今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「24時間テレビ愛は地球を救う」を始めて放送した日

2006-08-26 | 歴史
今日(8月26日)は日本テレビが「24時間テレビ愛は地球を救う」を始めて放送した日。1978(昭和53)年8月26日、日本テレビが「24時間テレビ愛は地球を救う」を放送。翌年から恒例化した 。
24時間テレビ 「愛は地球を救う」は、日本テレビ系列(NNS)の放送局が毎年8月下旬の土曜日~日曜日に行っているチャリティー活動を目的としたテレビ番組であり、今日も午後6:30分から放送が始まる。
現在のこの番組の参加局は日本テレビ系列30局と沖縄テレビ(FNN)の計31局である。現在は24時間を超している(26時間半)が、通称「24時間テレビ」と呼ばれている。メイン会場は日本武道館(1991年は東京都庁を会場にした)。その他、銀座の日産銀座ギャラリーや、日本テレビ系列局独自の主催募金会場では、チャリティーオークションなどイベントが行われている。 番組は視聴者から寄せられた善意の浄財を国内外の福祉活動に役立てる事を目的に行っているので「本当の主役はあなたです」を謳い文句にしている。
24時間テレビは、1978(昭和53)年にスタート。その当時11PMのディレクターだった都築忠彦が、アメリカで大物タレントによるチャリティーショーを見て感銘を受け企画立案し、「日本テレビ開局25周年記念特別番組」として誕生。第1回のチャリティーパーソナリティーは萩本欽一と大竹しのぶ、番組シンボルとしてピンクレディー、総合司会は番組の企画段階より深く関わっていた大橋巨泉と、竹下景子が務めた。
この当時の中心的なテーマソングは「この地球(ほし)をあなたに」(チャリティーソング、作詞は山川啓介、作曲は大野雄二が担当)であった。
この頃の主な内容としては世界各地の取材映像の紹介以外に「ふれあいの旅」(萩本欽一が全国各地を生放送中に飛び回り募金活動の応援をするというもの)「チャリティー大行進」、「手塚治虫アニメ」、「グランド・プロローグ・ショー」(主に歌手たちによる同番組テーマソングの共演)、大阪・読売テレビ発のバラエティーショーやロックコンサートの中継等、テレビ放送の可能性を追求する試みが各コーナーで行われた。尚、「愛は地球を救う」という番組のサブタイトルと、2002年まで番組オープニングのちエンディングのスタッフロール終了後にクレジットされた「本当の主役はあなたです」というコピーは、コピーライターの糸井重里が考案したものだそうである。
番組初期の屋台骨を長年支えてきた萩本欽一氏は1989(平成元)年を以って同番組を降板しているが、この萩本欽一氏に関しては、1990年(平成2)年頃、一部週刊誌に「萩本欽一は24時間テレビの出演時に毎年1,000万円単位の出演料を貰っている」といった報道がなされ、この報道に起因して「ギャラを貰ってるヤツがチャリティーショーに出演する資格などはない」と自戒の念を述べて番組から完全降板してしまった、という逸話が残されているように、当初から「チャリティー」を謳い文句としていながら、出演タレントが総じてギャラを貰うという、商業主義的な行為を批判する者結構もいるようである。そして、現在も尚、何百万単位という高額なギャランティーが、司会者など主要出演者に対してはすべて支払われている模様だというがその真実はどうなのだろうか?。
テーマソング「サライ」(作詞谷村新司、作曲弾厚作(加山雄三))は1992(平成4)年から使用されるようになった。 又、今は、この番組の目玉企画ともなっているチャリティーマラソンも、同年から開催されるようになり、これまでに間寛平、研ナオコ、杉田かおる、赤井英和、丸山和也らがランナーを務めた。24時間以上をぶっ通しで走り続けるため、ハプニングも多い。しかし、近年ではマンネリ化に加え、「チャリティー」という番組コンセプトとの関連性に対する疑義がボランティア団体などからも少なからず示され、走行距離の短縮を行っているのでないか、などの疑惑さえも浮上するなどの問題を抱えているという。
私自身は、つまらぬ番組が多い中で、多少なりとも、人のためになる当番組が果たした役割は大きいと評価はしているが、本当か嘘か?、単なる噂なのか?は知らないが、一般の庶民に寄付を呼びかける番組に出演者が高額のギャラを貰って出ているのだとしたら、やはり、余り愉快な気持ちにはなれないね~。このあたりは、アメリカなどボランティア活動の定着している諸外国のやり方とは違っているようだ。又、チャリティーマラソンについても、出場者の殆どが、苦労の末見事に完走して感動を呼んでいるが、穿った見方かは知らないが余りにもドラマチックで良くできすぎている感じも無きにしも非ずである。今年のランナーはアンガールズらしい。「芸能人で最も体力のなさそうな人を!」という不名誉な理由でランナーに抜擢されたといわれているらしいが、その人たちが、よれよれで、時間間近にゴールすると・・・これは受けるだろうね~・・・。(^0^)
(画像はテーマソング「サライ」を合唱する出演者・市民ら。大阪市・ツイン21 2005年。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
24時間テレビ(日テレ)
http://www.ntv.co.jp/24h/
24時間テレビ 「愛は地球を救う」 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/24%E6%99%82%E9%96%93%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93_%E3%80%8C%E6%84%9B%E3%81%AF%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%86%E3%80%8D
大丈夫!?アンガールズ、24時間テレビでマラソンに挑戦
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200607/gt2006071602.html

サマークリスマス

2006-08-25 | 記念日
今日(8月25日)は「サマークリスマス」
今日は何の日に「サマークリスマス」と言う記念日があったので、何だろうと思ってみてみると、「TBSの林美雄アナウンサーがパーソナリティーをしていたラジオ番組「パックインミュージック金曜2部」の中で、「夏にもクリスマスのようなイベントを作ろう」ということで、林さんの誕生日を夏のクリスマスとして盛り上げようということになった。この日には、TBS近くの公園でささやかなイベントが開かれた。」・・・とあった。尚、林 美雄氏は2002年7月13日TBS在籍中に他界。
メリークリスマスじゃなく、「サマークリスマス“Summer*Christmas”」・・・・う~ん?。
サマークリスマスといえば、昨年の映画で「8月のクリスマス 」というのがあったな~。韓国でハン・ソッキュが主演をつとめ大ヒットした感動作『八月のクリスマス』を、日本でリメイクした作品。題名も八月を8月に変え、ストーリーもオリジナルとは少し設定を変えつつもほぼ同じ、人を愛する喜びを描いた珠玉のラブストーリーだというが、余り、評判はよくないようだな~。
それは主役を演じている歌手の山崎まさよしの演技力にもあるのではないかとの話を聞いたことがある。もとの韓国映画『八月のクリスマス』の方は、ホ・ジノ監督のデビュー作であり、ユ・ヨンギル(998年1月他界)撮影監督の最後の作品で、ハン・ソッキュ、シム・ウナが主演。声高でなく、深い余韻を残す美しい作品で、1998年を代表する名作と言われており、第34回、白象芸術大賞及び、国内外映画祭で多数受賞している作品。「八月のクリスマス」ではホ・ジノ監督が「死に行く者の心情」・・・「微細な感情の変化」を,台詞の少ない抑制の効いた表現と美しい映像、そして無駄のない一つ一つのシーンの積み重で、テーマに対して静かに淡々と見事に表現し、見る者に大きな感動と余韻を与えてくれると評判が良い。また、主役ハン・ソッキュがそれを見事に演じているが、そのような、難しい演技を役者でもない歌手に求めるのは酷だろう。
「八月のクリスマス」のストーリーは、ある小さな町の、死を目前にした写真館の若主人ジョンウォン(ハン・ソッキュ)がたまたま現像依頼に訪れた純粋な微笑みの美しい駐車取り締まり員タリム(シム・ウナ)と暑い盛りの八月に出会い、やがて芽生えた2人の淡い恋を描いたもの。
ジョンウォンは死にゆく自分とは違い、これから人生が始まるタリムから初夏の果物の瑞々しさを感じ、タリムはジョンウォンに惹き付けられていく。
楽しい遊園地でのデートの翌日。突然ジョンウォンの様態が悪化して病院に担ぎ込まれた。当然写真館は突然休業。ジョンウォンの様態を知らないタリムは、手紙を書いて写真館の閉じたドアに挟み込む。その後、何とか退院してきたジョンウォンは、その手紙に気づき手紙を読み終えた彼は、すぐに返事を書くが、その返事の手紙は、彼女からの手紙と彼女を撮ったポートレート写真と一緒に手箱に入れられ整理棚にしまい込まれる。映画では、その手紙の内容について一切の説明はない。その後、彼は逢うこともないままなくなり、写真館は、又、彼の父親が引き継がれる。クリスマスイブ。彼が亡くなったことを知らないタリムが写真館を訪れる。写真館は出張中の札がドアで揺れて閉まっていた。館内をじっと見つめるタリムの視線が一ケ所に留まり、その顔に驚きが少しずつ浮かんでくる。くるりとドアに背を向けたタリムには顔一杯の笑顔。微笑んだまま離れるタリム。彼女にとって、この時点ではまだ彼が、生き続けており、次にきたときには彼に会えることを信じて……。立ち去った後の写真館の陳列棚には「世界で最も明るい笑顔の彼女の写真」が額縁に入って飾られていた。その上にクリスマスキャロが、そして、ジョンウォンが書いた返事の文面がナレーションで流れる。「微笑んで旅立たせてくれた君にありがとう・・・」
死を控えていた彼は今までの多くの感情を通過して、やっと静かに死を受け入れる準備ができるようになっっていた。彼にとって、8月のあの夏の暑い日の活気にあふれた明るいタリムとの出会いは、天から与えられたクリスマス・プレゼントだったのであろう。正に、その日が、彼にとっての「クリスマス」でもあったのである。
この韓国映画に対して、日本のリメイク版も同じ様な内容で作られているが、ラストの前に、彼からの手紙を読んだ少女が泣き崩れる、というシーンがあり、その手紙の内容が延々とナレーションで流れる。「君と出逢って初めて僕は”生きたい”と思った・・・」「生きていっぱい恋をしてください・・・」などと泣かせるシーンを見せ場としているらしい。・・・これってなんか変?昔の日本映画は、この韓国映画のように、現実をありのままさらけ出すのではなく見ているものに想像させ余韻を残すものが多かった。そのような微妙な表現の映画が多く、この韓国映画などは、そのような一昔前の良き日本映画の典型のような映画だと思う。しかし、このような映画は、もう、今の日本人には作れないのか、又、それを演じる俳優もいないのか?はたまた、作っても映画を見る側にそれだけの想像力豊かな人がいなくなってしまったのか。
「クリスマス」はイエスの誕生日。そのイエスにバースデー・プレゼントをあげることはできるのか?
その質問の対して「マタイによる福音書 25章40節」では、以下のように答えている。
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのと同じである。」・・・と。つまり、困っている人を助けたり、誰かに優しくすることは、イエスに対してしていることとなり、そうしている人は、イエスにバースデー・プレゼントを贈っているのと同じことになるのである。
ジョンウォンがタリムに出会った暑い8月は、彼にとってのクリスマスのようなものであり、死を覚悟した彼がタリムとの出会いによって微笑んで旅立てる気持ちにさせてくれた彼女の愛は最高のプレゼントであり、キリストへの最高のプレゼントと同じものであったろう。このようなクリスマス、12月だけでなく、季節に関係なくあってもいいのではないか・・・。
TBSが近くの公園で何をしているのかはよく知らないが、「サマークリスマス」が単なる人気集めのイベントではなく、そのような意味のあるものだとしたらすばらしいだろうと思った。
(画像は、DVD韓国映画「八月のクリスマス 」)
参考:
林美雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%8E%E9%9B%84
8月のクリスマス - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7448/
八月のクリスマス - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31398/
ユ・ヨンギル
http://www.seochon.net/korean_movie/director/yuyeonggil.htm

大噴火の日,ポンペイ最後の日

2006-08-24 | 記念日
今日(8月24日)は、「大噴火の日,ポンペイ最後の日」
西暦79年8月月24日、イタリアナポリ近郊のヴェスヴィオ火山が突然噴火し、麓のポンペイの市街が約8メートルの火山灰により埋没した日。
ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、1世紀までナポリ近郊にあった都市国家。(インドにも同じ名前のボンベイがあるので混同しないように)。末期は、ローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えていた。
紀元62年2月5日、激しい地震がポンペイを襲い、これにより、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けたが、町はすぐに以前より立派に再建された。しかし、その再建作業も完全に終わらない前の紀元79年8月24日に、ヴェスヴィオ火山が突然大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続け、翌25日には市街は完全に地中に埋まったという。
軍人でもあった博物学者の大プリニウスはポンペイの市民を救助するために船で急行したが、この現象を調査するため、船で再び陸に向かい、その時、煙に巻かれて死んだと甥の小プリニウスによる当時の記述には、あるそうで、二酸化炭素中毒による窒息死だと現在では考えられているそうだ。
この当時の唯一の信頼できる記録は、死亡した大プリニウスの甥の小プリニウスが歴史学者タキトゥスに宛てた手紙だそうで、これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂、火口付近から、松の木のような形の暗い雲を見た。雲は山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだ。そして雲は火口から海までを覆ったという。小プリニウスが書いたこの現象は、現在では火砕流として知られる。これは、火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩れのように流れる現象である。プリニウスは、爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れた、と述べたという。さらに、灰がどんどん積もり、彼がいた村から逃げなければならなかった。そして、海の水がみるみる引いていき、「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波(Tsunami)という言葉を持っていなかったようで、プリニウスの表現は違っており、プリニウスの次の記述は、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかった・・、と続いているそうだ。
火山噴火による壊滅後1000年以上経過しても、この地には集落が作られることはなかった。
1599年に建築家のドメニコ・フォンタナ(Fontana)が水路を作るためにサルノ川沿いを掘っていると壁画のある建物が現れた。しかしその時は、これがポンペイの遺跡だとはわからずにいたそうだ。そして、その後、散発的に古代の品が回収され、下に都市が埋まっていることが知られ所々盗掘されるようになったようだ。
それから、150年後に、ポンペイと共にヴェズヴィオ山の噴火により埋没した町、ヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)が1738年に、ポンペイは1748年に発見された。これらの町は建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにされるために、この後断続的に発掘された。
発掘によって現れたポンペイの町は、碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装され、市の中心には広場もあり、住居はもちろん、劇場や公衆浴場、下水道まで完備されていた。かなり計画的に設計された都市であったという。人口1万人以上と推定されるこの町には、壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残され、ローマ帝国の市民たちの贅沢で、享楽的な暮らしぶりを鮮やかに物語っているという。
当時のポンペイの町の守護者は美と恋愛の神ウェヌス(Venus 、日本語では英語読みヴィーナス=ビーナスで親しまれる)であったそうだ。娼婦の館などが発掘され、男女の交わりを描いた絵フレスコ画)が、多く出土したことからポンペイは快楽の都市であったのではないかとも言われているそうだが、この土地は火山噴火まではぶどうの産地で、主な産業はワイン醸造だったらしい。港湾都市でもあり、商業も盛んであったことは、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることからも裏付けられるという。当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設も多かったのだろうともいわれている。
そうした平和な日々は、ベスピオ山の大噴火によって、一瞬にして奪われてしまった。逃げ遅れた人々は吹きつけた高熱のガスで窒息死し、その上に灰が降り積もった。灰は硬く固まり、肉体が朽ちて空洞が残った。研究者たちは、その空洞に石膏を流し込み、死の瞬間の姿を浮かび上がらせた。それは、家の中で身を寄せ合う家族、最後まで子どもに寄り添う母親、互いをかばい合うように抱き合う恋人などの姿であった。石膏の人型は、一瞬にして平和な日々を奪われたポンペイ市民の悲劇を伝えている。
現在は主要な部分が有料で一般公開され、その遺跡は世界遺産になっている。ポンペイ遺跡は、はかない人間の宿命を物語る世界遺産でもあるようだ。
以下のフォットギャラリーでは、放送時の撮影現場の風景や遺跡等が見れるよ。
古代ローマ・幻の都市ポンペイはなぜ19時間で消えたのか(TBS/2004年9月20日放送スペシャル番組)
歴史小説家リットンの『ポンペイ最後の日』は、この大噴火を題材にしたものである。又、1962(昭和37)年に三宅島が大噴火を起こしたのもこの日だった。三宅島は、富士火山帯南帯に属する火山島である。およそ3000年前に大規模な噴火が起こった形跡があり、それ以後、記録に残る1085(応徳2)年の噴火までのまに10数回の噴火があり、平均すると20年ごとに起こっていたようだ。昭和期には1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年と噴火があり、そして、2000(平成12)年6月にも噴火が起こり、住民が未だに、非難したまま島に帰れないでいることは皆さんもご存知の通りである。
それに、1995年(平成7年)1月17日の死者 : 6,434名  行方不明者 : 3名  負傷者 : 43,792名 の大災害をもたらした阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)も忘れることが出来ない。
高度成長を遂げた日本が誇る、技術の粋を集めた近代都市の、ぜい弱さと自然の猛威をあらためて思い知らされた震災である。震災発生まで、神戸市は神戸には、大地震は発生しないと言っていた。だから、神戸市民には神戸に大震災が発生するなどと考えた人は殆どいなかっただろう。しかし、地震が発生してから、分かったことであるがこの地震を予知していた専門家もいたのである。以下の記事を見てください。
岐阜海紀行/岐阜新聞1月13日付朝刊↓
 http://www.jic-gifu.or.jp/np/newspaper/kikaku/umi/umi9.htm
又、日本にも「日本のポンペイ」と呼ばれるところがある。岐阜県 白川村 の「帰雲城(かえりくもじょう)」跡がそうである。1585(天正13)年に、マグニチュード8クラスの直下型地震により山が崩壊、その土砂が城下町をまるごと飲み込み、数千人の人が生き埋めになってしまったのだという。ここは内ヶ島氏の領地で、内ヶ島氏が掘っていたという莫大な金塊とともに、人々は今も埋もれたままになっているという。
以下参考の「古代の自然科学」によれば、山岳成因説の父といわれるスイトラボーは、紀元前63年に生まれたギリシャ人であるが、ローマに住んで。ヨーロッパやアジア。アフリカを旅行し、山のできかたについて興味ある説を述べているという。つまり、ローマ帝国の本土であるイタリアは、火山と地震の多い国だったので、彼の考えには火山や地震に関連するものが多くあり、彼は,島の成因については2つに分けて、大陸の海岸近くにある島は地震によって大陸から分離したもので、大陸から離れたところの島は地下から火山によってもちあげられてできたと考えたそうだ。そして、大陸も火山の力によってもちあげられたところと考え、火山活動は地下にたまったガスが噴き出したものと述べているという。
日本など正に大陸の海岸近くにある島であり、地震によって大陸から分離したものであろう。日本は地震多発地帯にあり、また、その地層の特徴から山なども非常に崩れやすいと聞いている。東海大地震が来るとと言って東海地震ばかり研究していたが、東海地震が発生するまで各地に大地震が発生している。今後、他にも大地震が発生するだろう。
リットンの名作「ポンペイ最後の日」の本を私は読んではいないが、本では、活気あふれるポンペイの町で、当時の新興宗教であったキリスト教の伝道師がヴェスヴィオ山の噴火の危機を説くが人々は伝道師をからかい、石を投げつけて追い返す・・・このようなプロローグから物語が始まるらしい。
昨今、世界で、又、日本で起こっている地震や津波、そして、異常気象を見ていると、「地球の滅亡」「人類滅亡」の予言のような感じさえする。刻々とそんな近づいているのかと・・・。しかし、地球温暖化問題への対処すら、夫々の国のエゴによって遅々として進まない。1970(昭和45)年の小松左京の小説『日本沈没』は、地震で沈み行く日本列島をあとに日本人が船で脱出するシーンで終わる。「ポンペイ最後の日」では、最後に、主人公のグロウカスはアイオンや他の人々とともに白帆をはった小舟でポンペイを脱出するが、ギリシアかローマへ行くのであろう。『日本沈没』では日本を脱出した日本人は世界各国に散らばり、同化していくことになる。これは正に、「日本最後の日」とも言うべき小説であるが、2006年の今年、そのリメーク版が封切られた。今、アメリカ・ソ連などは、宇宙の開発競争をしている。「地球最後の日」には、一握りの人々だけが地球を脱出し火星かどこかに移住するのであろうか?
因みに、ヴェスヴィオ火山には、1880年に、山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)が開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)がナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」である。
ヴェスヴィオ火山は、以降も頻繁に噴火を繰り返しているようである。1880(明治13)年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)が開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)がナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」である。最近の噴火は1944年のもので、サン・セバスティアーノ村を埋没させたという。又、この登山電車は1944年のこのときの噴火で破壊されたという。ナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」の歌詞の内容は、男性が登山鉄道に乗りつつ意中の女性に告白するかどうか悩んでおり、なかなか決断できないでいる、というものであるが、日本語版ではもともとの歌詞を完全に無視した、子供向けの歌詞で有名である。
二木紘三のMIDI歌声喫茶・「 フニクリ・フニクラ』→ここ
(画像は、旧ポンペイ市から見たヴェスヴィオ火山。79年に大噴火した。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
ポンペイ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4
古代ローマ・幻の都市ポンペイはなぜ19時間で消えたのか(TBS/2004年9月20日放送スペシャル番組)
http://www.tbs.co.jp/bansen/pompei/
偕成社版少年少女世界の名作/ポンペイ最後の日
ブルーワー=リットン・原作/柴田錬三郎・訳
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/7827/pompei.htm
気象庁 | 三宅島
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/320_Miyakejima/320_index.html
阪神大震災 阪神大震災の教訓 阪神大震災の写真 災害画像
http://www.bo-sai.co.jp/sub6.html
岐阜海紀行/岐阜新聞1月13日付朝刊
http://www.jic-gifu.or.jp/np/newspaper/kikaku/umi/umi9.htm
帰雲城と内ヶ島氏の謎 - 白川村 - 戦国時代の白川郷の覇者「内ヶ島氏」、埋没した城についての検証。
http://www5.ocn.ne.jp/~tenpoint/
古代の自然科学
http://www.dino.or.jp/shiba/geohist/geohist01.html
世界遺産 無限都市ポンペイ
http://www.e-nakamas.com/fukui/pompei.htm
ポンペイ最後の日(1960) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10325/index.html
歌詞と解説 『世界の民謡・童謡』 MIDI
http://www.worldfolksong.com/songbook/others/funiculi.htm
二木紘三のMIDI歌声喫茶・「 フニクリ・フニクラ」
http://www.duarbo.jp/versoj/v-gaikokuminyo/funiculi-funicula.htm

地蔵盆

2006-08-23 | 行事
8月23日、24日は、「地蔵盆」
地蔵盆は、地蔵の法会つまり、地蔵菩薩縁日、(旧暦7月24日)に行う会式であった。
地蔵盆の提灯元は地蔵会、地蔵祭と呼ばれたが、8月24日が裏盆にあたることから、盂蘭盆にちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったと言われている。地蔵祭では、地蔵のある町内の人々はこの日にかけて地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、化粧をするなどして飾り付けて、地蔵の前に集って灯籠を立てたりお供え物をしたりして祀る。 地蔵盆の前後には、地蔵の据えられる家や祠の周囲などに、地蔵盆独特の提灯が多く飾られる。
この地蔵盆は、京都で洛外の六ヶ所にある地蔵菩薩(六地蔵)の縁日(旧暦7月24日)に行う会式が始まりである。(京の地蔵のことについては以下参考の「京の六地蔵とは」を見るとよく分かる。)その行事が広がったのであろう、近畿地方では古くから盛んな子供中心の行事として、地蔵に供物・灯明を供え、仏名を唱えたりする。
地蔵盆のお地蔵さんは、子どもの守り仏として古くから信仰されていたが、元は仏教に属する地蔵菩薩であった。
「地蔵菩薩本願経」に釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が出現されるまで、この世には仏がおられないので、仏に替わって衆生を済度されると説かれている。一切智成如来という仏であるが親しみやすい僧形である。地蔵菩薩(Skt:Ksiti - garbha)は、仏教の信仰対象である菩薩の1人で、kuksi(大地)と、garbha(胎内、子宮)の合成語で、意訳して「地蔵」と言う。
人間界のみにあらず地獄・飢餓・修羅・畜生・天といった六道すべてにおもむき、人々を救済したという。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされている。
地獄の王とも言われる閻魔大王は、「地蔵菩薩」の化身であるという話があり、また、地獄の十王(閻魔大王を含む、十人の裁判官)を統率しているのが地蔵菩薩であるともいう。地獄の思想と地蔵菩薩とは本来全く関係のないものであり、両者には何のつながりがないが、このようなことが結びつけられるようになったのは先にも述べたように、地蔵は「大地」を司る存在でもあり、そこから、地の底にある地獄を統率するのもまた地蔵であるという信仰が生まれ、そして、地獄での救い手を差し伸べるのも又地蔵だとされたのであろう。
京都・洛外の六地蔵の六体という数は、六道から来ている。平安時代、命は六道を輪廻・転生するという思想が広まると、人界だけではなく、六道全てにおいて救済してくれる存在として、六地蔵信仰が盛んになった。これらの地蔵にはそれぞれ名前がついている。文献によって相違があるようだが、『覚禅鈔』の例を出せば、先の六道の順番で、大定智悲・大徳清浄・大光明・清浄無垢・大清浄・大堅固の各地蔵である。これらは、持ち物などで姿からも区別される。(以下参考の「江戸六地蔵」を参照されたい)。
観音菩薩は多くの現世利益を目的としているのに対して、地蔵菩薩も同じ現世利益をといてはいるが、さらに過去に死去した人の罪障を救済し、解脱へと導く菩薩として信仰されている。地蔵は、地獄における死者の救済者として、死後のことは地蔵様におまかせする、俺たちは生きねばならぬ、困苦欠乏した苛烈な生活の中にありながら、人生を楽しまんとする当時の庶民の生活の知恵であったのであろう。
京都・洛外の六ヶ所の6地蔵は、いずれも墓地の近くにあるがそれは、六道に旅立つ死者を守るためであろう。地蔵信仰は奈良時代に日本伝わり、平安時代以降に阿弥陀信仰と結びつき、現世利益を追求する民衆の欲求に応える形で、地蔵は現世から冥界に行く者を救済する存在として知られるようになり、これが京都を中心として全国的に広がったようだ。
地蔵と地獄に関する話としては、「賽の河原 」が有名である。賽の河原 は、冥土に至る途中にあると信じられている三途の河原で、親に先立って死んだ小児がこの河原で父母供養のために小石を積んで塔を作ろうとするが、石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現れて小児を救うという仏教説話がある。
この「賽の河原」 は、どこから来たかというと、京都西院(斎院)の河原かららしい。
四条西大路の北東角(京都市右京区西院高山寺町18番地)にある「高山寺」、寺号は日照山。本尊は地蔵菩薩。通称名:西院の河原 と言 われている。今ある寺院の多くは豊臣・徳川時代 に再現された物が多いという。 山門を潜ると先ず3メートル近い巨大な地蔵菩薩石像が目に入る。足利義政の妻日野富子はこの地蔵菩薩に子宝を祈願し、義尚を生んだ。その後、先に養子となっていた義視との間の将軍争いが応仁の乱にまで発展した為、この地蔵尊がその原因を作り、平安京を焼け野原にしてしまったといわれている。西院の河原、すなわち賽の河原で、子どもたちの霊が「ひとつ積んでは親のため…・」と河原の石を積んでいると、鬼がやってきてせっかく積んだ石を崩してしまう。すると高山寺のお地蔵様が現れ、子ども達を救ったという伝説から子ども守護の信仰が生まれたという。加茂川と桂川の合流するこのあたりの河原を、昔は、道祖(さい:佐比とも書く)大路・左比の河原と呼び、 淳和天皇が現在の阪急電車西院駅辺りに離宮を造営し、皇居から見 て西に当たるため「西院」と呼ばれた。 このようなことから西院は、「さいいん」とも読むが、「さい」とも読む(京福電鉄の西院駅は「さいえき」)。天皇が亡くなった後に離宮が焼失し、天神川の度重なる氾濫で一帯は荒廃して広い河原となった。この西院(さい)の河原には多くの捨て子が置き去られたり、子供の屍骸が捨てられたりで、悲惨な様子だったようだ。空也上人が憐れんで、石の地蔵菩薩像を刻み供養したという。空也上人が都を巡化された承平・天慶・天暦の頃(931-957)は、関東に平将門の乱が起こ り、南海に藤原純友らの海賊が横行していた乱世である。各地に戦いが起こり、群盗が横行し、 都大路でさえも夜半は盗賊の群れに占領されているという有様だったから、下層の庶民は子供の葬式どころではなく死ねば河原に捨てられたのであろう。
「帰命頂礼地蔵尊、これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽の河原の物語、聞くにつけても哀れなり」という実に哀れな文句で、始まる『西院河原(賽の河原)地蔵和讃』
「地蔵和讃」にはいろいろあり、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも多少歌詞が違っているようである。
8世紀の空也上人作と伝えられるが、実際には地蔵菩薩の信仰が普及した室町時代以降に空也上人に託して色々作られたものだろうと考える。、もともとの句には、むごいと思われる語句も含まれており、後世にそのむごい箇所を削除して書き換えて、広くうたい継がれている。ただ、この「西院の河原」が「西の河原」になり、いつしか「賽の河原」になったと伝えられている。この「地 蔵 和 讃」については、以下参考の「和上巡礼-38/地 蔵 和 讃」の説明がよく理解できる。
地蔵はよく子供と結びつけられるが、これは賽の河原地蔵和讃において、地蔵菩薩が幼くして死んだ子供を守る仏として描かれていることによるものと思われる。
特に昔は、子どもの死亡率の高さ故に、先のような話からだんだんと子どもを救う守護神として定着し、各地の原始的な精霊信仰とも習合されながら道祖神と同じように村を守る役割も果たすようになり、それぞれ地域の道端にも石地蔵が見られるようになったのである。
地蔵盆は全国的に行われている風習であるが、滋賀、京都、大阪など関西地方において特に盛んである。この地蔵盆が、関東に定着しなかったのは、地蔵信仰の歴史のちがいによるもので、京都では室町時代に地蔵盆が大流行したが、東京では江戸時代になって、やっとお地蔵さんが作られたからだろう。
地蔵盆は、京都では、地蔵菩薩の縁日である24日に向け、その前日(23日)の宵縁日と2日間行われているが、私の地元神戸でも同じく8月23日、24日の両日に行われている。このように、地蔵盆は基本的に8月23日24日の2日間行われるが、現代では、多少日程をずらして土日に行うところも増えているようであり、又、 近年、子どもが少なくなり2日を1日だけに短縮しておこなわれているところもあるようだ。
地蔵盆の主役は、あくまで子どもたちである。京都では、各町内ごと地蔵尊の前に屋台を組んで花や餅などの供物をそなえ、お菓子を食べながらゲームなどの遊び、福引きなどが行われる。また数珠繰りや数珠回し、といって玉が大きくて長い数珠を子供達みんなで回す儀式をする。大阪では地蔵盆には地車がでたり、神戸の中でも、歴史の古い長田区は、地蔵盆が盛んに行われている地いきの一つであり、宵縁日の8月23日を中心にお地蔵さんの掃除やお化粧をし、おそなえ物をして、お地蔵さんのまわりを提灯でかざり、線香を持ってお参りにきた子どもたちには町内の人からお菓子が配られる。これをお接待と言う。
お地蔵さんは、大概狭い路地裏にあった。何時もひっそりとあるお地蔵さんも、この日だけは飾り付けをし提灯の灯りで照らされて賑やかであった。私の小さい頃、家の近所の子供たちと線香を沢山持って、自分の住んでる町内だけでなく、相当遠くの方まで暗い路地を提灯の灯りをめざして歩いていった。子供のことであるからお参りすることよりも、お菓子をもらえるのが楽しみで行っていたのである。袋にお菓子を一杯つめてクタクタになって家へ帰ってきた。丁度、そのころは、戦後の食べ物のない貧しい時期だった。今の豊かな時代の子どもたちはどうしているんだろう?
しかし、このお地蔵さん、神戸地方ではあの阪神淡路大震災で多くが崩壊してしまった。そういえば、「長田区など被害の大きかったところでは、区画整理で、お地蔵さんを設置していた私道であった路地などが、区画整理事業完了後はすべて公道となり、市側が「宗教上の対象として公道に再び設置するのは難しく、障害物にもなる」と、存続を希望する住民の意見に難色を示している」といった報道を耳にしたことがある。震災後、月日が経った今、それらのお地蔵さんがどうなっているのか・・何処へ移設されているのだろうか・・・と心配をしていたのだが、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」をみてわかった。神戸市須磨区須磨寺町にある須磨寺の正覚院の前に引き取られているのである。
須磨寺正覚院/引き取られたお地蔵さん ↓
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html#<須磨寺正覚院>
あの阪神大震災も被害はこんなところにも及んでいたのである。他にも多数、被害にあったものがあり、各地で供養されている。一度、以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」を見て貰いたい。
(画像は、須磨寺正覚院の引き取られたお地蔵さん 。以下参考の「神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント」より)
参考:
京の六地蔵とは
http://shigeru.kommy.com/sikioriorirokujizoumeguri.htm
仏教入門
http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_18.htm
地蔵盆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E7%9B%86
地蔵菩薩の部屋
http://www.geocities.jp/jizo_3/
地蔵菩薩像のお話
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/jizoubosatsu.htm
京都あちらこちら : 六地蔵めぐり 伏見六地蔵
http://piita.exblog.jp/3348308
京の通称寺 039 西院の河原
http://maru4114.blog.ocn.ne.jp/tusyo/2006/01/post_3d3a.html
和上巡礼-38/地 蔵 和 讃
http://homepage2.nifty.com/amida/jyunrei38.html
賽の河原(さいのかわら)の物語/瑞雲院 法話のページ
http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/80sai.htm
賽の河原地蔵和讚
http://kupo.hp.infoseek.co.jp/wasan.html
賽の河原(西院の河原)地蔵和讃
http://www.geisya.or.jp/~oterasan/okyou/sainokawara.htm
十王 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%8E%8B
江戸六地蔵
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizou.htm
日本全国賽の河原めぐり
http://sainokawara.fubuki.info/index.html
斎院 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%BA%D8%B1%A1/detail.html?LINK=1&kind=epedia
京都伝説 西院の河原
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-75.html
空也上人
http://www4.ocn.ne.jp/~mibu/mibu/kuya.html
長田区地蔵盆
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kb/kb03/kb03025.htm
神戸市須磨区の阪神大震災モニュメント
http://www1.plala.or.jp/monument/m-suma.html
[PDF] 岩上力先生連続講演ノート 第 4 回
http://www.higashiyama.ed.jp/info/pdf/iwagami050820.pdf

「藤村忌」詩人・小説家・島崎藤村の忌日

2006-08-22 | 人物
今日(8月22日)は「藤村忌」詩人・小説家・島崎藤村の1943(昭和18)年の忌日。
島崎 藤村(本名は春樹)、は、1872(明治5)年3月25日長野県木曽郡山口村神坂馬の生まれ。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる旧家であった。
父の正樹はその17代当主だった。藤村の代表的な小説『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルとし、藤村に与えた文学的な影響は多大であったと言われている。
明治女学院や東北学院で教鞭を取る。文学活動は明治学院を卒業後から活発となり、詩や小説、評論などを『文学界』に発表。そして、1897(明治30)年、最初の詩集である『若菜集』を発表して文壇に華々しく登場、同じく1901(明治34)年の『落梅集』によってその名声は決定的なものとなり、明治浪漫主義の開花の先端となった。その後、島崎藤村はロマンティシズムを離れ散文の世界へ、つまり詩人から小説家へと転身をはかり、1906(明治39)年、被差別出身の主人公、瀬川丑松(うしまつ)の苦悩と告白をえがいた問題作『破戒』を発表し小説家としての地位をも確立し、1936(昭和11)年には大作『夜明け前』を生むこととなる。小説としては上記の2作のほか自伝的な小説、1908年(明治41)年の『春』、1910~11(明治43~44)『家』(上巻)(下巻)、1918~19(大正7~8)年『新生』などがある。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子(ヤシ)の実ひとつ
  故郷(フルサト)の岸を離れて 汝(ナレ)はそも 波に幾月」
唱歌として有名な「椰子の実」は、『落梅集』に記載された詩に山田耕筰門下の大中寅二(作曲家、オルガニスト)がメロディをつけたもので、柳田國男の「海上の道」に、この詩ができた由来が書かれていることでも有名であるが、柳田が海岸で椰子の実を拾ったエピソードを聞き、自身が姪との不倫の末にフランスに渡った時の寂しい生活の思い出とを重ね合わせて書いたものだそうである。
この藤村の「椰子の実」の詩碑は、渥美半島の先端である伊良湖岬から少し離れた日出ノ石門近くにある。柳田が藤村の椰子の実とかかわるエピソードなどは以下参考の「島崎藤村詩碑(「椰子の実」)」を見られると良い。
椰子の実の歌詞と曲は以下で↓
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/yashino_mi.htm
又、藤村の歌となった作品としては、ほかに「千曲川旅情の歌」もよく知られている。「千曲川旅情の歌」は、『落梅集』集冒頭に収められた「小諸なる古城のほとり」、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。
小諸なる古城のほとり (千曲川旅情のうた)の歌詞と曲は以下でどうぞ↓
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/komoronaru_kojyouno_hotori.htm
藤村の詩は文語詩であり、現在の歌謡曲の歌詞や、前衛的な詩と並べてみれば、古い感じがするかもしれないが、この詩の浪漫は、朗読してこそ伝わってくる。五七調のリズム、文語の響きが、なんと日本語に調和しているかを実感できると思う。是非一度声に出して、詩を朗読してみてほしいものだ。
藤村の代表的な小説『夜明け前』は誰もが一度は呼んだことがあると思うが、結構、難しい小説である。かなりの長編で、第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているが、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を細部に扱った長編歴史小説とでもいえるものである。
この物語の主人公は青山半蔵であり、父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父をモデルにしていることは冒頭に述べた。主人公の半蔵も「世直し」の理想を持つが、そんな彼の改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく・・・。この大作「夜明け前」を1929(昭和4)年~1935(昭和10)年にかけて完成させ、さらに1943(昭和18)年から中央公論に「東方の門」序の章から第二章までの連載をはじめるが、第三章執筆半ばの1943(昭和18)年8月21日、脳溢血のため倒れ「涼しい風だね」の言葉を最後に昏睡状態に陥り、翌22日71歳の生涯を閉じた。
木曾の旧家に生まれた藤村であったが、生家が衰えたため彼は早く親元を離れて苦労を重ね鬱屈した曖昧ともとれる慎重な青年に育った。父の正樹は国学に心酔して文明開化を批判し、過激な言動の末に座敷牢で狂死した。
藤村は『夜明け前』で、父の生涯を描きながらも、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視していたという。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめたのがこの小説だという。
一体幕末維新が目指していたものは何だったのだろうか?その方向は正しかったのか?、世の中に広まっていった「御一新」の現実は半蔵が考えていたようなものではなかった。それはたんなる西洋化にしかみえなかった。維新では王政復古を目指していたのではなかったのか?小説の主人公半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕するようになるが・・・・そういった半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であった。
藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。彼の家の血筋のことを言っている。父親と長姉が狂死した事。 すぐ上の友樹という兄が母親の過ちによって生を受けた不幸の人間であった事などが藤村の心をふさいだ。明治学院卒業後、終生慕った北村透谷と出会い「文学界」創刊に参加するが、自分にも不可解な恋の衝動が走った(姪とのあやまちについては『新生』に表されている。この姪との不倫事件を起こした時に、次兄の口から実は父にも同じ過ちが在った事を知る。 )ことから、かれは家族や恩人との絆をすてて漂白の旅に出た。最初は青春時代の関西放浪、そして、姪との不倫後のパリへの渡航。詩人としてそして、作家としての全ての名声を擲(なげう)っての日本脱出である。
そして、藤村は このような放浪の中から自分の生きざまを通して、「黒船」においつめられた父の生涯と、それを見つめなおす結果をもたらした。藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていったというのである。私も学生時代にこの本は読んだが、今一度読み返してみたいと思う。
藤村の『夜明け前』はインターネット書籍の青空文庫でも読めるが、本を読む前に、以下参考の「松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村」に目を通してから詠まれることをお勧めする。非常に判りやすく解説しているので、本を読む前の予備知識として最高だろう。
私の過去のブログに出てくる島崎藤村→今日は(10月30日)は「初恋の日」も時間があったら覗いてね。作詞:島崎藤村・作曲:若松甲唄:舟木一夫の「初恋 」も登場しているよ。
『夜明け前』他、島崎 藤村の作品は 以下参考の青空文庫で読める。
(画像は、島崎藤村。苦行僧のようなイメージの作家は、うちに激情の血筋を秘めていた。1934年8月。週刊20世紀・朝日クロニクル。より)
参考:
島崎藤村ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91
青空文庫・作家別作品リスト:No.158・島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html#sakuhin_list_1
島崎藤村・角川文庫「島崎藤村詩集」より
http://www.nextftp.com/y_misa/touson/touson.html
島崎藤村詩碑(「椰子の実」)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nyori/yanagita/takaaki/yasi.html
松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0196.html
島崎藤村――近代の風
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/touson.html
藤村記念館
http://www.cnet-kiso.ne.jp/t/toson/