今日(11月29日)は、「いい服の日」
「いい(11)ふく(29)」の単なる語呂合せからのようだ。
この日とは別に、全国服飾学校協会・日本ファッション教育振興協会などが制定した2月9日「服の日」、やはり語呂合わせ記念日や、東京都洋服商工協同組合や全日本洋服協同組合連合会が制定した11月12日「洋服記念日」がある。この「洋服記念日」は、1872(明治5)年、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出され、それまでの公家風・武家風の和服礼装が廃止されたことによる。この日のことは以前に今日(11月12日)は「洋服記念日」としてとりあげたのでそこで見てください。→ここ
衣類」のことを、一般に「服」と言っているが、人が地球上に出現した頃から、人は服を着用する習性を持つ。
このような衣類の本来の目的は雨、風、紫外線、寒さといった気象条件などから肉体を保護するためまた怪我など予防のために身に纏うものであったが、その歴史の過程で、次第に、このような保護機能に加えて、人がその富や勇さ、技能を誇示したり、一定の組織に属していること又はある思想信条を有していることを象徴する意味を持つようにもなった。しかし、現在ではそのような目的よりも、自分の身体を美化する事に関する装飾 ・身体を隠し、他者の注意を引かないよう自制する といったことや自己の拡張 などといった目的の方が重視されるようになっている。また、メーカーなどが主導している、ファッションの重要な一環(服装)ともなっている。
それでは、今日の記念日ではないが、「いい服」ってどんな服なんだろう?
「おしゃれな服」のことを言っているのかな・・・?・・・それでは、おしゃれって何だろう?どういうことを言っているのだろう。ファッションセンスの良いことかな?
ファッションは人々のあいだで流行している服装を指すが、そもそも「流行」とは、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態をあらわすものであるが、社会学者のジンメルは、流行とは、他者に同調する模倣 と流行に同調しない他者との差異化 との統一であると考え(両価説)、また「流行は階級的である」と考えた。流行は人々にアイデンティティー(同一性)を与える一方で、下層から模倣される上層の作り出す新たな流行によって差異性が保たれる。これによって流行には寿命があることをジンメルは説明したという。特に大きな流行は、人々が従来の生活に飽き、新しい生活を求めた場合に発生するとも説明されている。
流行を追う者と余り流行を追わない者がいるが、これは、都市部についても流行を追う者の多い都市と負わないものが多い都市があるようだ。私も、若い頃はファッションに関連する衣料品を専門に扱う仕事をしていたが、今はどうか知らないが、昭和30年代末から40年代にかけての経済成長期、東京にもまだ、江戸っ子が多く住んでいたが、そんな江戸っ子を自称する人の家に間借りをしていた。大家さんの奥さんが言っていたが、東京には流行を追っかける人たちが多いが、それは地方から東京にきて住んでいる人たちであって、「本当の江戸っ子は流行を追わないのです」と言っていた。事実、そこの家の娘はJALのスチュワーデスをしていたかわいいお嬢さんだったが地味な服装をしていた。また、私が扱っていた商品につついても、色物など常磐沿線の土浦だとか水戸とかいった地域の方が東京の都市部に住んでいる人より流行のカラー物などが売れるのである。それは、テレビなどの宣伝により影響され、そういった地域の人たちの方が情報に過敏で、流行に後れまいとして余計に過敏に反応するようであった。
そのほか、伝統的に流行にされない地域もあり、私が住んでいる神戸の女性などは余り流行などには左右されない人が多いようである。これは、流行を追うものが良いとか悪いの話しではない。
要するに、どちらの服を着ているのが良いとか悪いとか言う問題ではなく、どちたがおしゃれといった問題でもない・・・ということである。
よく「こっちとこっち、どっちが似合う?」「どっちが良い?」・・・などと売り場の販売員などに聞いている女性がいるがそのような場合どういえばよいのだろう。
高いブランド物の服をセットで身につければお洒落っぽくはなるが、「お洒落」とは言えない。「お洒落」とは、辞書を引くと、「髪形・化粧・服装など身なりに気を配る・こと(さま)。また、そのような人をもいう。」とあり、「服であれば、その服を着た姿がしゃれたようすであるさま」をいうのであり、そうなると、結局は、その人が、自分のセンスを磨いてこそのお洒落といえるのではないかな?例えば、シンプルなジャケットでも、それとマッチしたインナーとの組み合わせで雰囲気が違ってくる。コーディネートの仕方などセンスを磨かなければ、おしゃれにはならないだろう。お洒落に着こなせる服を見分ける・・・ことと、また、そんなセンスのいい服を着ていても歩いてる姿が悪いとつや消しだ。やはり、そういったものがトータルされて、「お洒落」になるのだろう。
結局周囲の見た人が「いい!」と思わせる何かをその人が持っているかどうかだ。見た瞬間に、「あぁ、いいなぁ!、素敵だな~」ということを感じさせることであり、その人にとってまた、その場、その環境などに「悪い服」というのはあるだろうが、単に「いい服」というものはないのだろうね~。よって、清潔感のあることは基本であろうが、お洒落を感じさせる雰囲気を醸し出す手段としてぴったりな服がその人にとよい服といえるような気がする。
最後に、日本の哲学者である、戸坂潤 の「思想と風俗」の中に以下のように書いている。
「序 、思想というものは、その持ち主の身につけば、その持主の好みのようなものにまでもなるものだ。意識とも良心ともモラルとも云っていいものになる。そして同じ時代の同じ社会に活きている沢山の人間達の間に、共通する好みの類が、風俗をなすのである。ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーション(世代。同世代の人々)や又社会階級の、世界観を象徴しているものなのだ。だから吾々は又、世の中の風俗の褶(しびら)や歪み(ひずみ)や蠢(うごめ)きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来るわけである。・・・と。
そして、第一部 風俗1 風俗の考察に、カーライルは『サーター・リザータス』(Sartor Resartus)に於て、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪(あやし)んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない・・・・が、「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。」・・・と。それ程、衣服は、身近なものであるにもかかわらず衣服の事を論ずるのは難しいことのようだ。
カーライルの名言「太陽はタバコの火をつけるのに役立たないが、それは別に太陽の欠点ではない。」がある。 これは、「衣服はあなたをお洒落にすることに役立っていなくてもそれは別に衣服が悪いわけではない」・・とも言えるね(^0^)。
(画像は、アサヒクロニクル『週間20世紀」映画の100年表紙。中央写真が映画「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘプバーン。彼女は何を着ても、どんな役を演じても素敵だ!」
日本ファッション教育振興協会
http://www.fashion-edu.jp/
11月12日「洋服記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e2c6368871dbb7c9fda40ca09bc56399
服装 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E8%A3%85
江戸っ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A3%E5%AD%90
戸坂潤「思想と風俗」青空文庫
http://mirror.aozora.gr.jp/cards/000281/files/1710.html
戸坂潤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%9D%82%E6%BD%A4
トーマス・カーライル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AB
オードリー・ヘプバーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%97%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
マイ・フェア・レディ - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8464/
「いい(11)ふく(29)」の単なる語呂合せからのようだ。
この日とは別に、全国服飾学校協会・日本ファッション教育振興協会などが制定した2月9日「服の日」、やはり語呂合わせ記念日や、東京都洋服商工協同組合や全日本洋服協同組合連合会が制定した11月12日「洋服記念日」がある。この「洋服記念日」は、1872(明治5)年、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出され、それまでの公家風・武家風の和服礼装が廃止されたことによる。この日のことは以前に今日(11月12日)は「洋服記念日」としてとりあげたのでそこで見てください。→ここ
衣類」のことを、一般に「服」と言っているが、人が地球上に出現した頃から、人は服を着用する習性を持つ。
このような衣類の本来の目的は雨、風、紫外線、寒さといった気象条件などから肉体を保護するためまた怪我など予防のために身に纏うものであったが、その歴史の過程で、次第に、このような保護機能に加えて、人がその富や勇さ、技能を誇示したり、一定の組織に属していること又はある思想信条を有していることを象徴する意味を持つようにもなった。しかし、現在ではそのような目的よりも、自分の身体を美化する事に関する装飾 ・身体を隠し、他者の注意を引かないよう自制する といったことや自己の拡張 などといった目的の方が重視されるようになっている。また、メーカーなどが主導している、ファッションの重要な一環(服装)ともなっている。
それでは、今日の記念日ではないが、「いい服」ってどんな服なんだろう?
「おしゃれな服」のことを言っているのかな・・・?・・・それでは、おしゃれって何だろう?どういうことを言っているのだろう。ファッションセンスの良いことかな?
ファッションは人々のあいだで流行している服装を指すが、そもそも「流行」とは、ある社会のある時点で、特定の思考、表現形式、製品などがその社会に浸透・普及していく過程にある状態をあらわすものであるが、社会学者のジンメルは、流行とは、他者に同調する模倣 と流行に同調しない他者との差異化 との統一であると考え(両価説)、また「流行は階級的である」と考えた。流行は人々にアイデンティティー(同一性)を与える一方で、下層から模倣される上層の作り出す新たな流行によって差異性が保たれる。これによって流行には寿命があることをジンメルは説明したという。特に大きな流行は、人々が従来の生活に飽き、新しい生活を求めた場合に発生するとも説明されている。
流行を追う者と余り流行を追わない者がいるが、これは、都市部についても流行を追う者の多い都市と負わないものが多い都市があるようだ。私も、若い頃はファッションに関連する衣料品を専門に扱う仕事をしていたが、今はどうか知らないが、昭和30年代末から40年代にかけての経済成長期、東京にもまだ、江戸っ子が多く住んでいたが、そんな江戸っ子を自称する人の家に間借りをしていた。大家さんの奥さんが言っていたが、東京には流行を追っかける人たちが多いが、それは地方から東京にきて住んでいる人たちであって、「本当の江戸っ子は流行を追わないのです」と言っていた。事実、そこの家の娘はJALのスチュワーデスをしていたかわいいお嬢さんだったが地味な服装をしていた。また、私が扱っていた商品につついても、色物など常磐沿線の土浦だとか水戸とかいった地域の方が東京の都市部に住んでいる人より流行のカラー物などが売れるのである。それは、テレビなどの宣伝により影響され、そういった地域の人たちの方が情報に過敏で、流行に後れまいとして余計に過敏に反応するようであった。
そのほか、伝統的に流行にされない地域もあり、私が住んでいる神戸の女性などは余り流行などには左右されない人が多いようである。これは、流行を追うものが良いとか悪いの話しではない。
要するに、どちらの服を着ているのが良いとか悪いとか言う問題ではなく、どちたがおしゃれといった問題でもない・・・ということである。
よく「こっちとこっち、どっちが似合う?」「どっちが良い?」・・・などと売り場の販売員などに聞いている女性がいるがそのような場合どういえばよいのだろう。
高いブランド物の服をセットで身につければお洒落っぽくはなるが、「お洒落」とは言えない。「お洒落」とは、辞書を引くと、「髪形・化粧・服装など身なりに気を配る・こと(さま)。また、そのような人をもいう。」とあり、「服であれば、その服を着た姿がしゃれたようすであるさま」をいうのであり、そうなると、結局は、その人が、自分のセンスを磨いてこそのお洒落といえるのではないかな?例えば、シンプルなジャケットでも、それとマッチしたインナーとの組み合わせで雰囲気が違ってくる。コーディネートの仕方などセンスを磨かなければ、おしゃれにはならないだろう。お洒落に着こなせる服を見分ける・・・ことと、また、そんなセンスのいい服を着ていても歩いてる姿が悪いとつや消しだ。やはり、そういったものがトータルされて、「お洒落」になるのだろう。
結局周囲の見た人が「いい!」と思わせる何かをその人が持っているかどうかだ。見た瞬間に、「あぁ、いいなぁ!、素敵だな~」ということを感じさせることであり、その人にとってまた、その場、その環境などに「悪い服」というのはあるだろうが、単に「いい服」というものはないのだろうね~。よって、清潔感のあることは基本であろうが、お洒落を感じさせる雰囲気を醸し出す手段としてぴったりな服がその人にとよい服といえるような気がする。
最後に、日本の哲学者である、戸坂潤 の「思想と風俗」の中に以下のように書いている。
「序 、思想というものは、その持ち主の身につけば、その持主の好みのようなものにまでもなるものだ。意識とも良心ともモラルとも云っていいものになる。そして同じ時代の同じ社会に活きている沢山の人間達の間に、共通する好みの類が、風俗をなすのである。ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーション(世代。同世代の人々)や又社会階級の、世界観を象徴しているものなのだ。だから吾々は又、世の中の風俗の褶(しびら)や歪み(ひずみ)や蠢(うごめ)きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来るわけである。・・・と。
そして、第一部 風俗1 風俗の考察に、カーライルは『サーター・リザータス』(Sartor Resartus)に於て、なぜこれまでに衣服に就いての哲学が書かれていないか、を怪(あやし)んでいる。衣裳ほど日常吾々の眼に触れるものはないのに、之に就いて哲学が語られたことがないというのは、何としたことだろう。イギリス人などが衣裳哲学に考え及ぶことなどは想像も及ばないだろう、ドイツ人なら或いは衣裳の哲学に向いているかも知れない・・・・が、「衣服の哲学」は、流石哲学好きのドイツでも発達しなかったようだ。」・・・と。それ程、衣服は、身近なものであるにもかかわらず衣服の事を論ずるのは難しいことのようだ。
カーライルの名言「太陽はタバコの火をつけるのに役立たないが、それは別に太陽の欠点ではない。」がある。 これは、「衣服はあなたをお洒落にすることに役立っていなくてもそれは別に衣服が悪いわけではない」・・とも言えるね(^0^)。
(画像は、アサヒクロニクル『週間20世紀」映画の100年表紙。中央写真が映画「マイ・フェア・レディ」のオードリー・ヘプバーン。彼女は何を着ても、どんな役を演じても素敵だ!」
日本ファッション教育振興協会
http://www.fashion-edu.jp/
11月12日「洋服記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/e2c6368871dbb7c9fda40ca09bc56399
服装 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E8%A3%85
江戸っ子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A3%E5%AD%90
戸坂潤「思想と風俗」青空文庫
http://mirror.aozora.gr.jp/cards/000281/files/1710.html
戸坂潤 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%9D%82%E6%BD%A4
トーマス・カーライル- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AB
オードリー・ヘプバーン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%97%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3
マイ・フェア・レディ - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD8464/