今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東洋のマタハリと言われた男装スパイ・川島芳子こと金璧輝が北京で銃殺刑

2007-03-25 | 歴史
1948年の今日(3月25日)、 中国の国民党政府軍に逮捕されていた東洋のマタハリと言われた男装スパイ川島芳子こと金璧輝に対し北京で銃殺刑が執行された。(41歳)
川島 芳子は清朝最後の王族・粛(しゅく)親王の第14王女として1907年5月24日北京に生まれた。本名、姓は愛新覚羅(あいしんかくら)名は顕シ(けんし。シの字は、王ヘンに子)、字東珍、父の粛親王は、清の太祖努爾哈齊(ヌルハチ)から数えて10代目の子孫である。
別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられたという。辛亥革命後、5歳の時に、父粛親王と交わりのあった中国語の堪能な満州浪人川島浪速の養女となり日本で少女時代を過ごし東京の豊島師範付属小学校を卒業、跡見女学校に進んだ後、川島は東京から長野県松本への転居にともない長野県松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に転校した。芳子は、生来性格は奔放であったようだが、堅実な家庭生活をうけることなく育ったせいか常識に欠けるところがあったという。1922(大正11)年に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。ただ、男装の動機については諸説あって真相は分からないらしい。
清朝復興を夢見、日本軍の特務機関員らと、上海事変満州国建国に関与したとされる。川島 芳子が、日本軍に関係するようになったのは、満州事変前年1930(昭和5)年に上海の公使館付武官補佐官の田中隆吉少佐と出合ったのがきっかけと言われている。1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から2ヵ月後に、日本軍は後の満州国皇帝にまつりあげた宣統帝(せんとうてい=中国、清朝最後の皇帝)溥儀を天津から旅順に脱出させたが、川島芳子は関東軍板垣征四郎参謀長の依頼を受け、残された溥儀の皇后婉容を天津から満州に連れ帰るなどした。1932(昭和7)年、溥儀を執政とする満洲国が成立すると、川島芳子は新京で満洲国女官長に任命されたが、実際には就任していないという。
1933(昭和8)年、松村梢風が芳子をモデルにした小説『男装の麗人』を発表すると、一躍時代の寵児となった。ある時は背広姿、時には羽織袴、戦時下には特注の軍服を着て大陸と日本を往復した勇士が「東洋のジャンヌ・ダルク」ともてはやされ、舞台や映画にもなった。また、芳子が歌う「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードも発売されている。
ところが、戦後、日本の軍服を着て司令の肩書きをっもっていた彼女は、漢奸(かんかん=売国奴)として国民政府に逮捕されるにいたって、英雄ジャンヌ・ダルクは妖艶な女スパイ、マタ・ハリに堕ちた。
1947(昭和22)年日本では東京裁判で、日本の戦犯裁判に耳目が集まるなか、中国高等法院でも、北平(北京)第一監獄では、日中戦下で「女間諜X14号」として情報活動をしたとした川島芳子の戦犯公判がスピード結審、死刑判決を受けていた。
「スパイ?裁く中国法廷」の見出しで、死刑判決と獄中生活を報じたアサヒニュース(12月13日付)は、「粛親王の遺児金璧輝は、はたして喧伝されているような革命児であり、國際間諜としてらつ腕を振るった人物であろうか。それとも家門の名ゆえに、その背景を利用しようとする日本軍部の手先に踊らされた一人のドンキホーテに過ぎないのか。高等法院では有罪と断じ極刑を課したが、再審請求によって、さらに公判が続行されればベールに覆われた男装の麗人の正体も一そう明確にされるであろう」という。しかし、2度の再審請求は却下され、1948(昭和23)年3月25日早朝、監獄の片隅で死刑は執行された(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
彼女は、川島浪速の養女となるが、養父川島が芳子の帰化手続きを行っていなかったため日本人とは認められず、日本国籍でないが故に漢奸罪が適用されてしまったともいう。もっとも、当時の中国は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらず中国人とみなされ、漢奸罪が適用されたものと解することもできるそうだが・・。同様に漢奸の嫌疑で裁判にかけられた李香蘭こと山口淑子は日本人と認められ釈放されている。
奇行も多い彼女だが、芳子は満洲国が清朝の復辟(ふくへき。「辟」は君主の意。退位した君主が再び位につくこと。)ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍の満洲での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視されるようになっていたという。遺骨は松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。
しかし、彼女の処刑後、中国紙が替え玉説を報道し、日本でも生存のうわさが流れ、事態を重視したGHQが調査を行ったが真相を究明することはできなかったという。これも彼女ならではの後日談であろう。
辞世の句
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句であるという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という前半の二句は芳子が生前好んで揮毫(きごう。〔ふでを揮(ふる)う意〕文字や書画を書くこと)していた句であるそうで、彼女の孤独な心情を表している。いずれにしても、彼女も、戦争に翻弄された哀れな清朝のプリンセスであったことには間違いないようだ。
(画像は男装の麗人「東洋のlマタハリと呼ばれた男装のスパイ川島芳子。写真の撮影年場所など不明とのこと。アサヒクロニクル「週間20世紀}より)
川島芳子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90
川島浪速
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/taisho/jikoh/knaniwa.htm
村松梢風 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E6%9D%BE%E6%A2%A2%E9%A2%A8
誰か昭和を想わざる 男装の麗人
http://www.geocities.jp/showahistory/history2/08c.html
松岡正剛の千夜千冊『乱の王女』生島治郎
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0304.html