人物
今日(3月6日)は、「菊池寛忌」。小説家・劇作家、ジャーナリストである菊池寛の1948(昭和23)年の忌日。
菊池 寛(きくち かん) は、1888(明治21)年12月26日 、香川県高松市生まれ。本名は同一表記で「―ひろし」。
旧制一高退学後、京大文学部英文科卒業。旧制一高在学中の豊島与志雄芥川龍之介久米正雄らと第3次、第4次新思潮を創刊。芥川の「」が夏目漱石に激賞されれるなどした。しかし、菊池 は戯曲『父帰る』(作品父帰る)などを発表したが、世評にも上らず、時事新報社会部記者として働きながら創作活動を始める。時事新報社時代に発表した『無名作家の日記』(作品無名作家の日記)、『恩讐の彼方に』(作品恩讐の彼方に)が評判になり、小説家として文壇的地位を確立する。『忠直卿行状記』(作品忠直卿行状記)、のような一連の"テーマ小説"を主張していたが、1920(大正9)年『真珠夫人』(作品真珠夫人)を新聞に連載し人気を得たことから通俗小説に力を入れ、「第一、芸術第二」を唱えた代表的な流行作家となる。
菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったというが、菊池が生まれたときには、維新で家禄を失い家は貧しかったようだ。その後も、作家として人気が出るまでは、相当金銭面で苦労したようである。
「真珠のように美しく気高い、男爵の娘・瑠璃子は、子爵の息子・直也と潔い交際をしていた。・・・が、家の借金と名誉のため、成金である勝平の妻に・・・。」何か、聞いたことのある話であるが、菊池のこの『真珠夫人』は尾崎紅葉の『金色夜叉』がベースにありその女性版といったところである。高尚な理想や思想もいいが、「生活の安定」がなかったら、意味がない。「金がすべて」という考え方は、終生、変わらなかったようだ。
そして、これを期に記者をやめ、1923(大正12)年1月、私財を投じて文藝春秋社を創設、その鋭いジャーナリストセンスで雑誌『文藝春秋』を創刊した。
この「文藝春秋」は、菊池の「自分で考えていることを自由な気持ちで言ってみたい」ということからスタートしている。そのことは、有名な文藝春秋創刊の辞の次のような言葉で始まっていることからも分かる。
「文藝春秋社創刊の気持ちは、私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだろう。又、私が知っている若い人達には、物が云いたくて、ウズゝしている人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。」・・・と。
菊池は、その後、出版事業に力を注ぎ、日本文藝家協会の設立にも尽力。芥川賞直木賞を設立した。
菊池は、文藝春秋の創刊で、大成功を収め富豪になった。そして、大映初代社長も務めた。これらの成功で得た資産などで、川端康成横光利一小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。
文藝春秋の創刊と同じ年の9月1日、関東大震災が発生した。その時、色んな噂やデマが取り上げられ、その中に「朝鮮人が混乱、暴徒化した」というものもあった。このことに対して、震災後の戒厳令下で芥川龍之介は、菊池 に問うた。「この大火は一部の朝鮮人の放火だという噂がある」と、「嘘だよ君」と菊池 は一喝する。芥川はさらにいう「朝鮮人はボルシェビキ(ロシア共産党)の手先だとの噂もある、と。菊池 はいう、「嘘さ、君、そんなことは」と・・・屈折した文章を用いて、芥川が言いたかったのは、”善良なる市民”は、菊池 と違って嘘を信じやすいし、万一信じられぬ時は「少なくとも信じているらしい顔つきを装わねばならぬものである」と言うことであった。「善良なる市民が、時には、狂暴な一隊に変る恐ろしさを芥川は知っていた。(朝日クロニクル「週間20世紀」)善良なる市民たる芥川の質問にたいして、菊池は噂やデマを信じもしなければ信じる真似もしない。このことを、芥川は後日、『大震災雑記』の中で、少々菊池を冷ややかな目で見て書いているようだ。
1937(昭和12)年、日中戦争が始まると、当時の新聞の論調もそれを否定するどころか戦争を煽る調子であった。菊池の文芸春秋社も当然のように戦意を鼓舞した。このとき菊池が『文藝春秋』で戦意高揚に努めたのも、軍部に逆らわず、生活を守るためという単純な発想だったとしたら、それは、菊池もやはり、芥川のいうただの、「善良なる市民」であったということだろうか。
しかし、それが災いして、敗戦後、戦争犯罪人としてGHQから菊池らに対して公職追放令(公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令参照)が発せられ、その後、将棋などをして閑暇を過ごし、翌1948(昭和23)年の今日(3月6日)、失意のうちに狭心症で急逝。60歳だった。
1931(昭和6)年の満州事変以後の戦争を始めたのは当時の政治であり軍部の誤りであるとはいうものの、菊池をはじめ、言論に関わる者も全てがこれに巻き込まれざるをえない状況にあったようだ。もしそうであれば、あの戦争で、菊池寛が戦犯ならば、日本の善良なる市民全員が戦犯だったと言いうことになるではないだろうか。
菊池のことについて、仲間の豊島与志雄 が書いている。菊池の性格などを良く表しているようである。
豊島与志雄 「最近の菊池寛氏」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000906/card42472.html
(画像は、大正8年の写真、一番左が菊池寛で、隣が芥川龍之介。フリー百科事典Wikipediaより)参考:
菊池寛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B
菊池寛アーカイブ
http://www.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/
作家別作品リスト:菊池 寛(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person83.html
第一高等学校 (旧制)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
新思潮 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%80%9D%E6%BD%AE
菊池寛|名句名言のウラ側は
http://meigen.ivory.ne.jp/meiku/kikutikan.htm
恩讐の彼方に・忠直卿行状記他八篇 菊池寛 : 岩波書店
http://www.ebookjapan.jp/shop/title.asp?titleid=1917&genreid=10000
日本国の研究 不安との訣別/再生のカルテ・編集長 猪瀬直樹
http://www.inose.gr.jp/mailmaga/mailshousai/2004/04-8-26.html
半月城通信No. 55(大震災雑記・芥川龍之介)
http://www.han.org/a/half-moon/hm055.html
関東大震災 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
豊島与志雄 「最近の菊池寛氏」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000906/card42472.html
菊池寛の時代
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/magazine/017/esse3.htm
日本ペンクラブ:電子文藝館・関東大震災
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/imaiseiichi.html
公職追放 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE