1883(明治16)年11月28日の今日、「鹿鳴館が落成した。外務卿(後に外務大臣)井上馨は鹿鳴館の落成式で、「国境の為に限られざるの交誼(こうぎ)友情を結ばしむる場となさんとする」ために鹿鳴館を開いたことを述べ、この文明開化の殿堂が「各国人の調和の交際を得る場」となることを希望すると、その所信を表明。本来は国賓クラスの外国からの賓客を宿泊・接待するための使節であったが、國際親善の場であると同時に、鹿鳴館に招かれた外国人に日本が決して未開の国ではなく、欧米諸国に劣らぬほど文明開化された国である事を印象付けるという役割が架せられた社交場でもあった。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
鹿鳴館が落成後は外国人を招いたパーティーが毎週のように開かれていたが、その代表といえばやはり「舞踏会」であるが、外国人のため、また日本人が彼らと対等に交際を図るために行われた「最一の遊興たる」舞踏会は、外国人の目にはどう映ったか?
フランスの海軍仕官ピエール・ロチが小説として描いた鹿鳴館は、新しい明治ではなくその名も「江戸の舞踏会」であった。そして、鹿鳴館という建物自体も「われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場」であるし、日本人のそこでの振る舞いは、”パリ風の装いをしたじつに滑稽な日本女性たちと踊る~とても美しい、とりわけ仮装舞踏会として特異な舞踏会”であった。「どえらい笑劇」であり「まったく素晴らしい猿真似」であったと見ている。しかし、日本人を猿視したロチであるが、また、鹿鳴館の女性たちにはかなり好感も示しているが、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーの描いた日本人の紳士淑女の鏡に映る姿は、そのまま猿である。(この画像は以下参考に記載の「日本のワインの歴史 vol .21 」でみれる。)
外国人と日本人の交際の場であるはずの鹿鳴館であったが、実際にそこで繰り広げられた舞踏会で踊っていたのは2、3を除いてほとんど外国人だけ、日本人は似合わない洋装のまま横で見ているだけであったようだ。それではいけないとばかりに1年後に始まったのが、お雇い外国人ヨハネス・ルードウィヒ・ヤンソンによる踏舞練習会。であったという。そして、鹿鳴館開館から1年以上経過してやっとダンスの練習会を始めた新政府が、その教師に選んだヤンソンは、ダンスのためではなく獣医学を教えるために東京農学校にいたお雇い外国人であったとはいっても、この練習会での成果は上々だったようで、これ以降、「西洋の舞踏会」は何とか形式を調えることはできた。”という。(以下参考に記載の「おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉」参照)
このブログに添付している画像は、ビゴーが1887(明治20)年に創刊した時局風刺雑誌『ドバエ』に掲載されている鹿鳴館の控えの間でのスケッチであるが、洋装した女性たちはダンスの相手として動員された芸者達であろう。靴がはきなれないらしく、全員が脱いでいる。右上に見える文字「名磨行」は生意気のことか。彼女たちは、芸者であった。舞踏会のような社交場での外国人の相手に、慣れてる日本の上層夫人は当時少数しかいなかったであろうから、何らかの形でレッスンを受け、男性の多い舞踏会で員数合わせに実際に動員されていたのが芸者達のようだ。社交上手を考えれば芸者はその筆頭に挙げられるだろうから・・・。
鹿鳴館は、舞踏会ばかりが取り上げられ西洋の「猿真似」として戯画化されてきたが、舞踏会ばかりではなくその他にも洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られたが今日のカルチャースクールと変わりはない。つまり西洋文明の情報センターとしての役割を果たすホットスポットだった。その反面、西洋化に反発する国粋主義の壮士たちが周囲を徘徊する物騒な場所でもあった。不平等条約改正に取り組んでいた井上等が条約改正のためにも、日本が文明国であることを外国人に示すことが必要であると考え開館した鹿鳴館は、外国人から冷やかされながらも華やかだったのは開館からわずか4年の事であり、その努力もむなしく、不平等条約の改正は遅々として進まず、1887(明治20)年に井上が外務大臣を失脚してからは、舞踏会も間遠(あいどお)くなり、やがて人々から忘れ去られて行き、1894(明治27)年には宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894(明治27)年の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。旧鹿鳴館の建物は、1927(昭和2)年徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却されたあとも保存されていたが、1940(昭和15)年に取壊された。
先にも書いたフランスの海軍仕官ピエール・ロチは、フランスの自然主義作家(自然主義文学参照)で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)といい、ペンネームのロチはマオリ語でばらを意味するという。
ロチはプッチーニの「蝶々夫人」のモデルとなったともいわれている『お菊さん』の著者でもある。彼は、当時、フランス海軍「トリファント号」の艦長として1885(明治18)年7~12月に来日していた。その間7月から8月約1ヶ月ほど長崎に滞在しその時一緒に生活していたのがお菊さん。言うところの一時的な日本人妻であり、その経験をもとに、執筆したものが小説『お菊さん』である。その彼が同年11月、天皇誕生日を祝う鹿鳴館の夜会にも招かれている。その時の経験をもとに『江戸の舞踏会』を書いている。
またこの2作を元に、芥川龍之介が、『舞踏会』を書いている。(青空文庫舞踏会参照)
鹿鳴館時代は、当時のジャーナリズムからも非難をあびて、急速に終息したが、日本史を考える上では、欧化政策から日本主義への思想上の大転換がはかられていく時代で、鹿鳴館の思想は、それこそ花火のような短い思想ではあったが、その後の日本に大きな影響を与えた。
今日の日本が、「なぜ他の非西洋諸国に先駆けて奇跡的とも言える経済発展を遂げることに成功したのか?」・・・を考えると、そこには、何でも受け入れる柔軟性があったからではないか。
古代から中世にかけて、日本は中国からの漢字の輸入に始まり、遣隋使や遣唐使の派遣など大変なコストと危険を伴ないながら好奇心旺盛に仏教や律令制度などを積極的に学び、取り込んでいった。そして、幕末から明治維新にかけては、西洋列強からの圧力を全身で受け止め、その植民地化を避けるために先進的なヨーロッパの文化、制度、技術、思想を、徹底的に取り入れようとした。「猿まね」と酷評された鹿鳴館でのお祭り騒ぎはその象徴であったといえるだろう。
第二次大戦後も日本は戦争に負けたアメリカの強大な影響下の中で、ジャズやミュージカルなどのアメリカ文化のみにとどまらず、自動車技術、食生活、恋愛のスタイルに至るまで、役に立ちそうな情報、知識はどん欲に取り入れ物まねをしてきた。考え方によっては、この無節操とも言える独自性のなさ。自国のアイデンティティを喪失してしまうのではないかと思えるどの徹底した物真似で、経済面でもトップクラスになった日本は、遂に、目標を失い、今までの物真似をする立場から逆にされる立場になったときから、徐々に、日本の特異性が失われ始めたような気がする。さて、これからの日本は、何を武器に世界の国と競ってゆくのか・・・。もう、猿真似はだめだよ・・・。
(画像はビゴー画「晩餐後-日本の上流階級社会のサロン」『ドバエ』明治20年。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
鹿鳴館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
ジョルジュ・ビゴー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B4%E3%83%BC
おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem1.htm
エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode34.html
「舞踏会」論―「海軍将校」が「ロティ」でない理由―
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2005/index/butoukai_nao.htm
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html#sakuhin_list_1
ジャコモ・プッチーニ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
プッチーニ:蝶々夫人
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/puccini_madama_butterfly.html
【第204号】 ピエール・ロチと長崎
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol204.html
長崎歴史散歩⑤ピエール・ロチと長崎
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-05.htm
Belle’s bar 日本のワインの歴史
http://blog.goo.ne.jp/urbankitty/c/da75844ddea3b79e648ebf06f8b06937
PDF] 文学を通して垣間見る日本の近代化
http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/8/yun.pdf
生命保険 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E4%BF%9D%E9%99%BA
律令制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
鹿鳴館が落成後は外国人を招いたパーティーが毎週のように開かれていたが、その代表といえばやはり「舞踏会」であるが、外国人のため、また日本人が彼らと対等に交際を図るために行われた「最一の遊興たる」舞踏会は、外国人の目にはどう映ったか?
フランスの海軍仕官ピエール・ロチが小説として描いた鹿鳴館は、新しい明治ではなくその名も「江戸の舞踏会」であった。そして、鹿鳴館という建物自体も「われわれの国のどこかの温泉町の娯楽場」であるし、日本人のそこでの振る舞いは、”パリ風の装いをしたじつに滑稽な日本女性たちと踊る~とても美しい、とりわけ仮装舞踏会として特異な舞踏会”であった。「どえらい笑劇」であり「まったく素晴らしい猿真似」であったと見ている。しかし、日本人を猿視したロチであるが、また、鹿鳴館の女性たちにはかなり好感も示しているが、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーの描いた日本人の紳士淑女の鏡に映る姿は、そのまま猿である。(この画像は以下参考に記載の「日本のワインの歴史 vol .21 」でみれる。)
外国人と日本人の交際の場であるはずの鹿鳴館であったが、実際にそこで繰り広げられた舞踏会で踊っていたのは2、3を除いてほとんど外国人だけ、日本人は似合わない洋装のまま横で見ているだけであったようだ。それではいけないとばかりに1年後に始まったのが、お雇い外国人ヨハネス・ルードウィヒ・ヤンソンによる踏舞練習会。であったという。そして、鹿鳴館開館から1年以上経過してやっとダンスの練習会を始めた新政府が、その教師に選んだヤンソンは、ダンスのためではなく獣医学を教えるために東京農学校にいたお雇い外国人であったとはいっても、この練習会での成果は上々だったようで、これ以降、「西洋の舞踏会」は何とか形式を調えることはできた。”という。(以下参考に記載の「おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉」参照)
このブログに添付している画像は、ビゴーが1887(明治20)年に創刊した時局風刺雑誌『ドバエ』に掲載されている鹿鳴館の控えの間でのスケッチであるが、洋装した女性たちはダンスの相手として動員された芸者達であろう。靴がはきなれないらしく、全員が脱いでいる。右上に見える文字「名磨行」は生意気のことか。彼女たちは、芸者であった。舞踏会のような社交場での外国人の相手に、慣れてる日本の上層夫人は当時少数しかいなかったであろうから、何らかの形でレッスンを受け、男性の多い舞踏会で員数合わせに実際に動員されていたのが芸者達のようだ。社交上手を考えれば芸者はその筆頭に挙げられるだろうから・・・。
鹿鳴館は、舞踏会ばかりが取り上げられ西洋の「猿真似」として戯画化されてきたが、舞踏会ばかりではなくその他にも洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られたが今日のカルチャースクールと変わりはない。つまり西洋文明の情報センターとしての役割を果たすホットスポットだった。その反面、西洋化に反発する国粋主義の壮士たちが周囲を徘徊する物騒な場所でもあった。不平等条約改正に取り組んでいた井上等が条約改正のためにも、日本が文明国であることを外国人に示すことが必要であると考え開館した鹿鳴館は、外国人から冷やかされながらも華やかだったのは開館からわずか4年の事であり、その努力もむなしく、不平等条約の改正は遅々として進まず、1887(明治20)年に井上が外務大臣を失脚してからは、舞踏会も間遠(あいどお)くなり、やがて人々から忘れ去られて行き、1894(明治27)年には宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894(明治27)年の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。旧鹿鳴館の建物は、1927(昭和2)年徴兵生命保険(現・大和生命保険)に売却されたあとも保存されていたが、1940(昭和15)年に取壊された。
先にも書いたフランスの海軍仕官ピエール・ロチは、フランスの自然主義作家(自然主義文学参照)で、本名をルイス・マリー・ジュリアン・ヴィオー(Louis Marie Julien Viaud)といい、ペンネームのロチはマオリ語でばらを意味するという。
ロチはプッチーニの「蝶々夫人」のモデルとなったともいわれている『お菊さん』の著者でもある。彼は、当時、フランス海軍「トリファント号」の艦長として1885(明治18)年7~12月に来日していた。その間7月から8月約1ヶ月ほど長崎に滞在しその時一緒に生活していたのがお菊さん。言うところの一時的な日本人妻であり、その経験をもとに、執筆したものが小説『お菊さん』である。その彼が同年11月、天皇誕生日を祝う鹿鳴館の夜会にも招かれている。その時の経験をもとに『江戸の舞踏会』を書いている。
またこの2作を元に、芥川龍之介が、『舞踏会』を書いている。(青空文庫舞踏会参照)
鹿鳴館時代は、当時のジャーナリズムからも非難をあびて、急速に終息したが、日本史を考える上では、欧化政策から日本主義への思想上の大転換がはかられていく時代で、鹿鳴館の思想は、それこそ花火のような短い思想ではあったが、その後の日本に大きな影響を与えた。
今日の日本が、「なぜ他の非西洋諸国に先駆けて奇跡的とも言える経済発展を遂げることに成功したのか?」・・・を考えると、そこには、何でも受け入れる柔軟性があったからではないか。
古代から中世にかけて、日本は中国からの漢字の輸入に始まり、遣隋使や遣唐使の派遣など大変なコストと危険を伴ないながら好奇心旺盛に仏教や律令制度などを積極的に学び、取り込んでいった。そして、幕末から明治維新にかけては、西洋列強からの圧力を全身で受け止め、その植民地化を避けるために先進的なヨーロッパの文化、制度、技術、思想を、徹底的に取り入れようとした。「猿まね」と酷評された鹿鳴館でのお祭り騒ぎはその象徴であったといえるだろう。
第二次大戦後も日本は戦争に負けたアメリカの強大な影響下の中で、ジャズやミュージカルなどのアメリカ文化のみにとどまらず、自動車技術、食生活、恋愛のスタイルに至るまで、役に立ちそうな情報、知識はどん欲に取り入れ物まねをしてきた。考え方によっては、この無節操とも言える独自性のなさ。自国のアイデンティティを喪失してしまうのではないかと思えるどの徹底した物真似で、経済面でもトップクラスになった日本は、遂に、目標を失い、今までの物真似をする立場から逆にされる立場になったときから、徐々に、日本の特異性が失われ始めたような気がする。さて、これからの日本は、何を武器に世界の国と競ってゆくのか・・・。もう、猿真似はだめだよ・・・。
(画像はビゴー画「晩餐後-日本の上流階級社会のサロン」『ドバエ』明治20年。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
鹿鳴館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
ジョルジュ・ビゴー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B4%E3%83%BC
おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem1.htm
エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode34.html
「舞踏会」論―「海軍将校」が「ロティ」でない理由―
http://www.hum.u-tokai.ac.jp/nichibun/computer2005/index/butoukai_nao.htm
作家別作品リスト:No.879作家名: 芥川 竜之介
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html#sakuhin_list_1
ジャコモ・プッチーニ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%8B
プッチーニ:蝶々夫人
http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/puccini_madama_butterfly.html
【第204号】 ピエール・ロチと長崎
http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol204.html
長崎歴史散歩⑤ピエール・ロチと長崎
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-05.htm
Belle’s bar 日本のワインの歴史
http://blog.goo.ne.jp/urbankitty/c/da75844ddea3b79e648ebf06f8b06937
PDF] 文学を通して垣間見る日本の近代化
http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/8/yun.pdf
生命保険 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E4%BF%9D%E9%99%BA
律令制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6