今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

靴の記念日

2007-03-15 | 記念日
今日(3月15日)は、「靴の記念日」。
以下参考に記載の東都製靴工業協同組合ほか靴関係業界のHPを総合すると、1870(明治3)年のこの日は、靴業界の先駆者の一人である西村勝三が、東京・築地居留地(旧築地入船町5丁目1番)に日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を創建した日だそうで、造靴年代の早さでは他にも該当者はいたが、一生を靴業界発展のために尽くし、人格的にも、業績面でも他に匹敵する人物がいないことから、西村勝三を靴業界の象徴として認め、彼が工場を開設した日を日本靴連盟が1932(昭和7)年に「靴の記念日」と制定したのだという。
勝三は佐倉藩の付家老の三男として江戸の藩邸で生まれたが、これからは武士の時代では無いと明治維新より7年前に刀を捨て、商人になった開明進取の人だったそうで、1866(慶2)年に、横浜で「伊勢勝」の看板を掲げて商っていたものは銃器だったそうだ。
日本の洋服の事は以前に私のブログ「洋服記念日」でも採りあげたが、1853(嘉永6)年のペリー来航 以来、欧米人の来航が頻繁になり、西洋文化の先進性を見せつけられた日本人は、今までは一部の蘭学生、医師、その他出島にいるオランダ人とともに生活している人々の中で模倣されていた服装が武士、町人など新思想の人々に部分的に取り入れられるようになった。1855(安政2)年、オランダ政府が海軍伝習派遣部隊を幕府に献納。日本から参加した勝麟太郎(勝海舟)他170名の伝習生たちの制服として、オランダから洋服が輸入された。1859(安政6)年、横浜が開港。幕末の動乱期、尊皇攘夷派と開国派の対立が深まるにつれ、洋服を着用する人が暗殺の対象となり、洋装は一部の武士を除いて敬遠される時期が暫く続いた。また、幕府による部分的衣服禁止令(急進的な異国への傾倒を牽制するため)も発令されたが、軍事訓練の必要から服装を改良、実情を考慮し幕府艦乗組員(御軍艦方)に対する洋服着用禁止令の解除が行われ、1861(文久元)年、武家服装の長裃廃止、この年、正式に幕府、軍事訓練用の洋服と共に、洋靴の着用を許可したのである。丁度、この年、フランスで手工技術を習得し来日していたオランダ人靴工のエフ・ジェ・レマルシャンが、横浜に靴工場を開き、彼の手縫い靴は足にやさしい"革の足袋"として評判にっていたそうだが、後には、西村勝三の「伊勢勝」造靴場に迎えられたそうだ。
1867(慶応2)年大政奉還。明治天皇は、新政府の基本方針を表明し、1868年6月11日(明治元年閏4月21日)には政体書によって新しい政治制度を採用。明治天皇は率先して洋服に洋靴を採用する。1869(明治2)年兵部省が誕生。兵士には洋服を着せ靴を履かせる事になるが、すべて外国より調達するようでは困るので、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋澤栄一などの支援などを得て東京・旧築地入船町に西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を創建し陸軍兵士用の靴の生産を開始したのが1870(明治3)年の今日であった。
1872(明治5)年、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出され、軍人や警官に続き文官の礼服にも洋式が採用され、政府役人に大礼服、通常礼服の着用が義務づけられる事となった。ここから洋装化が本格的に始まったといえるだろう。
「伊勢勝造靴場」で、最初に大量に造られたのは 軍靴であったが、華やかな鹿鳴館時代の服装にふさわしい紳士・淑女の靴 も造られたそうで、勝三は続いて製革業をおこし、一方では洋服に強い関 心を持ち、新時代のショッピング街銀座に初の洋服裁縫店を開いているのだという。近代日本では1858(安政5)年の日米修好通商条約など欧米5カ国との条約により、外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域の開港場に居留地を設置することが決められ、この条約では東京と大阪の開市、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の五港を開港し、外国人の居住と貿易を認めていた。
東京は、開港場ではないが、開市場として1869年築地鉄砲洲に外国人居留地を設けたのだという。今日の中央区明石町一帯である。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会やミッションスクールが入ったため、立教大学や明治学院大学の発祥地となっている。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いたという。築地居留地も1899年(明治32)の治外法権撤廃で廃止されている。居留地と言うとつい開港場の近くにあるものとばかり思ってしまうが、開市にもあったのだ。因みに、大阪の開市は、川口で大阪居留地、大阪川口居留地とも呼ばれる。
私なんか、築地というと中央区築地にある公設の卸売市場築地市場を連想するが、此処に居留地があったんだよね。当時は、明石町は西洋の街として賑わい、ここから新しい文明の息吹が東京中に広がっていったのだろう。そして、その周辺地域には外国人相手に西洋の生活用品を作り、商う日本人も増えていったろう。 西村勝三が、この居留地設置と時を 同じくしてその隣の町で靴の製造を始めたのは、流石先見の明のある彼らしいよね。
ところで、余談であるが、幕末の頃のことで、靴というと思い出すのが、坂本龍馬だよね~。薩長同盟の立役者で、司馬遼太郎の作品を始め、小説やドラマに度々取り上げられる人物ではあるが、海外の影響を受け、羽織、袴にショートブーツらしき西洋靴を履いて撮った写真(上野彦馬撮影)が有名だよね~。それに、剣術は、北辰一刀流の免許皆伝と言われるが(ここ参照)、この写真では、長刀を差しておらず、懐に右手を差し入れている。これには、逸話があり、当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき龍馬の旧友が龍馬と再会したとき、龍馬は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。 -- これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで逸話であって史実ではない。逸話の起源も、定かではないようだが、龍馬にふさわしい話だ。
(画像は、坂本龍馬 。上野彦馬撮影。画像は週間朝日百貨「日本の歴史」より)
靴 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%B4
日本靴卸団体連合会
http://www.shoes.gr.jp/top_j.html
近代産業の祖・西村勝三
http://www.sakura-cci.or.jp/navi/rekishi/katuzo.html
東靴協会・靴の記念日
http://www.toukutsu-kyokai.jp/kutsu_kinenbi.html
日本靴医学会
http://www.kutsuigaku.com/
はきもの世界史
http://www.footandtoy.jp/item_details.php?item_id=26
靴の歴史を散歩しよう
http://www.shoes.gr.jp/history_main.html
明石町ぶらり散歩道「築地外国人居留地」-
http://www.pacificresorts.com/promenade/kyoryuchi.shtml
『築地外国人居留地』補遺(2)バード夫人と「築地居留地」
http://www.yushodo.co.jp/pinus/63/press/index.html
東都製靴工業協同組合
http://www15.ocn.ne.jp/~tsa-web/index.html
外国人居留地
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0#.E7.AF.89.E5.9C.B0.E5.B1.85.E7.95.99.E5.9C.B0
佐倉藩 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E8%97%A9
大村益次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E
渋沢栄一- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
靴の発祥と歴史/足と靴の健康相談室・シューズサロン田口
http://www.koganet.ne.jp/~staguchi/tagutinope-ji3.htm
鹿鳴館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8