1868年(慶応4年=明治元)年の今日(旧暦3月13日 =新暦では4月5日)、西郷隆盛と勝安芳(海舟)が江戸で会見。翌日、江戸城の無血開城を決定した。
明治維新において西郷と勝海舟の会談により、江戸城は無血開城され、そのため、江戸は戦火をまぬがれた。その後、1871(明治4)年~6年の間は、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、近代日本の礎を作った。この西郷隆盛については、前に私の以下のブログでも書いたのでそこで見てください。→「西郷隆盛」の忌日」
勝 海舟は、1823(文政11)年、江戸本所亀沢町の生まれ(以下参考に記載の「幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都墨田区」参照)。父・小吉の実家である男谷家で誕生した(小吉は勝家の養子)。
剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝であったという。蘭学修行中に,、蘭学者佐久間象山の知遇を得、象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。
1853(嘉永6)年、ペリーが来航し開国を要求。開国を嫌う老中阿部正弘の海防に関する意見書募集に応じて海舟の提出した意見書が、阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たした。その後、長崎の海軍伝習所に入門。伝習所ではオランダ語がよく出来たため、教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。そして、足掛け5年間を長崎で過ごす。この時期に、当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ることができ、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなった。その後、咸臨丸でのアメリカサンフランシスコへ渡航し、帰国後、1862(文久2)年の幕政改革で海軍に復帰し軍艦操練所頭取を経て、軍艦奉行に就任。海軍塾を作り薩摩や土佐の荒くれものが出入りした(塾頭は坂本龍馬)。そして、神戸海軍操練所を設立。神戸海軍操練所はここだ!
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/soren/soren.html
1864(元治元)年5月から幕府派・反幕府派を問わず、 全国から生徒を募集。勝自身の主張である「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではなく日本の海軍建設を目指すが、一部の塾生が、7月に起きた禁門の変(蛤御門事件ともいう)に反幕府派として参加、海舟は幕府の嫌疑を受け、保守派から睨まれ、翌年操練所は閉鎖、軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。また、海舟が、西郷隆盛と初めて会ったのは、この時期で、1864(元治元)年9月11日大阪にてであったという。西郷は、神戸港開港延期をしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったとされる。1866(慶応2)年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州を説得、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功するが、この件では、いわば勝は、時間稼ぎに利用され、裏切られたのである。これに対し勝は自ら御役御免を願い出て江戸に帰る。
1867 (慶応3)年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作に乗せられて、慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり慶喜が討薩の軍を進めたことから、戊辰戦争の出発点となる鳥羽・伏見の戦いが始まる。1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であったが、旧幕府軍は肝心の徳川慶喜自身が開戦に消極的であったことなども影響し、戦闘態勢が十分に取れないうちに、錦の御旗の登場で恐慌状態に陥り、諸藩の部隊が次々と寝返るなどしてついに瓦解し大敗。徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していた。しかし、官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、勝は早期停戦と江戸城の無血開城を主張した。
恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝は幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け、鉄舟は3月9日、駿府の西郷と会談、西郷より降伏条件が伝えられた。その4日後の3月13日、高輪の薩摩藩邸に入り、勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。翌14日、勝は旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日に勅使が江戸城に入り、・慶喜は水戸にて謹慎、 ・江戸城は尾張家に預ける、等とした条件を勅諚として伝え、4月11日に江戸城は無血開城された。
兎に角、この勝の「公のために」という必死の説得に西郷が応じたことにより、江戸市中での戦乱が免れ、江戸市中150万人の生命を戦火から救われたのであるが、これを不服とする徹底抗戦派の幕臣は大量に江戸を脱走し、その後の宇都宮城の戦い、上野戦争、船橋の戦い、北越戦争・会津戦争へそして、最後の抵抗を試みた箱館戦争へと戊辰戦争は継続されることになるのであるが、このような旧幕軍の抵抗に関して、勝は、終始反対の立場であった。また勝は、維新後、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護など、幕藩体制崩壊による混乱を最大限抑える努力を明治30年間に渡って続けたという。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごす。幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男の氷川のわび住まいに、東京朝日、国民新聞、東京毎日の者等が訪れて、海舟の談話を聞き書きしたものを「氷川清話」といい、その新聞連載を編集し直し吉本襄(みのる)が日進堂から刊行した『氷川清話』が有名で、他にも巌本 善治による『海舟座談』がある。
そこには、勝が西郷との会談をした時の状況について、”江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ。そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気楽にはこまるといって、つぶやいていたようすだったが、なに相手が西郷だから、むちゃなことをする気づかいはないと思って、談判のときにも、おれは欲はいわなかった。「ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは頼むぜ」といったばかりだった。それに西郷は、七十万石くれると向こうからいったよ。”(相手をよく見て交渉せよ) とか、”さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊〔人間〕も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。”(品川での談判) などと言ったことがざっくばらんに書かれている。以下の国立国会図書館デジタルアーカイブポータルへアクセスし、,著者:吉本襄 と、タイトル:氷川清話を入力し、検索をクリックすると、保存本を見ることが出来るよ。
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) ↓
http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php
(画像は東京城【旧江戸城】明治4年撮影。江戸城は明治元年10月、天皇の入場後、東京城となった。維新後の各藩の状況をも髣髴させる1枚。東京国立図書館蔵。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
「西郷隆盛」の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C0%BE%B6%BF+%CE%B4%C0%B9
勝海舟-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都墨田区
http://homepage1.nifty.com/~juno/siseki/siseki/s_tokyo_07.html
作家別作品リスト:勝 海舟(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person354.html
幕末の海軍伝習・操練所
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse021.html
神戸龍馬操練所
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/index.html
龍馬物語
http://www5.inforyoma.or.jp/~appli/monogatari/monogatari.htm
旧海軍操練所跡記念碑|神戸市中央区ホームページ
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/83/base/mati/01-99/mati81.htm
江戸城無血開城
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/edoopen.html
勝海舟
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaishu.htm
Amazon:氷川清話 (文庫) 勝 海舟 (著),
http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B8%85%E8%A9%B1-%E5%8B%9D-%E6%B5%B7%E8%88%9F/dp/406159463X
氷川ひかわ)清話(せいわ)―勝海舟の談話筆記―
http://kindai.bungaku1.com/meiji/hikawa.html
松岡正剛の千夜千冊『氷川清話』勝海舟
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0338.html
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)
※このページに,著者:吉本襄 と、タイトル:氷川清話を入力し、検索をクリックすると、本を見ることが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php
明治維新において西郷と勝海舟の会談により、江戸城は無血開城され、そのため、江戸は戦火をまぬがれた。その後、1871(明治4)年~6年の間は、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等、近代日本の礎を作った。この西郷隆盛については、前に私の以下のブログでも書いたのでそこで見てください。→「西郷隆盛」の忌日」
勝 海舟は、1823(文政11)年、江戸本所亀沢町の生まれ(以下参考に記載の「幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都墨田区」参照)。父・小吉の実家である男谷家で誕生した(小吉は勝家の養子)。
剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝であったという。蘭学修行中に,、蘭学者佐久間象山の知遇を得、象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。
1853(嘉永6)年、ペリーが来航し開国を要求。開国を嫌う老中阿部正弘の海防に関する意見書募集に応じて海舟の提出した意見書が、阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たした。その後、長崎の海軍伝習所に入門。伝習所ではオランダ語がよく出来たため、教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。そして、足掛け5年間を長崎で過ごす。この時期に、当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ることができ、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなった。その後、咸臨丸でのアメリカサンフランシスコへ渡航し、帰国後、1862(文久2)年の幕政改革で海軍に復帰し軍艦操練所頭取を経て、軍艦奉行に就任。海軍塾を作り薩摩や土佐の荒くれものが出入りした(塾頭は坂本龍馬)。そして、神戸海軍操練所を設立。神戸海軍操練所はここだ!
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/soren/soren.html
1864(元治元)年5月から幕府派・反幕府派を問わず、 全国から生徒を募集。勝自身の主張である「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではなく日本の海軍建設を目指すが、一部の塾生が、7月に起きた禁門の変(蛤御門事件ともいう)に反幕府派として参加、海舟は幕府の嫌疑を受け、保守派から睨まれ、翌年操練所は閉鎖、軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。また、海舟が、西郷隆盛と初めて会ったのは、この時期で、1864(元治元)年9月11日大阪にてであったという。西郷は、神戸港開港延期をしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったとされる。1866(慶応2)年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州を説得、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功するが、この件では、いわば勝は、時間稼ぎに利用され、裏切られたのである。これに対し勝は自ら御役御免を願い出て江戸に帰る。
1867 (慶応3)年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古の大号令により、大坂に退いていた前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作に乗せられて、慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり慶喜が討薩の軍を進めたことから、戊辰戦争の出発点となる鳥羽・伏見の戦いが始まる。1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であったが、旧幕府軍は肝心の徳川慶喜自身が開戦に消極的であったことなども影響し、戦闘態勢が十分に取れないうちに、錦の御旗の登場で恐慌状態に陥り、諸藩の部隊が次々と寝返るなどしてついに瓦解し大敗。徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していた。しかし、官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、勝は早期停戦と江戸城の無血開城を主張した。
恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝は幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け、鉄舟は3月9日、駿府の西郷と会談、西郷より降伏条件が伝えられた。その4日後の3月13日、高輪の薩摩藩邸に入り、勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。翌14日、勝は旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日に勅使が江戸城に入り、・慶喜は水戸にて謹慎、 ・江戸城は尾張家に預ける、等とした条件を勅諚として伝え、4月11日に江戸城は無血開城された。
兎に角、この勝の「公のために」という必死の説得に西郷が応じたことにより、江戸市中での戦乱が免れ、江戸市中150万人の生命を戦火から救われたのであるが、これを不服とする徹底抗戦派の幕臣は大量に江戸を脱走し、その後の宇都宮城の戦い、上野戦争、船橋の戦い、北越戦争・会津戦争へそして、最後の抵抗を試みた箱館戦争へと戊辰戦争は継続されることになるのであるが、このような旧幕軍の抵抗に関して、勝は、終始反対の立場であった。また勝は、維新後、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護など、幕藩体制崩壊による混乱を最大限抑える努力を明治30年間に渡って続けたという。 晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごす。幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男の氷川のわび住まいに、東京朝日、国民新聞、東京毎日の者等が訪れて、海舟の談話を聞き書きしたものを「氷川清話」といい、その新聞連載を編集し直し吉本襄(みのる)が日進堂から刊行した『氷川清話』が有名で、他にも巌本 善治による『海舟座談』がある。
そこには、勝が西郷との会談をした時の状況について、”江戸城受け渡しのとき、官軍の方からは、予想どおり、西郷が来るというものだから、おれは安心して寝ていたよ。そうすると皆のものは、この国事多難の際に、勝の気楽にはこまるといって、つぶやいていたようすだったが、なに相手が西郷だから、むちゃなことをする気づかいはないと思って、談判のときにも、おれは欲はいわなかった。「ただ幕臣が飢えるのも気の毒だから、それだけは頼むぜ」といったばかりだった。それに西郷は、七十万石くれると向こうからいったよ。”(相手をよく見て交渉せよ) とか、”さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊〔人間〕も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。”(品川での談判) などと言ったことがざっくばらんに書かれている。以下の国立国会図書館デジタルアーカイブポータルへアクセスし、,著者:吉本襄 と、タイトル:氷川清話を入力し、検索をクリックすると、保存本を見ることが出来るよ。
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) ↓
http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php
(画像は東京城【旧江戸城】明治4年撮影。江戸城は明治元年10月、天皇の入場後、東京城となった。維新後の各藩の状況をも髣髴させる1枚。東京国立図書館蔵。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
「西郷隆盛」の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C0%BE%B6%BF+%CE%B4%C0%B9
勝海舟-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
幕末関連史跡補完計画:史跡便覧:東京都墨田区
http://homepage1.nifty.com/~juno/siseki/siseki/s_tokyo_07.html
作家別作品リスト:勝 海舟(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person354.html
幕末の海軍伝習・操練所
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse021.html
神戸龍馬操練所
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/index.html
龍馬物語
http://www5.inforyoma.or.jp/~appli/monogatari/monogatari.htm
旧海軍操練所跡記念碑|神戸市中央区ホームページ
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/83/base/mati/01-99/mati81.htm
江戸城無血開城
http://y-hyouma.hp.infoseek.co.jp/history/edoopen.html
勝海舟
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kaishu.htm
Amazon:氷川清話 (文庫) 勝 海舟 (著),
http://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B8%85%E8%A9%B1-%E5%8B%9D-%E6%B5%B7%E8%88%9F/dp/406159463X
氷川ひかわ)清話(せいわ)―勝海舟の談話筆記―
http://kindai.bungaku1.com/meiji/hikawa.html
松岡正剛の千夜千冊『氷川清話』勝海舟
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0338.html
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap)
※このページに,著者:吉本襄 と、タイトル:氷川清話を入力し、検索をクリックすると、本を見ることが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php