今日(3月18日)は、「精霊の日」2-和泉式部について
柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の忌日がこの日であると伝えられていることから。
以前に私のブログで、柿本人麻呂のことについては「人丸忌,人麿忌」歌人・柿本人麻呂の忌日で、小野小町のことは、精霊の日ー小野小町についてー で書いたので、きょうは 精霊の日2-和泉式部について-として書いてみたい。
和泉式部(いずみしきぶ)の生没年は不詳、天元元年頃(978年?)出生とするのが通説らしい。清少納言、紫式部などと共に 中古三十六歌仙の一人に数えられれおり、小倉百人一首にもその歌が収められている平安時代中期の歌人。
「和泉式部」の名は女房名である。少女時代の名は御許丸(おもとまる)。父は、大江雅致(おおえのまさむね。匡衡の兄【大江氏系図】と言われているようだが系譜未詳とも・・)。母は平保衡(たいらのやすひら)と言われている。父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇第一皇女)に宮仕えをしたころ、父に伴い女房として昌子に仕えていた。その父雅致が式部丞の職にあったことから女房時代には、「式部」「江式部(こうのしきぶ)」などと呼ばれる。宮仕えの頃に出会った主君彰子の父藤原道長の側近である橘道貞と結婚。道貞が後に和泉守となったので、その夫の官名から「和泉式部」とよばれるようになった。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。小式部内侍の残した「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小倉百人一首) があまりにも有名である。
道貞は、和泉守、陸奥守などを歴任した地方官僚で、いわゆる受領階級であり、藤原道長の覚えもめでたく、出世街道を歩むが、その一方で遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、結婚したとはいへ、道貞とはしだいに疎遠となり、当時の式部はほとんど父雅致のもとで過していたようだ。その頃、 昌子内親王が病気療養のため雅致の邸に移られてきた。そこへ、昌子内親王を御継母として慕っていた弾正宮(KanseiTaikan_Dai参照)・為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)が度々その邸を訪れ、式部はその弾正宮と恋に落ちたが、1002(長保4)年為尊親王の死で破れる。又、身分違いの恋をしたとして親から勘当もされたそうだ。そして、夫橘道貞との関係も冷めたものとなって傷心の日々を過ごしていた式部のもとに翌年、4歳年下の同母弟太宰師宮・敦道親王が現れた。その後帥宮と和歌や手紙などを取り交わし、また数度の訪問を受けるうちにお互いを深く愛する関係となり、最終的に和泉式部は帥宮邸に迎えられる。しかし、そのため、正妃が家出する因となった。そして、親王の召人として一子(後に出家して永覚と名乗る)を儲けているが、その師宮も1007(寛弘4)年に27歳の若さで亡くなった。
その後、寛弘末年(1008年-1011年)、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父道長の家司で武勇を以って知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。1025(寿2)年、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが、晩年の詳細は分らないという。
式部は、最初の夫道貞と不仲になり、冷泉の皇子為尊を愛するようになるが、当事は疱瘡などの疫病がしばしば流行したが為尊はそれをものともせずに愛人通いをしたほどの「好き者」だったらしく、そのせいか、1年ほどで死んでしまう。やがて、その弟の敦道を愛して、彼の邸に引き取られるが、この1件で、式部は世間から非難を受け、敦道も27歳で死んでしまう。その愛の遍歴ゆえに、式部は平安時代以降様々な説話や伝承の中に語り伝えられている。
式部は道長から「浮かれ女」と呼ばれたように奔放な女性であったようで、上記の男達の他にも数名の愛人がいたらしい。
彼女の作品として有名なものに『和泉式部日記』がある。
「黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」(後拾遺集755)
寝乱れた黒髪を押しやるように掻き揚げて愛撫してくれたあの男がいとしくてならないとうたっている。この歌に見られるように式部は愛がもたらすさまざまな感情を狂おしいばかりに一筋に歌い上げている。
「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる」(後拾遺集1162)
この歌は、『後拾遺集』に、忘れられた頃に式部が、神の力によって悩める魂を鎮めるべく貴船神社に詣でた折に御手洗川に蛍が飛ぶのを見て詠んだ歌である。後拾遺集では巻20雑6に載せれいる。たくさんの蛍を、物思いのために遊散した魂かと思ったというのである。貴船神社は鴨川の水源地にあり、水神を祀る古社であるが、縁結びの効験でも著名。
この日記は、多くの男性遍歴の中で、とりわけ深い愛情を捧げた敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記であり、その間の宮との贈答歌を中心に叙述したもので、この恋愛に関する和泉式部のありのままの心情描写を綴ったところに特色がある。
中世の時代の中流貴族の女性ほど小説や日記文学の作者にふさわしいものはなかったといわれる。紫式部は、夫に死別したあと、1人ぽっちで憂鬱な物思いに沈んで暮らしながら季節の巡ってくるにつけても行く末での心細さに不安になっていたのだが、そうした折、物語を読んでいた友人と慰めあっていたと『紫式部日記』に記しており、『源氏物語』が執筆されたのも主としてこの時期であった。『和泉式部日記』も愛人と死別してぼんやりと庭の植え込みを眺めていると、その心の空白に偲び入るかのように新しい恋人からの使いが訪れてくるところから書き始められている。彼女の文章には「つれづれの思い」がしばしば記されているが、それは、孤独な生活の中での満たされぬ愛の悩みに他ならなかっただろう。実際、当事の貴族社会の女性たちは、多かれ少なかれ結婚生活の深刻な危機を体験していたと思われる。藤原道綱母は終生嫉妬に苦しみ、そのいわば苦しみの結晶が『蜻蛉日記』として結実したのであり、紫式部も清少納言も和泉式部も、いずれも最初の結婚に破綻をきたすところから、彼女達の精神と愛の生活が出発したといってよい。一夫多妻の下で結婚後の性関係に極めて寛容な当事の貴族社会にあっては、離婚や再婚をはじめとして男女間には、「出会い」や「別れ」が頻繁に生じていた。しかし、そうした不安定な愛情関係において、「高きも短きも、女といふものはかかる筋にてこそ、この世後の世まで、苦しき身になり侍(はべ)るなれ」(身分の上下にかかわらず、女というものはこうした男女関係の事で、この世のみならず、後生までも苦しい身の上となるのです)と『源氏物語』にも記されているように愛の辛酸を嘗めるのはきまって女性であった。経済的に不自由はなく、家事や育児を侍女や乳母に任せて情熱を傾けうるたった一つの出来事だったのだが、そうした愛を支える筈の結婚生活が著しく不安定なものである以上、当事の女性の内面生活は極度の不安に満ちていただろう(週間朝日百貨「日本の歴史)。彼女達の作品からは、その様な時代に生きた貴族社会の女性のやるせない気持ちが伝わってくる。
和泉式部の歌を見るには、以下参考に記載の「和泉式部 千人万首(注釈付き)」が良いのではないか。
(画像は『和泉式部日記』―現代語訳付き【文庫】 翻訳:近藤 みゆき )
和泉式部 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8
式部省 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E9%83%A8%E7%9C%81
KanseiTaikan_Shikibu
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_shou_shikibu.html
KanseiTaikan_Dai
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_dai.html
和泉式部日記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98
和泉式部 千人万首(注釈付き)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html
日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%A8%98
福井県史 年表(福井県文書館HP)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn08.html
隆慶一郎わーるど歴史人物・人名事典
http://www.ikedakai.com/jinbutsujiten.index.html
貴船神社
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kibune.html
後 拾遺 和歌集
http://toka3aki.hp.infoseek.co.jp/waka4/waka4.xml
『紫式部日記』「和泉式部・清少納言」
http://www.e-t.ed.jp/edotori390124/ckmuraizumico.html
蜻蛉日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E6%97%A5%E8%A8%98
精霊の日ー小野小町についてー
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%CF%C2%C0%F4%BC%B0%C9%F4
「人丸忌,人麿忌」歌人・柿本人麻呂の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060318
柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の忌日がこの日であると伝えられていることから。
以前に私のブログで、柿本人麻呂のことについては「人丸忌,人麿忌」歌人・柿本人麻呂の忌日で、小野小町のことは、精霊の日ー小野小町についてー で書いたので、きょうは 精霊の日2-和泉式部について-として書いてみたい。
和泉式部(いずみしきぶ)の生没年は不詳、天元元年頃(978年?)出生とするのが通説らしい。清少納言、紫式部などと共に 中古三十六歌仙の一人に数えられれおり、小倉百人一首にもその歌が収められている平安時代中期の歌人。
「和泉式部」の名は女房名である。少女時代の名は御許丸(おもとまる)。父は、大江雅致(おおえのまさむね。匡衡の兄【大江氏系図】と言われているようだが系譜未詳とも・・)。母は平保衡(たいらのやすひら)と言われている。父の大江雅致が冷泉天皇皇后の昌子内親王(朱雀天皇第一皇女)に宮仕えをしたころ、父に伴い女房として昌子に仕えていた。その父雅致が式部丞の職にあったことから女房時代には、「式部」「江式部(こうのしきぶ)」などと呼ばれる。宮仕えの頃に出会った主君彰子の父藤原道長の側近である橘道貞と結婚。道貞が後に和泉守となったので、その夫の官名から「和泉式部」とよばれるようになった。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。小式部内侍の残した「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」(小倉百人一首) があまりにも有名である。
道貞は、和泉守、陸奥守などを歴任した地方官僚で、いわゆる受領階級であり、藤原道長の覚えもめでたく、出世街道を歩むが、その一方で遠国によく出掛けて留守がちだったこともあって、結婚したとはいへ、道貞とはしだいに疎遠となり、当時の式部はほとんど父雅致のもとで過していたようだ。その頃、 昌子内親王が病気療養のため雅致の邸に移られてきた。そこへ、昌子内親王を御継母として慕っていた弾正宮(KanseiTaikan_Dai参照)・為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)が度々その邸を訪れ、式部はその弾正宮と恋に落ちたが、1002(長保4)年為尊親王の死で破れる。又、身分違いの恋をしたとして親から勘当もされたそうだ。そして、夫橘道貞との関係も冷めたものとなって傷心の日々を過ごしていた式部のもとに翌年、4歳年下の同母弟太宰師宮・敦道親王が現れた。その後帥宮と和歌や手紙などを取り交わし、また数度の訪問を受けるうちにお互いを深く愛する関係となり、最終的に和泉式部は帥宮邸に迎えられる。しかし、そのため、正妃が家出する因となった。そして、親王の召人として一子(後に出家して永覚と名乗る)を儲けているが、その師宮も1007(寛弘4)年に27歳の若さで亡くなった。
その後、寛弘末年(1008年-1011年)、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父道長の家司で武勇を以って知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。1025(寿2)年、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが、晩年の詳細は分らないという。
式部は、最初の夫道貞と不仲になり、冷泉の皇子為尊を愛するようになるが、当事は疱瘡などの疫病がしばしば流行したが為尊はそれをものともせずに愛人通いをしたほどの「好き者」だったらしく、そのせいか、1年ほどで死んでしまう。やがて、その弟の敦道を愛して、彼の邸に引き取られるが、この1件で、式部は世間から非難を受け、敦道も27歳で死んでしまう。その愛の遍歴ゆえに、式部は平安時代以降様々な説話や伝承の中に語り伝えられている。
式部は道長から「浮かれ女」と呼ばれたように奔放な女性であったようで、上記の男達の他にも数名の愛人がいたらしい。
彼女の作品として有名なものに『和泉式部日記』がある。
「黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき」(後拾遺集755)
寝乱れた黒髪を押しやるように掻き揚げて愛撫してくれたあの男がいとしくてならないとうたっている。この歌に見られるように式部は愛がもたらすさまざまな感情を狂おしいばかりに一筋に歌い上げている。
「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる」(後拾遺集1162)
この歌は、『後拾遺集』に、忘れられた頃に式部が、神の力によって悩める魂を鎮めるべく貴船神社に詣でた折に御手洗川に蛍が飛ぶのを見て詠んだ歌である。後拾遺集では巻20雑6に載せれいる。たくさんの蛍を、物思いのために遊散した魂かと思ったというのである。貴船神社は鴨川の水源地にあり、水神を祀る古社であるが、縁結びの効験でも著名。
この日記は、多くの男性遍歴の中で、とりわけ深い愛情を捧げた敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記であり、その間の宮との贈答歌を中心に叙述したもので、この恋愛に関する和泉式部のありのままの心情描写を綴ったところに特色がある。
中世の時代の中流貴族の女性ほど小説や日記文学の作者にふさわしいものはなかったといわれる。紫式部は、夫に死別したあと、1人ぽっちで憂鬱な物思いに沈んで暮らしながら季節の巡ってくるにつけても行く末での心細さに不安になっていたのだが、そうした折、物語を読んでいた友人と慰めあっていたと『紫式部日記』に記しており、『源氏物語』が執筆されたのも主としてこの時期であった。『和泉式部日記』も愛人と死別してぼんやりと庭の植え込みを眺めていると、その心の空白に偲び入るかのように新しい恋人からの使いが訪れてくるところから書き始められている。彼女の文章には「つれづれの思い」がしばしば記されているが、それは、孤独な生活の中での満たされぬ愛の悩みに他ならなかっただろう。実際、当事の貴族社会の女性たちは、多かれ少なかれ結婚生活の深刻な危機を体験していたと思われる。藤原道綱母は終生嫉妬に苦しみ、そのいわば苦しみの結晶が『蜻蛉日記』として結実したのであり、紫式部も清少納言も和泉式部も、いずれも最初の結婚に破綻をきたすところから、彼女達の精神と愛の生活が出発したといってよい。一夫多妻の下で結婚後の性関係に極めて寛容な当事の貴族社会にあっては、離婚や再婚をはじめとして男女間には、「出会い」や「別れ」が頻繁に生じていた。しかし、そうした不安定な愛情関係において、「高きも短きも、女といふものはかかる筋にてこそ、この世後の世まで、苦しき身になり侍(はべ)るなれ」(身分の上下にかかわらず、女というものはこうした男女関係の事で、この世のみならず、後生までも苦しい身の上となるのです)と『源氏物語』にも記されているように愛の辛酸を嘗めるのはきまって女性であった。経済的に不自由はなく、家事や育児を侍女や乳母に任せて情熱を傾けうるたった一つの出来事だったのだが、そうした愛を支える筈の結婚生活が著しく不安定なものである以上、当事の女性の内面生活は極度の不安に満ちていただろう(週間朝日百貨「日本の歴史)。彼女達の作品からは、その様な時代に生きた貴族社会の女性のやるせない気持ちが伝わってくる。
和泉式部の歌を見るには、以下参考に記載の「和泉式部 千人万首(注釈付き)」が良いのではないか。
(画像は『和泉式部日記』―現代語訳付き【文庫】 翻訳:近藤 みゆき )
和泉式部 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8
式部省 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E9%83%A8%E7%9C%81
KanseiTaikan_Shikibu
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_shou_shikibu.html
KanseiTaikan_Dai
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_dai.html
和泉式部日記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8%E6%97%A5%E8%A8%98
和泉式部 千人万首(注釈付き)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html
日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%A8%98
福井県史 年表(福井県文書館HP)
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/nenpyo/rekishi/chrn08.html
隆慶一郎わーるど歴史人物・人名事典
http://www.ikedakai.com/jinbutsujiten.index.html
貴船神社
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kibune.html
後 拾遺 和歌集
http://toka3aki.hp.infoseek.co.jp/waka4/waka4.xml
『紫式部日記』「和泉式部・清少納言」
http://www.e-t.ed.jp/edotori390124/ckmuraizumico.html
蜻蛉日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%BB%E8%9B%89%E6%97%A5%E8%A8%98
精霊の日ー小野小町についてー
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%CF%C2%C0%F4%BC%B0%C9%F4
「人丸忌,人麿忌」歌人・柿本人麻呂の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060318