1936(昭和11)年の今日(11月7日)、東京・永田町に1920(大正9)年6月の着工から実に17年を経て帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)が完成し落成式が行われた。
国会議事堂の構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造(地上3階(中央塔4階)、地下1階)。延べ床面積53466平方メートル。中央部に、65.45mの塔屋がそびえ、正面から見て、左側に衆議院、右側に参議院(旧貴族院)が配置され左右対称に構成されている。西洋の様式建築を基本としているが、細部には、日本を意識した装飾が多く見られ、外装は花崗岩の石積みで、その他材質はほとんどすべてが純国産で建造されている。敷地内はほぼ長方形で、前方部は広く庭園や車寄せに取られており、天皇が休息するための「御休所」は、日本工芸の粋を結集してつくられている。(※現在、議事堂構内南側には衆議院議事堂分館がある。これは、委員室を増設するために建設されたもので、昭和44年3月完成したもの)。国会議事堂内の詳細は以下参考に記載の「江戸東京博物館・国会議事堂」を参照されると良い。
わが国の議会制度は1890(明治23)年に始まるが、この国会議事堂は大日本帝国憲法下において天皇に属した立法権のもとにあった帝国議会の「議事堂」として完成したものであり、第4代目である。
この国会議事堂建設計画は、1881(明治14)年10月「国会開設の詔」が発せられ、10年後の国会開設が約束された。その4年後の1885(明治17)年に内閣制度が発足、伊藤博文内閣が誕生。そして、1890(明治23)年の帝国議会開設を目指し、議会を開会するための議事堂建設に取り組みが始まった。
計画は設計の段階から難航し、財政難を理由に当面は仮議事堂で急場をしのぐこととなり、内幸町(霞ヶ関一丁目、現在の経済産業省庁舎付近)に建設されたのが木造洋風2階建ての第一回仮議事堂であり1890(明治23)年11月24日に竣工した。同年11月29日仮議事堂の貴族院議場において、最初の開院式が行われた。これが我が国最初の議会である第1回帝国議会の開会である。(貴族院について詳しくは以下参考に記載の中野文庫 - 貴族院参照)
しかし、第1回帝国議会会期中の1891(明治24)年1月20日突如漏電から出火、全焼してしまった。そのため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)に、衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移(貴族院はのちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに移転)し、急場をしのぎ、昼夜兼行の作業で仮議事堂を再建、同年10月30日第1回仮議事堂の焼け跡に第2回仮議事堂が竣功した。木造洋風2階建てで、外観は第1回仮議事堂とそれほど変わらないが、中央に1か所だった玄関が貴族院・衆議院それぞれに設けられ、防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝らされたという。
なお、1894(明治27)年8月に日清戦争が勃発し、大本営が広島に移されると帝国議会も仮議事堂を離れて広島に移り、同地で開催されている。これは、東京以外で国会が開会された唯一の事例である。(この広島での臨時帝国議のことは、以下参考に記載の「臨時帝国議会仮議事堂跡」を参照されると良い)
1906(明治39)年には第2回仮議事堂の改修及び本格的な議事堂の建設が決まったが、財政的な事情などからその実施にはさらに数年の年月を要し、1918(大正7)年9月になって新議事堂の意匠が一般公募された。そして、現在地である永田町の高台において原敬総理などが参列して、地鎮祭を挙行、新議事堂の建設が始まったのは1920(大正9)年1月30日のことであった。
建設中の1925(大正14)年9月18日、またまた、第2回仮議事堂が改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起し全焼。このため政府は第3回仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。第3回仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう、昼夜兼行の突貫工事でわずか3ヶ月で建設された。そして、永田町の帝国議会議事堂が落成したのが1936年(昭和11)年の今日(11月7日)のことで、地鎮祭から実に17年を要した。だから、この帝国議会議事堂が完成するまで木造の仮議事堂が実に36年間、その役目を果たしてきたのである。因みに、新議事堂の建築費2573万6000円は現在の貨幣価値で計算すると数千億円にあたると試算されているそうだ。
尾崎行雄(号:咢堂)は、1882(明治15)年立憲改進党の創立に参加、わが国の議会制度が始まる1890(明治23)年、第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくっている。1898(明治31)年大隈重信内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、1903(明治36)年から1912(明治45)年まで東京市長、1914(大正3)年の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って1913(大正2)年の大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会と移る(以下参考に記載の「戦前の政党変遷」参照)。第2次大隈内閣では司法大臣となってる。当初はポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942(昭和17)年の戦時下唯一の国政選挙となる第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙、以降に出てくる大政翼賛会参照)には非推薦出馬で当選。1943(昭和18)年、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」(以下参考に記載の※「売家と唐様で書く三代目」参照)が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944〔昭和19〕年大審院で無罪確定)。公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953(昭和28)年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。衆議院名誉議員第1号、東京都名誉都民第1号。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれているが、1936(昭和11)年の今日(11月7日) 、小雨のなか、帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)の落成式には広田弘毅内閣総理大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など約2800人の来賓を迎えて行われたが、式典に出席していた尾崎が、「こんな立派な議事堂が出来ても、さて、そこに入る議員はどうでしょう」と案じたという(アサヒクロニクル「週間20世紀」)が、その4年後の1940(昭和15)年には、大政翼賛会なる組織が出来て、政党はみな解散(戦争体制が整い)、東亜新秩序建設に邁進、翌・1941(昭和16)年12月8日には、日本軍の真珠湾攻撃・マレー半島上陸で大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦するのである。 まさに、彼の案じた通り、器ばかり立派になった議事堂には、民衆のことを考えないとんでもない政治家が入っていたのである。最近話題になっていた衆議院の「新赤坂宿舎」。都心の一等地にある超立派な議員宿舎には、我々民衆の事を考えた「いったいどれほど立派な議員さんたちが入っているのだろうか?」
(画像は、1936年12月24日、第70回議会開院式のため国会議事堂に入る天皇。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
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クリック → 帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)が落成した日参考
国会議事堂の構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造(地上3階(中央塔4階)、地下1階)。延べ床面積53466平方メートル。中央部に、65.45mの塔屋がそびえ、正面から見て、左側に衆議院、右側に参議院(旧貴族院)が配置され左右対称に構成されている。西洋の様式建築を基本としているが、細部には、日本を意識した装飾が多く見られ、外装は花崗岩の石積みで、その他材質はほとんどすべてが純国産で建造されている。敷地内はほぼ長方形で、前方部は広く庭園や車寄せに取られており、天皇が休息するための「御休所」は、日本工芸の粋を結集してつくられている。(※現在、議事堂構内南側には衆議院議事堂分館がある。これは、委員室を増設するために建設されたもので、昭和44年3月完成したもの)。国会議事堂内の詳細は以下参考に記載の「江戸東京博物館・国会議事堂」を参照されると良い。
わが国の議会制度は1890(明治23)年に始まるが、この国会議事堂は大日本帝国憲法下において天皇に属した立法権のもとにあった帝国議会の「議事堂」として完成したものであり、第4代目である。
この国会議事堂建設計画は、1881(明治14)年10月「国会開設の詔」が発せられ、10年後の国会開設が約束された。その4年後の1885(明治17)年に内閣制度が発足、伊藤博文内閣が誕生。そして、1890(明治23)年の帝国議会開設を目指し、議会を開会するための議事堂建設に取り組みが始まった。
計画は設計の段階から難航し、財政難を理由に当面は仮議事堂で急場をしのぐこととなり、内幸町(霞ヶ関一丁目、現在の経済産業省庁舎付近)に建設されたのが木造洋風2階建ての第一回仮議事堂であり1890(明治23)年11月24日に竣工した。同年11月29日仮議事堂の貴族院議場において、最初の開院式が行われた。これが我が国最初の議会である第1回帝国議会の開会である。(貴族院について詳しくは以下参考に記載の中野文庫 - 貴族院参照)
しかし、第1回帝国議会会期中の1891(明治24)年1月20日突如漏電から出火、全焼してしまった。そのため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)に、衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移(貴族院はのちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに移転)し、急場をしのぎ、昼夜兼行の作業で仮議事堂を再建、同年10月30日第1回仮議事堂の焼け跡に第2回仮議事堂が竣功した。木造洋風2階建てで、外観は第1回仮議事堂とそれほど変わらないが、中央に1か所だった玄関が貴族院・衆議院それぞれに設けられ、防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝らされたという。
なお、1894(明治27)年8月に日清戦争が勃発し、大本営が広島に移されると帝国議会も仮議事堂を離れて広島に移り、同地で開催されている。これは、東京以外で国会が開会された唯一の事例である。(この広島での臨時帝国議のことは、以下参考に記載の「臨時帝国議会仮議事堂跡」を参照されると良い)
1906(明治39)年には第2回仮議事堂の改修及び本格的な議事堂の建設が決まったが、財政的な事情などからその実施にはさらに数年の年月を要し、1918(大正7)年9月になって新議事堂の意匠が一般公募された。そして、現在地である永田町の高台において原敬総理などが参列して、地鎮祭を挙行、新議事堂の建設が始まったのは1920(大正9)年1月30日のことであった。
建設中の1925(大正14)年9月18日、またまた、第2回仮議事堂が改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起し全焼。このため政府は第3回仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。第3回仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう、昼夜兼行の突貫工事でわずか3ヶ月で建設された。そして、永田町の帝国議会議事堂が落成したのが1936年(昭和11)年の今日(11月7日)のことで、地鎮祭から実に17年を要した。だから、この帝国議会議事堂が完成するまで木造の仮議事堂が実に36年間、その役目を果たしてきたのである。因みに、新議事堂の建築費2573万6000円は現在の貨幣価値で計算すると数千億円にあたると試算されているそうだ。
尾崎行雄(号:咢堂)は、1882(明治15)年立憲改進党の創立に参加、わが国の議会制度が始まる1890(明治23)年、第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくっている。1898(明治31)年大隈重信内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、1903(明治36)年から1912(明治45)年まで東京市長、1914(大正3)年の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、桂太郎首相を糾弾する演説を行って1913(大正2)年の大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会と移る(以下参考に記載の「戦前の政党変遷」参照)。第2次大隈内閣では司法大臣となってる。当初はポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。1942(昭和17)年の戦時下唯一の国政選挙となる第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙、以降に出てくる大政翼賛会参照)には非推薦出馬で当選。1943(昭和18)年、翼賛選挙批判を行った演説中に引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」(以下参考に記載の※「売家と唐様で書く三代目」参照)が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(一審で有罪、1944〔昭和19〕年大審院で無罪確定)。公判通知を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、1953(昭和28)年のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選して、政界を引退した。衆議院名誉議員第1号、東京都名誉都民第1号。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれているが、1936(昭和11)年の今日(11月7日) 、小雨のなか、帝国議会議事堂(現在の国会議事堂)の落成式には広田弘毅内閣総理大臣、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など約2800人の来賓を迎えて行われたが、式典に出席していた尾崎が、「こんな立派な議事堂が出来ても、さて、そこに入る議員はどうでしょう」と案じたという(アサヒクロニクル「週間20世紀」)が、その4年後の1940(昭和15)年には、大政翼賛会なる組織が出来て、政党はみな解散(戦争体制が整い)、東亜新秩序建設に邁進、翌・1941(昭和16)年12月8日には、日本軍の真珠湾攻撃・マレー半島上陸で大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦するのである。 まさに、彼の案じた通り、器ばかり立派になった議事堂には、民衆のことを考えないとんでもない政治家が入っていたのである。最近話題になっていた衆議院の「新赤坂宿舎」。都心の一等地にある超立派な議員宿舎には、我々民衆の事を考えた「いったいどれほど立派な議員さんたちが入っているのだろうか?」
(画像は、1936年12月24日、第70回議会開院式のため国会議事堂に入る天皇。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
参考のHPはこのブログの字数制限により、別紙に書いています。以下をクリックするとこの下のページに表示されます。
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