今日(11月11日)は、「世界平和記念日」
1918(大正7)年の今日(11月11日)、パリ郊外コンピエーニュの森に停車中の食堂車2419Dの車内において、マティアス・エルツベルガーを代表とするドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印、開戦から4年余り、毒ガスなどの大量破壊兵器も初めて使用された人類空前の総力戦を展開した第1次世界大戦が、ドイツ側の疲弊で事実上終結した。
ドイツでは11月9日、フィリップ・シャイデマンによって、共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌10日には、皇帝(ヴィルヘルム2世)がオランダへ亡命するなど、慌しい中での調印だった。
公式には戦争はヴェルサイユ条約の締結によって終わったことになる。主戦場となったヨーロッパの各国では、第1次世界大戦を終えた調印の日(11月11日)に「戦うことは もうやめよう」と決め、終戦の祝日としているようだ。
第一次世界大戦(World War I)は、1914(大正3)年7月28日から1918(大正7)年11月11日にかけて、三国同盟と三国協商との植民地獲得をめぐる対立を背景として連合国28カ国と同盟国4カ国の2つの陣営にわかれて戦った史上初の世界大戦である。
19世紀末~20世紀初め、イギリス、ドイツ間の建艦競争(以下参考に記載の※第一次大戦建艦論争参照)に代表される軍備拡張競争や、オスマン帝国の衰退にともなうバルカン半島の複雑な民族間扮装(パン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義との民族主義的対立)に加えて、その周辺で英・仏・独・露・墺(オーストリア)らヨーロッパ列強の利害が錯綜し、複雑な同盟・対立関係の中にあった。そして、列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。
1914(大正3)年 6月28日 、ボスニアで、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子のフランツ・フェルディナントが暗殺されるというサラエボ事件発生を導火線として7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告をしたのに始まり、戦火は一挙に欧州全土へ拡大していった。
日本は、イギリスが参戦に尻ごみしたにもかかわらず、8月23日ドイツに宣戦を布告、第1次大戦に殆ど開戦と同時に参戦した。日本の参戦理由は日英同盟の友誼(ゆうぎ、友達のよしみ)を理由にしたものであるが、宣戦の詔勅にも明示されていたが、日英同盟は必ずしも日本の参戦を義務づけるものではなかった。
独逸国ニ対スル宣戦ノ詔書(大正3年8月23日
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/st03.htm
この参戦はアメリカ(1917年 4月参戦)やイタリー(1915年オーストリア=ハンガリーに宣戦布告 )の協商側参戦よりも早い。これは、参戦に消極的な大隈重信内閣にたいして加藤高明外相が強力にイニシアチブをとったもののようである。目的は、欧州大戦を好機ととらえ、世界における日本の地位を高め、東亜における立場を強固にしようとしたのである。(中国大陸での権益確保=ドイツの極東、太平洋の権益奪取)以下参照。
2第一次世界大戦と日本「史料 加藤高明の発言内容」
http://www.e-t.ed.jp/edotori4310/ww11/siryoukatouenzetu.htm
この日英同盟の友誼を理由にして始めた日独戦争は、日露戦争までが、国家存亡の関頭(かんとう。物事の大きな分かれ目。大切な時。瀬戸際。)にたってやむなく受けて起った戦争であるのに対し、国策遂行の手段としての戦争であるとも見られている。そして、欧州列強が死闘を行っている間に米国と日本は急速に国力を伸ばし、とくに日本の発展はめざましく、五大強国の一つにまで数えられるようになり、1920(大正 9)年に発足した国際連盟の常任理事国を勤めるまでになっていた。
戦後締結されたヴェルサイユ条約により第一次世界大戦は公式に終了したのであるが、ヴェルサイユ条約は、その制定に際してアジア・アフリカの解放という大義名分が掲げられていたが、実際には、戦勝国の賠償規定であり、第一次世界大戦が過去に類を見ないほど悲惨な損害を生み出した戦争であったため、戦勝国の敗戦国への報復的とも言える過酷な賠償条件を含んだ内容となっていたことが、結果的に、ナチスの台頭の原因となり、そして1939(昭和14)年から始まる第二次世界大戦の遠因ともなってしまったのは、非常に不幸なことであった。以下参照。
第二次世界大戦の発生と拡大について
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/worldwar.htm
また、日本についても、欧州での大戦が終局を迎えつつある1918(大正7)年、英国の出兵要請を受け、「集団的自衛権」の行使として、ロシア革命後の極東ロシア情勢を背景に「チェコ軍救援」を目的として兵力を展開した。シベリアに兵力を派遣した日本軍は本来の目的が意味を失い連合国が撤兵してからも日本だけは極東に居座り続けた。そして、1931(昭和 6)年9月、満州事変を起こして満州全土を占領した日本は、満州国を設立したが、国際連盟から派遣されたリットン調査団による報告に基づく総会決議の結果、満州国を否認された。この時の全権代表松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れることは出来ない」と演説し、そのまま退席。その後の1933(昭和 8)年3月27日、日本は国際連盟脱退を宣言。ここから日本が孤立し、1937(昭和12)年に偶発的に発生した盧溝橋事件を利用して、日本政府の思惑とは別に日中戦争(支那事変・日華事変)へと発展させていった。本当に、平和を維持継続させることは難しいことなのだな~。
(画像は、コンピエーニュの森に停車中の列車の中での休戦協定。右から2人目は連合国最高司令官フォッシュ。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
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クリック → 世界平和記念日:参考
1918(大正7)年の今日(11月11日)、パリ郊外コンピエーニュの森に停車中の食堂車2419Dの車内において、マティアス・エルツベルガーを代表とするドイツ軍代表団が連合軍との休戦協定に調印、開戦から4年余り、毒ガスなどの大量破壊兵器も初めて使用された人類空前の総力戦を展開した第1次世界大戦が、ドイツ側の疲弊で事実上終結した。
ドイツでは11月9日、フィリップ・シャイデマンによって、共和国の成立が宣言され、ドイツ帝国は終わりを迎えた。翌10日には、皇帝(ヴィルヘルム2世)がオランダへ亡命するなど、慌しい中での調印だった。
公式には戦争はヴェルサイユ条約の締結によって終わったことになる。主戦場となったヨーロッパの各国では、第1次世界大戦を終えた調印の日(11月11日)に「戦うことは もうやめよう」と決め、終戦の祝日としているようだ。
第一次世界大戦(World War I)は、1914(大正3)年7月28日から1918(大正7)年11月11日にかけて、三国同盟と三国協商との植民地獲得をめぐる対立を背景として連合国28カ国と同盟国4カ国の2つの陣営にわかれて戦った史上初の世界大戦である。
19世紀末~20世紀初め、イギリス、ドイツ間の建艦競争(以下参考に記載の※第一次大戦建艦論争参照)に代表される軍備拡張競争や、オスマン帝国の衰退にともなうバルカン半島の複雑な民族間扮装(パン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義との民族主義的対立)に加えて、その周辺で英・仏・独・露・墺(オーストリア)らヨーロッパ列強の利害が錯綜し、複雑な同盟・対立関係の中にあった。そして、列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。
1914(大正3)年 6月28日 、ボスニアで、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子のフランツ・フェルディナントが暗殺されるというサラエボ事件発生を導火線として7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告をしたのに始まり、戦火は一挙に欧州全土へ拡大していった。
日本は、イギリスが参戦に尻ごみしたにもかかわらず、8月23日ドイツに宣戦を布告、第1次大戦に殆ど開戦と同時に参戦した。日本の参戦理由は日英同盟の友誼(ゆうぎ、友達のよしみ)を理由にしたものであるが、宣戦の詔勅にも明示されていたが、日英同盟は必ずしも日本の参戦を義務づけるものではなかった。
独逸国ニ対スル宣戦ノ詔書(大正3年8月23日
http://www.geocities.jp/nakanolib/shou/st03.htm
この参戦はアメリカ(1917年 4月参戦)やイタリー(1915年オーストリア=ハンガリーに宣戦布告 )の協商側参戦よりも早い。これは、参戦に消極的な大隈重信内閣にたいして加藤高明外相が強力にイニシアチブをとったもののようである。目的は、欧州大戦を好機ととらえ、世界における日本の地位を高め、東亜における立場を強固にしようとしたのである。(中国大陸での権益確保=ドイツの極東、太平洋の権益奪取)以下参照。
2第一次世界大戦と日本「史料 加藤高明の発言内容」
http://www.e-t.ed.jp/edotori4310/ww11/siryoukatouenzetu.htm
この日英同盟の友誼を理由にして始めた日独戦争は、日露戦争までが、国家存亡の関頭(かんとう。物事の大きな分かれ目。大切な時。瀬戸際。)にたってやむなく受けて起った戦争であるのに対し、国策遂行の手段としての戦争であるとも見られている。そして、欧州列強が死闘を行っている間に米国と日本は急速に国力を伸ばし、とくに日本の発展はめざましく、五大強国の一つにまで数えられるようになり、1920(大正 9)年に発足した国際連盟の常任理事国を勤めるまでになっていた。
戦後締結されたヴェルサイユ条約により第一次世界大戦は公式に終了したのであるが、ヴェルサイユ条約は、その制定に際してアジア・アフリカの解放という大義名分が掲げられていたが、実際には、戦勝国の賠償規定であり、第一次世界大戦が過去に類を見ないほど悲惨な損害を生み出した戦争であったため、戦勝国の敗戦国への報復的とも言える過酷な賠償条件を含んだ内容となっていたことが、結果的に、ナチスの台頭の原因となり、そして1939(昭和14)年から始まる第二次世界大戦の遠因ともなってしまったのは、非常に不幸なことであった。以下参照。
第二次世界大戦の発生と拡大について
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/worldwar.htm
また、日本についても、欧州での大戦が終局を迎えつつある1918(大正7)年、英国の出兵要請を受け、「集団的自衛権」の行使として、ロシア革命後の極東ロシア情勢を背景に「チェコ軍救援」を目的として兵力を展開した。シベリアに兵力を派遣した日本軍は本来の目的が意味を失い連合国が撤兵してからも日本だけは極東に居座り続けた。そして、1931(昭和 6)年9月、満州事変を起こして満州全土を占領した日本は、満州国を設立したが、国際連盟から派遣されたリットン調査団による報告に基づく総会決議の結果、満州国を否認された。この時の全権代表松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れることは出来ない」と演説し、そのまま退席。その後の1933(昭和 8)年3月27日、日本は国際連盟脱退を宣言。ここから日本が孤立し、1937(昭和12)年に偶発的に発生した盧溝橋事件を利用して、日本政府の思惑とは別に日中戦争(支那事変・日華事変)へと発展させていった。本当に、平和を維持継続させることは難しいことなのだな~。
(画像は、コンピエーニュの森に停車中の列車の中での休戦協定。右から2人目は連合国最高司令官フォッシュ。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
このブログの字数制限上参考は以下のページに記載。丘をクリックしてください。この下のページに表示されます。
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