1922年の(今日11月26日)は、ツタンカーメン王の黄金の棺が発見された日。
約3300年前に黄金のマスクをかぶせて葬られていた古代エジプトの少年王(ファラオ)ツタンカーメンのミイラの素顔が初めて、同国南部ルクソールにある「王家の谷」にある同王の墓で、初めて公開されされたのが、今年・2007(平成19)年11月5日のことであった。ツタンカーメン王のミイラは王墓内の石棺に安置されてきたが、室温や湿度を一定に保つことが難しく、傷みが激しいという。そこで、そのような問題を解消するための装置をつけた展示ケースを、墓内部に設け、そこに、王墓内にあったミイラを移し、観光客にも顔を見られるようにして公開したもの。このミイラは、これまで一握りの専門家しか見ることができなかった。ツタンカーメンのミイラは、カーター氏が副葬品を取り外した際に18個に分解されていたため、修復する必要があったという。顔は、CATスキャン(コンピューター体軸断層撮影法)でミイラから収集した画像を使って、シリコーンで再現されたものだそうで、少々出っ歯気味の顔である。ミイラの頭部を覆っていた黄金のマスクは現在、カイロのエジプト考古学博物館に展示されている。 以下参照。
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
ナイル川中流の古代都市テーぺに近い「王家の谷」で、エジプト第18王朝、末期の王ツタンカーメン王の墓が発見されたのは、1922(大正11)11月5日のことであった。
発見したのはイギリスのカーナヴォン卿とその支援を受けた考古学者ハワード・カーターである。そして、1922年の11月26日の今日ツタンカーメン王墓より、石棺のなかから黄金の棺が発見された。そして、三層の黄金の人形棺のなかからは黄金のマスクを着けた王のミイラや膨大な遺品が発見された。7年がかりの大魚だった。(※ツタンカーメンの黄金のマスク)
ラムセス6世の墓(以下参考に記載の「ツタンカーメン物語第二部」参照)の下に位置したことで、王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けていなかったという。(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)。ツタンカーメン王は、アメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名。)と側室キヤの間の子という説が有力で、在位9年、18歳の若さで死んだとされている。
アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていたそうだ。アクエンアテンの死後、即位すると、先王・アメンホテプ4世がアトン神を信仰して国内の神事を混乱させたことから、、彼は元の伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名し、また、首都もアマルナからテーベに戻し国の安定を回復させたという。在位中、王妃アンケセナーメンを妻に迎えているが、彼女は、アクエンアトンと正妃ネフェルティティの三女である。ネフェルティティとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
発見されるまで無名に近かったツタンカーメンは、3300年後その豪華な副葬品と美しい棺によって一躍「最も著名な王」となった。
その発掘は世界を大いに驚かせたが、発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪い(以下参考に記載の※ファラオの呪い参照)の伝説が広まる。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている。
また、若くしてなくなったツタンカーメンの死因については、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたこともあったが、これらは、現在否定されており、左足に負った傷が原因で感染症を併発したと推測しているそうだ。これらの暗殺説は、ツタンカーメンが、古代エジプト第18王朝の第12代目の統治者であったが、在位期間も短く、同王朝の最後の統治者だったことがそのような暗殺説を生んだようである。ツタンカーメンの早世後は、アイがネフェルティティを妻に迎えファラオを継いでいるが、アイは、第18王朝の王族の1人であり、アメンホテプ3世の時代から王家に仕えてきた古参の臣であり、このように、王位が王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
(画像は、ツタンカーメン王の黄金の棺。黄金の人形棺は1924年2月公開され、ミイラの調査は1925年に行われた。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
ツタンカーメン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
ルクソール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB
エジプト考古学博物館
http://www.m-matsu.com/egypt/museum/museum.htm
エジプト第20王朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E7%AC%AC20%E7%8E%8B%E6%9C%9D
ツタンカーメン物語第二部
http://yas.web.infoseek.co.jp/tutankamen2/tutankamen2.html
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開(AFPBBNEWS)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
※ファラオの呪い
http://www.nazotoki.com/noroi.html
カテゴリ[ツタンカーメン]に関する人気上昇中のサイトの解析結果
http://0sy.jp/word/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3.html
約3300年前に黄金のマスクをかぶせて葬られていた古代エジプトの少年王(ファラオ)ツタンカーメンのミイラの素顔が初めて、同国南部ルクソールにある「王家の谷」にある同王の墓で、初めて公開されされたのが、今年・2007(平成19)年11月5日のことであった。ツタンカーメン王のミイラは王墓内の石棺に安置されてきたが、室温や湿度を一定に保つことが難しく、傷みが激しいという。そこで、そのような問題を解消するための装置をつけた展示ケースを、墓内部に設け、そこに、王墓内にあったミイラを移し、観光客にも顔を見られるようにして公開したもの。このミイラは、これまで一握りの専門家しか見ることができなかった。ツタンカーメンのミイラは、カーター氏が副葬品を取り外した際に18個に分解されていたため、修復する必要があったという。顔は、CATスキャン(コンピューター体軸断層撮影法)でミイラから収集した画像を使って、シリコーンで再現されたものだそうで、少々出っ歯気味の顔である。ミイラの頭部を覆っていた黄金のマスクは現在、カイロのエジプト考古学博物館に展示されている。 以下参照。
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
ナイル川中流の古代都市テーぺに近い「王家の谷」で、エジプト第18王朝、末期の王ツタンカーメン王の墓が発見されたのは、1922(大正11)11月5日のことであった。
発見したのはイギリスのカーナヴォン卿とその支援を受けた考古学者ハワード・カーターである。そして、1922年の11月26日の今日ツタンカーメン王墓より、石棺のなかから黄金の棺が発見された。そして、三層の黄金の人形棺のなかからは黄金のマスクを着けた王のミイラや膨大な遺品が発見された。7年がかりの大魚だった。(※ツタンカーメンの黄金のマスク)
ラムセス6世の墓(以下参考に記載の「ツタンカーメン物語第二部」参照)の下に位置したことで、王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けていなかったという。(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)。ツタンカーメン王は、アメンホテプ4世(後にアクエンアテンと改名。)と側室キヤの間の子という説が有力で、在位9年、18歳の若さで死んだとされている。
アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていたそうだ。アクエンアテンの死後、即位すると、先王・アメンホテプ4世がアトン神を信仰して国内の神事を混乱させたことから、、彼は元の伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名し、また、首都もアマルナからテーベに戻し国の安定を回復させたという。在位中、王妃アンケセナーメンを妻に迎えているが、彼女は、アクエンアトンと正妃ネフェルティティの三女である。ネフェルティティとの夫婦仲は良かったといわれている。その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
発見されるまで無名に近かったツタンカーメンは、3300年後その豪華な副葬品と美しい棺によって一躍「最も著名な王」となった。
その発掘は世界を大いに驚かせたが、発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を遂げたとされ、ファラオの呪い(以下参考に記載の※ファラオの呪い参照)の伝説が広まる。だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている。
また、若くしてなくなったツタンカーメンの死因については、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたこともあったが、これらは、現在否定されており、左足に負った傷が原因で感染症を併発したと推測しているそうだ。これらの暗殺説は、ツタンカーメンが、古代エジプト第18王朝の第12代目の統治者であったが、在位期間も短く、同王朝の最後の統治者だったことがそのような暗殺説を生んだようである。ツタンカーメンの早世後は、アイがネフェルティティを妻に迎えファラオを継いでいるが、アイは、第18王朝の王族の1人であり、アメンホテプ3世の時代から王家に仕えてきた古参の臣であり、このように、王位が王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。
(画像は、ツタンカーメン王の黄金の棺。黄金の人形棺は1924年2月公開され、ミイラの調査は1925年に行われた。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
ツタンカーメン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
ルクソール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB
エジプト考古学博物館
http://www.m-matsu.com/egypt/museum/museum.htm
エジプト第20王朝 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E7%AC%AC20%E7%8E%8B%E6%9C%9D
ツタンカーメン物語第二部
http://yas.web.infoseek.co.jp/tutankamen2/tutankamen2.html
ツタンカーメン王の素顔、世界初公開(AFPBBNEWS)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2307274/2313831
※ファラオの呪い
http://www.nazotoki.com/noroi.html
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