今日(3月11日)は、武田勝頼 (武将,武田信玄の子)の1582年 の忌日。天目山の合戦で自害 した。
武田 勝頼は、1546(天文15 )年甲斐の戦国大名・武田信玄の四男として生まれ、武田氏第20代当主となる。
甲斐から信濃への版図拡大に踏み出したとき、真っ先に攻略対象とした諏訪頼重には側室の小見の方との間にできた美貌の姫があった。実名は不詳。諏訪御寮人と表記されている。武田晴信(信玄)によって、諏訪頼重が討たれた後、晴信が彼女の美貌に惹かれて側室にしたといわれるが、彼女が甲斐に来たと思われる時はまだ12~13歳の少女であることから、実際には、政略的な色合いの方が強かったようである。それが、勝頼の生母である。絶世の美女は、自分の父の敵を夫として、一子・勝頼をもうけるものの、若くして世を去った薄幸の女性として小説に、ドラマにとりあげられている。しかし、勝頼の誕生によって、諏訪家が存続でき、諏訪の人々はそれを喜んで、人質を甲府に送って武田家に忠誠を誓ったとう。
父・信玄は自らが滅ぼした諏訪氏の家督を継がせようとして、1562(永禄5)年に母の実家である諏訪氏の名跡を継がせ、諏訪四郎勝頼と名乗らせ、川中島の戦いで叔父の信繁(武田信玄の同母弟)が戦死すると翌年正式に伊奈郡代に任命され、高遠城主となる。
1563(永禄6)年の上野箕輪城攻めで初陣。その後の上野・箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた、永禄12年(1569年)の北条氏の武蔵・滝山城攻め、相模・小田原城攻めに起因する三増峠の戦い、1570(元亀元)年の駿河・躑躅ヶ崎館に移るが、これが、事実上、勝頼を後継者にすると信玄が明確にしたことを現すものであった。
1572(元亀3)年、父・信玄が西上作戦を開始すると、一隊の大将として参戦し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦い、これを破るという武功を挙げた。1573(元亀4)年4月、父・信玄が上洛作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし信玄の死去により上洛作戦は頓挫し、勝頼は本拠地・甲斐に軍勢を撤退させた。
信玄存命中は守勢一方であった織田信長、徳川家康らは信玄の死により、窮地を脱し逆襲が始めた。そして、あの有名な、1575年6月29日(天正3年5月21日)の長篠の戦いへと繋がって行くのである。この戦いで、武田軍は1万人以上もの死傷者を出し敗北。その後、勝頼は武田軍団の再建を目指し、父の宿敵であった上杉謙信と同盟を結ぶなどしたが、天目山の戦いのなかで、最後は、滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山を目指したが、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。享年37歳であった。これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡した。長篠の戦い以降のことの詳しくは、天目山の戦いを見られると良い。私にとっては、この武田勝頼 に付いて、一番印象に残っているのは、黒澤明 監督映画「影武者」(1980)である。武田信玄の影武者として生きた一人の男の悲喜劇と、主人の遺言を守りながら戦場に散っていった家臣たちの辛苦を描おている。
信玄は、野田城攻めの一夜、勝利を目前にしながら、鉄砲で狙撃され、「われ死すとも、三年は喪を秘し、領国の備えを固め、ゆめゆめ動くな」との遺言を残し世を去った。信玄はかねてから、自分の影武者として信玄と瓜二つの無頼の盗人を用意していた。口のきき方も馬の御し方も心もとないこの男が次第に威厳のようなものをそなえるようになっていく。当初主演だった勝新太郎が撮影開始後に監督と衝突し降板したことから、仲代達矢が演 ずることになったが、粗野な男から徐々に影として本物の信玄になりきっていく・・・その変化が実にすばらしかった。この演技は勝ではなく仲代だから出来たように思う。しかし、こうした成行に、内心いら立っていたのは勝頼であった。映画では、信玄は世継ぎを竹丸と決めていた。嫡子ではなくとも実子でありながら、家を継げぬ不満に、形の上のみとはいえ、“影"への服従が輪をかけた。その頃、家康は武田への攻撃を計画し、兵を進めた。これにどう対処すべきか、重臣たちの評定は続き、“影"は主戦派の勝頼を制して「動くな、山は動かぬぞ」と結論を下した。心中、大いにゆれ動く勝頼は、ついに独断で兵を動かした。遺言の三年が過ぎようとする頃、はかりごとが露見したことから、信玄の死は公表され、武田勝頼が武田の当主となり、“影"はただの男に戻った。若い勝頼が単独で戦いに出向いた。勝頼軍のみで信長・家康連合軍を倒せるわけはなく、武田軍はやむを得ず、「風林火山」の旗を立てて、武田軍の後方に陣をかまえた。もう、死を覚悟しての参戦であった。
そしてラストシーン。天正3年春、長篠での信長・家康連合軍と勝頼の武田軍との戦いの火ぶたが切られた。連合軍の新兵器鉄砲の前に、伝統を誇る武田の「風林火山」の陣立てはたちまちくずれていく。その戦いの中を、叫びをあげて飛び出していった男がいる。“影"である。その姿は、万雷のような銃声とともに地上にもんどりうって倒れていった。・・・何度でも見たい感動的な映画であった。映画で勝頼は、青臭さの残る青年武者として、描かれているが実際の勝頼は、父親に勝るとも劣らない立派な武将であったようだ。長篠の戦いで武田軍が負け鉄砲隊が勝利したのは、合理主義者信長の軍略の成果であり、新しい時代の到来を告げるものであった。
(画像は長篠の合戦図屏風。左が鉄砲隊を組織する利家。画像は、「日本史探訪・10信長と秀吉をめぐる人々」角川文庫より借用)
Wikipedia - 武田勝頼
http://ja.wikipedia.org/wiki/武田勝頼
武田勝頼一考察
http://utsu02.fc2web.com/shiro194.html
影武者 (映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
goo- 映画「影武者」(1980)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19103/
天下の名桜!高遠コヒガンザクラ
http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20010309B/index4.htm
武田 勝頼は、1546(天文15 )年甲斐の戦国大名・武田信玄の四男として生まれ、武田氏第20代当主となる。
甲斐から信濃への版図拡大に踏み出したとき、真っ先に攻略対象とした諏訪頼重には側室の小見の方との間にできた美貌の姫があった。実名は不詳。諏訪御寮人と表記されている。武田晴信(信玄)によって、諏訪頼重が討たれた後、晴信が彼女の美貌に惹かれて側室にしたといわれるが、彼女が甲斐に来たと思われる時はまだ12~13歳の少女であることから、実際には、政略的な色合いの方が強かったようである。それが、勝頼の生母である。絶世の美女は、自分の父の敵を夫として、一子・勝頼をもうけるものの、若くして世を去った薄幸の女性として小説に、ドラマにとりあげられている。しかし、勝頼の誕生によって、諏訪家が存続でき、諏訪の人々はそれを喜んで、人質を甲府に送って武田家に忠誠を誓ったとう。
父・信玄は自らが滅ぼした諏訪氏の家督を継がせようとして、1562(永禄5)年に母の実家である諏訪氏の名跡を継がせ、諏訪四郎勝頼と名乗らせ、川中島の戦いで叔父の信繁(武田信玄の同母弟)が戦死すると翌年正式に伊奈郡代に任命され、高遠城主となる。
1563(永禄6)年の上野箕輪城攻めで初陣。その後の上野・箕輪城、倉賀野城攻め等でも功を挙げた、永禄12年(1569年)の北条氏の武蔵・滝山城攻め、相模・小田原城攻めに起因する三増峠の戦い、1570(元亀元)年の駿河・躑躅ヶ崎館に移るが、これが、事実上、勝頼を後継者にすると信玄が明確にしたことを現すものであった。
1572(元亀3)年、父・信玄が西上作戦を開始すると、一隊の大将として参戦し、12月の三方ヶ原の戦いでも織田・徳川連合軍と戦い、これを破るという武功を挙げた。1573(元亀4)年4月、父・信玄が上洛作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となる。しかし信玄の死去により上洛作戦は頓挫し、勝頼は本拠地・甲斐に軍勢を撤退させた。
信玄存命中は守勢一方であった織田信長、徳川家康らは信玄の死により、窮地を脱し逆襲が始めた。そして、あの有名な、1575年6月29日(天正3年5月21日)の長篠の戦いへと繋がって行くのである。この戦いで、武田軍は1万人以上もの死傷者を出し敗北。その後、勝頼は武田軍団の再建を目指し、父の宿敵であった上杉謙信と同盟を結ぶなどしたが、天目山の戦いのなかで、最後は、滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山を目指したが、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。享年37歳であった。これによって、甲斐武田氏は事実上滅亡した。長篠の戦い以降のことの詳しくは、天目山の戦いを見られると良い。私にとっては、この武田勝頼 に付いて、一番印象に残っているのは、黒澤明 監督映画「影武者」(1980)である。武田信玄の影武者として生きた一人の男の悲喜劇と、主人の遺言を守りながら戦場に散っていった家臣たちの辛苦を描おている。
信玄は、野田城攻めの一夜、勝利を目前にしながら、鉄砲で狙撃され、「われ死すとも、三年は喪を秘し、領国の備えを固め、ゆめゆめ動くな」との遺言を残し世を去った。信玄はかねてから、自分の影武者として信玄と瓜二つの無頼の盗人を用意していた。口のきき方も馬の御し方も心もとないこの男が次第に威厳のようなものをそなえるようになっていく。当初主演だった勝新太郎が撮影開始後に監督と衝突し降板したことから、仲代達矢が演 ずることになったが、粗野な男から徐々に影として本物の信玄になりきっていく・・・その変化が実にすばらしかった。この演技は勝ではなく仲代だから出来たように思う。しかし、こうした成行に、内心いら立っていたのは勝頼であった。映画では、信玄は世継ぎを竹丸と決めていた。嫡子ではなくとも実子でありながら、家を継げぬ不満に、形の上のみとはいえ、“影"への服従が輪をかけた。その頃、家康は武田への攻撃を計画し、兵を進めた。これにどう対処すべきか、重臣たちの評定は続き、“影"は主戦派の勝頼を制して「動くな、山は動かぬぞ」と結論を下した。心中、大いにゆれ動く勝頼は、ついに独断で兵を動かした。遺言の三年が過ぎようとする頃、はかりごとが露見したことから、信玄の死は公表され、武田勝頼が武田の当主となり、“影"はただの男に戻った。若い勝頼が単独で戦いに出向いた。勝頼軍のみで信長・家康連合軍を倒せるわけはなく、武田軍はやむを得ず、「風林火山」の旗を立てて、武田軍の後方に陣をかまえた。もう、死を覚悟しての参戦であった。
そしてラストシーン。天正3年春、長篠での信長・家康連合軍と勝頼の武田軍との戦いの火ぶたが切られた。連合軍の新兵器鉄砲の前に、伝統を誇る武田の「風林火山」の陣立てはたちまちくずれていく。その戦いの中を、叫びをあげて飛び出していった男がいる。“影"である。その姿は、万雷のような銃声とともに地上にもんどりうって倒れていった。・・・何度でも見たい感動的な映画であった。映画で勝頼は、青臭さの残る青年武者として、描かれているが実際の勝頼は、父親に勝るとも劣らない立派な武将であったようだ。長篠の戦いで武田軍が負け鉄砲隊が勝利したのは、合理主義者信長の軍略の成果であり、新しい時代の到来を告げるものであった。
(画像は長篠の合戦図屏風。左が鉄砲隊を組織する利家。画像は、「日本史探訪・10信長と秀吉をめぐる人々」角川文庫より借用)
Wikipedia - 武田勝頼
http://ja.wikipedia.org/wiki/武田勝頼
武田勝頼一考察
http://utsu02.fc2web.com/shiro194.html
影武者 (映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E6%AD%A6%E8%80%85_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
goo- 映画「影武者」(1980)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD19103/
天下の名桜!高遠コヒガンザクラ
http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20010309B/index4.htm