今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

硫黄島の戦いが集結した日

2007-03-26 | 歴史
今日(3月26日)は、硫黄島の戦いが集結した日
硫黄島の戦いは、1945(昭和20)年の太平洋戦争(大東亜戦争)末期に小笠原諸島硫黄島において日本軍とアメリカ軍の間に生じた戦闘である。
硫黄島は、東京から南へ約1,250km、父島から南へ約280kmに位置(北緯24度47分、東経141度19分)、グアムの北1,130キロに位置する、硫黄列島中最大の、東京都小笠原村に属する東西8km、南北4kmの島(火山島)である。一番標高の高い地点は摺鉢山(169m)。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。
1941(昭和16)年、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって開戦した太平洋戦争は、開戦以降、日本軍が快進撃を続けていたが、その戦いの転機となったのがミッドウェー海戦での敗北ある。この戦いの敗北の結果、国力に劣る日本は守勢に追い込まれていった。以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦では勝利を手にするものの、ニューギニアマキンタラワ島をめぐる戦いで敗北を喫するなど、1年を経たずに日本の戦局は徐々に悪化した。開戦後2年が経った1943(昭和18)年後半からアメリカ軍は中部太平洋での攻勢を本格化させ、1944(昭和19)年2月には、アメリカ軍はトラックを空襲すると共にマーシャル諸島へ侵攻しこれを占領。そして、アメリカによる占領後のサイパン島、グアム島、テニアン島はアメリカによる日本本土に対する戦略爆撃の基地として利用され、日本列島の本州への直接の空襲が可能になった。
この絶対国防圏の要ともいうべきサイパン島を失ったことはこの後の日本の敗戦を決定的にしたといっていいだろう。
大本営カロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官に栗林忠道中将が就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。
1944(昭和19)年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略して後、11月以降、B-29 による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし、しばしば日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。そこで、アメリカ統合作戦本部は、日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地の撃滅、硫黄島レーダー監視所による早期警報システムの破壊、硫黄島を避ける為の爆撃機の航法上のロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地として、硫黄島の占領を決定した。
栗林中将は当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は硫黄島へ進攻すると判断、無防備に等しかった硫黄島へ直ちに司令部および第109師団を移動させた。制空権と制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。しかし栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をした。そして、防御計画の第一歩として民間人の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設された。
1945(昭和20)年2月19日、アメリカ海兵隊の上陸が開始された。それから、1カ月以上もの米軍と激しい熾烈な戦いが繰り広げられ、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死。アメリカ側には、日本軍の損害を上回る戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を与えたという。
太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島の戦いで、摺鉢山に星条旗を立てた米兵らを追ったAP通信の写真家ジョー・ローゼンタールの写真(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")が同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞した。そして、その写真に写された海兵隊員たちのドラマを描いたジェイムズ・ブラッドリーの”Flags of Our Fathers”を原作とした作品が映画化された。
アメリカ映画『父親たちの星条旗』(Flags of Our Fathers)である。監督はアカデミー監督賞を二度受賞したクリント・イーストウッド。製作にはスティーヴン・スピルバーグ率いるドリームワークスも参加している。
これは、太平洋戦争の激戦地となった硫黄島の戦いを61年が経過した今、改めて、日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」のアメリカ側視点の作品である。この映画は2006(平成18)年10月公開された。私は、映画を見ていないが、この作品は、戦場(摺鉢山の山頂)に星条旗を打ち立てる米軍の兵士を写した1枚の写真は、アメリカにとって勝利のシンボルとも言えるものであるが、この1枚の写真によって英雄に祭り上げられた若きアメリカ兵のその後の人生?を追ったものと言う事である。
また、同年の12月より「硫黄島プロジェクト」の日本側視点から描いた作品『硫黄島からの手紙』が連続公開された。監督やスタッフは『父親たちの星条旗』と同じくクリント・イーストウッドらがそのまま手掛けた。映画は、5日で落ちるとされた硫黄島戦を圧倒的な兵力のアメリカ軍を相手に36日間もの死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による日本軍将兵と、祖国に残された家族らの想いが描かれ、ストーリーはタイトルとなっている栗林中将や西郷が家族へと向けた手紙を基に展開されるた。『父親たちの星条旗』と共に第79回アカデミー賞の対象作となり、作品賞・監督賞・脚本賞・音響編集賞の4部門にノミネートされ、音響編集賞を受賞した。
ブログの文字数制限から続き以下のページに書きました。

続・硫黄島の戦いが集結した日

続・硫黄島の戦いが集結した日

2007-03-26 | 歴史
続・硫黄島の戦いが集結した日
戦争写真には、勝者と敗者がつきものである。勝利を謳歌するために演出してまことしやかに見せたり、惨劇の跡のような都合の悪い部分を覆い隠したものなど、写真の真実性を利用する場合が多い。有名な米ソ両軍兵士がドイツ戦線で握手する「エルベの誓い」(1945年)も、ドイツを東西から攻めて、はじめて会合した米ソの兵士が、エルベ川の橋で握手を交わす有名な「エルベの誓い」(1945年)は、実際の会合の翌日に撮ったものと言われており、当初は、再び戦火を交えないという説明がつけられていたという。また、多大な損害を出して奪取した硫黄島の摺鉢山に、アメリカの海兵隊員が星条旗を掲げる1枚の写真「硫黄島の星条旗」も同様に演出写真であり、カメラマンは、下山しかけた海兵隊員を呼び戻し、ポーズをつけて取り直したものと言われている。歴史的に見るとマスメディアは、このような戦争写真を肥やしとして、部数や視聴者数を伸ばしてきたといえ、日本では、日露戦争の戦場を取材した戦記物が飛ぶように売れたし、アメリカのグラフ誌「ライフ」にも戦争写真が多かったという。これは、先のイラク戦争において、首都バグダッドを制圧した時、フィルドス広場に群がった市民がサダム・フセイン大統領の像を引きずり倒し、歓声を上げている映像が、TV等マスメディアによって全世界に流されたが、これも同じ事である。今は、マスメディアの発達でその影響力は昔より断然大きくなっているが、マスメディアには、時としてそのような演出があることは、肝に銘じておかなければいけないだろう。以下では、【沖縄戦】における星条旗を立てる米軍の写真や【エルベの誓い】では、 米ソ両軍兵士の交歓、握手、記念撮影などの状況などが動画で見れるよ。↓
歴史記録映像-昭和20年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho6/p-s46/IPA-rek610.htm

(画像は『硫黄島の星条旗』ジェイムズ ブラッドリー 著。文春文庫)
硫黄島の戦い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
小笠原村|概要|硫黄島
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/outline/iou/index.html
硫黄島探訪
http://www.iwojima.jp/index.html
ベルリンの戦い - フレッシュアイ ウィキペディア
http://wkp.fresheye.com/wikipedia/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ライフ (雑誌) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【イラク戦争について(1)】(1)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00484/contents/144.htm
日本財団図書館(電子図書館) 私はこう考える【イラク戦争について(2)】(2)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00484/contents/145.htm
歴史記録映像-昭和20年中期頃
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/p-rek1/p-sho6/p-s46/IPA-rek610.htm
イラク戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89
硫黄島の星条旗(文庫本読書倶楽部)
http://www.j-cave.com/bunko/bk93.html
硫黄島戦史
http://www.iwo-jima.org/sensi/index.html
栗林忠道と硫黄島36日間の死闘
http://www.heiando.co.jp/kuribayashi/index.htm
栗林忠道と硫黄島の戦い(上)
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=390
栗林忠道と硫黄島の戦い(下)
<http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=393 JOG(191) 栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog191.html
父親たちの星条旗 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9375/index.html
硫黄島からの手紙 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9694/index.html
硫黄島の星条旗(文庫本読書倶楽部)
http://www.j-cave.com/bunko/bk93.html

東洋のマタハリと言われた男装スパイ・川島芳子こと金璧輝が北京で銃殺刑

2007-03-25 | 歴史
1948年の今日(3月25日)、 中国の国民党政府軍に逮捕されていた東洋のマタハリと言われた男装スパイ川島芳子こと金璧輝に対し北京で銃殺刑が執行された。(41歳)
川島 芳子は清朝最後の王族・粛(しゅく)親王の第14王女として1907年5月24日北京に生まれた。本名、姓は愛新覚羅(あいしんかくら)名は顕シ(けんし。シの字は、王ヘンに子)、字東珍、父の粛親王は、清の太祖努爾哈齊(ヌルハチ)から数えて10代目の子孫である。
別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられたという。辛亥革命後、5歳の時に、父粛親王と交わりのあった中国語の堪能な満州浪人川島浪速の養女となり日本で少女時代を過ごし東京の豊島師範付属小学校を卒業、跡見女学校に進んだ後、川島は東京から長野県松本への転居にともない長野県松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に転校した。芳子は、生来性格は奔放であったようだが、堅実な家庭生活をうけることなく育ったせいか常識に欠けるところがあったという。1922(大正11)年に実父粛親王が死去し、葬儀のために長期休学したが、復学が認められず松本高女を中退している。17歳で自殺未遂事件を起こし断髪、男装となる。ただ、男装の動機については諸説あって真相は分からないらしい。
清朝復興を夢見、日本軍の特務機関員らと、上海事変満州国建国に関与したとされる。川島 芳子が、日本軍に関係するようになったのは、満州事変前年1930(昭和5)年に上海の公使館付武官補佐官の田中隆吉少佐と出合ったのがきっかけと言われている。1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から2ヵ月後に、日本軍は後の満州国皇帝にまつりあげた宣統帝(せんとうてい=中国、清朝最後の皇帝)溥儀を天津から旅順に脱出させたが、川島芳子は関東軍板垣征四郎参謀長の依頼を受け、残された溥儀の皇后婉容を天津から満州に連れ帰るなどした。1932(昭和7)年、溥儀を執政とする満洲国が成立すると、川島芳子は新京で満洲国女官長に任命されたが、実際には就任していないという。
1933(昭和8)年、松村梢風が芳子をモデルにした小説『男装の麗人』を発表すると、一躍時代の寵児となった。ある時は背広姿、時には羽織袴、戦時下には特注の軍服を着て大陸と日本を往復した勇士が「東洋のジャンヌ・ダルク」ともてはやされ、舞台や映画にもなった。また、芳子が歌う「十五夜の娘」、「蒙古の唄」などのレコードも発売されている。
ところが、戦後、日本の軍服を着て司令の肩書きをっもっていた彼女は、漢奸(かんかん=売国奴)として国民政府に逮捕されるにいたって、英雄ジャンヌ・ダルクは妖艶な女スパイ、マタ・ハリに堕ちた。
1947(昭和22)年日本では東京裁判で、日本の戦犯裁判に耳目が集まるなか、中国高等法院でも、北平(北京)第一監獄では、日中戦下で「女間諜X14号」として情報活動をしたとした川島芳子の戦犯公判がスピード結審、死刑判決を受けていた。
「スパイ?裁く中国法廷」の見出しで、死刑判決と獄中生活を報じたアサヒニュース(12月13日付)は、「粛親王の遺児金璧輝は、はたして喧伝されているような革命児であり、國際間諜としてらつ腕を振るった人物であろうか。それとも家門の名ゆえに、その背景を利用しようとする日本軍部の手先に踊らされた一人のドンキホーテに過ぎないのか。高等法院では有罪と断じ極刑を課したが、再審請求によって、さらに公判が続行されればベールに覆われた男装の麗人の正体も一そう明確にされるであろう」という。しかし、2度の再審請求は却下され、1948(昭和23)年3月25日早朝、監獄の片隅で死刑は執行された(アサヒクロニクル「週間20世紀」)。
彼女は、川島浪速の養女となるが、養父川島が芳子の帰化手続きを行っていなかったため日本人とは認められず、日本国籍でないが故に漢奸罪が適用されてしまったともいう。もっとも、当時の中国は血統主義であり、父親が中国人であれば日本国籍の有無にかかわらず中国人とみなされ、漢奸罪が適用されたものと解することもできるそうだが・・。同様に漢奸の嫌疑で裁判にかけられた李香蘭こと山口淑子は日本人と認められ釈放されている。
奇行も多い彼女だが、芳子は満洲国が清朝の復辟(ふくへき。「辟」は君主の意。退位した君主が再び位につくこと。)ではなく日本の傀儡国家に過ぎないことが明らかになると、日本軍の満洲での振る舞いなどを批判するようになり、軍部からは危険人物として監視されるようになっていたという。遺骨は松本市の正鱗寺にある川島家の墓に葬られた。
しかし、彼女の処刑後、中国紙が替え玉説を報道し、日本でも生存のうわさが流れ、事態を重視したGHQが調査を行ったが真相を究明することはできなかったという。これも彼女ならではの後日談であろう。
辞世の句
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
この句は銃殺執行後の獄衣のポケットに残されていた川島芳子の辞世の句であるという。「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず」という前半の二句は芳子が生前好んで揮毫(きごう。〔ふでを揮(ふる)う意〕文字や書画を書くこと)していた句であるそうで、彼女の孤独な心情を表している。いずれにしても、彼女も、戦争に翻弄された哀れな清朝のプリンセスであったことには間違いないようだ。
(画像は男装の麗人「東洋のlマタハリと呼ばれた男装のスパイ川島芳子。写真の撮影年場所など不明とのこと。アサヒクロニクル「週間20世紀}より)
川島芳子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E8%8A%B3%E5%AD%90
川島浪速
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/taisho/jikoh/knaniwa.htm
村松梢風 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E6%9D%BE%E6%A2%A2%E9%A2%A8
誰か昭和を想わざる 男装の麗人
http://www.geocities.jp/showahistory/history2/08c.html
松岡正剛の千夜千冊『乱の王女』生島治郎
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0304.html



マネキン記念日

2007-03-24 | 記念日
今日(3月24日)は、「マネキン記念日」
1928(昭和3)年の今日、上野公園で開かれた大礼記念国産振興東京博覧会で高島屋呉服店が日本初のマネキンを登場させた。
「マネキン」というと、一つは、デパートなどで衣服展示などに使われる等身大の人形をさすマネキン人形を略していう。マネキン人形は、ヨーロッパで始まったもので、マヌカン人形ともいわれているが、「マネキン」はフランス語の「mannequin」が語源とされている。この語は、もともと中世のオランダ語で「人間」を意味するmanの愛称形であるmannekijnに由来するものと言われている。もう一つは、この「マネキン人形」を意味する以外に、現代では、商品である衣服を着用したり、また、衣服などの販売などに従事する人をも意味する「マネキンガール」のことを言っている。
「マヌカン」が「客を招かん」「招金」に通じるということで、フランス語の「マヌカン」ではなく英語の「マネキン」という言葉を使ったとも言われているが・・・その真実はよくわからない。
しかしこれらの呼び方は、あくまでも業界用語であり、一般にこの用語を使うと差別的表現、意思のある人間に使うべき言葉ではないとの批判的意見もある。今では、毎年様々なファッションが、ファッションデザイナーによって生み出されており、ファッションの流行を紹介するファッションショーが世界各地で行われている。その時のファッション・モデルも昔はハウスマヌカンと呼んでいたのかな??
1928(昭和3)年と言う時代は、日本において、三越、大丸、白木屋がいっせいに呉服店からデパートに衣替え、それと相前後して、商戦も本格化した時である。このことは前の私のブログ「ファッションショーの日 」で、採りあげたのであるが、その中心になったのは、三越で、1927(昭和2)年4月、大増築を行って、牛肉、豚肉、石炭など日用品を扱い始めた。今までのように贅沢さを売り物にするだけでは、発展は望めないという思いの表れだったが、それに対抗して白木屋は無料送迎バスを導入、まだ珍しかった車の魅力で集客を図った。そんな中で、三越が、1927(昭和2)年9月に、日本で初めてのファッションショーを開いて、その言葉を定着させると、高島屋では、1928(昭和3)年3月の今日(3月24日)、御大礼記念博覧会に日本初のマネキンガール(このときの新聞などには「マニキンガール」と記載して入る)を登場させて話題になった。この時のマネキンは人形のマネキンではなく、着物姿の美しい女性をガラス越しに見えるサロン風セットのソファにポーズを決めて座らせたもので、生きた飾り人形といったもの。この年、ショーウインドーやデパートの陳列台の上に立って、流行の衣装や装身具を身につけ宣伝の一翼をになう、という新しい婦人の職業 「マネキンガール」が流行語にもなり、他のデパートでも次々と採用され、翌年3月には、山野千枝子が東京マネキン倶楽部を結成。現在のファッションモデルのように雑誌にも登場するようになり、当事大卒サラリーマンの3倍近い給与が与えられたとはいうが、夏などは、大変だったろうと思うと、以下参考に記載の「【読売新聞9】に見る女のクロニクル90年) を見ると、1929(昭和4)年8月15日付け新聞に、”何が辛い?夏の職業婦人”と言う皮肉なタイトルで「さてもお暑い方々へ、皮肉ならぬお暑さの辛さを伺う」として、・・「妾達(せふたち。妾=めかけ。そばめ。てかけ。女性が自分をへりくだっていう語。わたくし。)の一番辛いこと、それは身づくろひをしていよいよこれからウインドウの中へ這入る時の気持ちです。扇風機や氷柱はあっても九十度百度のむし暑さを想像すると思はず二の足をふみたくなります。・・・「汗は出ても拭ふことすら出来ず、そうした時に若い同性からのさげすんだ批評を窓越しに聞くことはマニキンをやってこそ知る辛さです」とかかれている。さもあろうと思う。
当時まだ、主流だった、着物の柄も、大正時代から昭和初期にかけて大柄で斬新な色使いのモダンなものが流行した。この当時、大阪市営バスの女性車掌の服装となった帽子、ネクタイ、ズボンにブーツというスタイルはモダンだと評判を呼んだ。又、警視庁は1928(昭和3)年11月20日にダンスホール取締令を実施して、出入りのモボ・モガの風俗規制をしているが、モガたち出現の背景には、女性の職場進出などがあった。わが国の初スチュワーデス第1号といえる「エアガール」が採用されたのは1931(昭和6)年のことであった。又、美容や流行のファッションのPRに活躍したマネキンガールが、今のデパートのマネキンガールの様に商品の説明や売り込みをするようになったのは1931(昭和6)年の歳末の売出しからだったという。現在では、このマネキンガールの「販売する」と「見せる」役割が分化され、「見せる」マネキンガールが「ファッションモデル」と呼ばれるようになったと言われている。
時が経ち、1982(昭和57)年 ファッション誌「オリーブ」創刊。 このころDC(デザイナーズキャラクター)ブランドブームとなる。婦人服のブティックで自社製品の販売をする女性を「ハウスマヌカン」と呼んだ。ハウスマヌカン」、これは英語由来の houseと、フランス語由来のmannequinを組み合わせた造語である。この言葉、DC時代のアダ花のように彗星のように現れ、消えていったがこの当事「ハウスマヌカン」は最先端の職業だった。「ハウスマヌカンは、服を売るだけでなく、実際に自分の店で売っている服を着て、来店客に”私もそのような服を着てみたい”という気にさせる必要があった。だから、商品知識があることは当然スタイリストとしてのファッションセンスもすぐれていなくてはならなかった。つまり、マネキンとファッションモデル的なことを備えていなければならなかったのである。販売能力は勿論、店の客の好みをキャッチし、売れる服を仕入れる、という、いわゆるバイヤーとしての仕事もこなしていたのである。1983(昭和58)年ヘアースタイルはストレートパーマが登場、女性の刈上げなど、女性の短いヘアが個性的な女性に人気を呼んだ。
はやりすたりに 命をかけた あさはか女の私でも
あおいうなじは 心意気 ふれてください 後から
夜霧のハウスマヌカン 刈りあげても 剃りあげても
夜霧のハウスマヌカン 又 毛がはえてくる ・・・ ♪
何か聞いたことのある歌でしょう!
「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。
「夜霧のハウスマヌカン」当時の風俗をよく表している。
私も若い頃ファッションと関係のある仕事をしていたので、百貨店の衣料品販売のマネキンや化粧品販売のマネキンのことは、仕事上の関係もあり、良く知っているつもりであるが、店頭で綺麗な女性がニコニコしながら客と応対しているところなどは、とても華やかでよいが、一歩裏へ廻れば、客の取り合いなどで結構色々揉め事があり、場合によっては「ちょっと、裏へいらっしゃい!」などと言った怖い状況になっているのを目にした事もある。女ばかりの社会での女の戦いと言うのは結構すごいものだよ・・・。
(画像は、やや「夜霧のハウスマヌカン」作曲者:棚部陽一 、作詞者:いとうせいこう。たゆねの音楽堂)
参考:
マネキン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%AD%E3%83%B3
七彩マネキン物語
http://www.nanasai.co.jp/story/mokuji.htm
ハウスマヌカン
http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/housemanukan.htm
ファッションショーの日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20060921
What'sMannequin/㈱アカシマネキン紹介所
http://www.akashi-m.co.jp/Mannequin.htm
1928年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1928.html
山野千枝子
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yamano_c.html
時代の特徴・動き 時代の美容 流行ファッション・ヘアスタイル
http://cosmetic-web.jp/nenpyou.html
マネキン - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/dvd/detail/D111088750.html
DCブランド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
[PDF]「読売新聞」に見る女のクロニクル90年。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/data/link/pdf/chronicle_0207.pdf



俳優・天本英世の忌日

2007-03-23 | 人物
今日(年3月23日)は、俳優・天本英世の2003年の忌日
天本英世 (あまもと ひでよ)は、1926(大正15)年1月2日生まれ、福岡県北九州市出身。東京大学法学部政治科中退。国際政治学を専攻し、当初は外交官を目指していたが、侵略戦争推進などを行なう当時の政府の政治姿勢に失望・反発し、文学や演劇に没頭するようになったといわれている。俳優座同人会のち劇団四季などを経てフリーに。初舞台はオペラ「オテロ」。その直後1954年松竹映画 「女の園」、「二十四の瞳」で銀幕にデビュー。以後東宝映画の脇役で活躍。フラメンコをきっかけにしてスペインをこよなく愛するようになり、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩をスペイン語と日本語で朗読したことでも有名。
昔の古い時代の事は知らないが、若い頃から老け役が多かったというが、兎に角、細身の長身であくの強さを見せた個性的な俳優であった。
舞台は見たことないので知らないが、映画では、岡本喜八監督の作品には「暗黒街の対決」(1960)の殺し屋役をはじめ、ブラックコメディの「大誘拐」(1991)など個性を生かした役柄で脇役として多く出演しているが、彼のスペイン趣味はコメディ・アクション「殺人狂時代」(1967)にも垣間見え、クライマックスであるヒットラーに心酔する精神病院の天本演じる院長・溝呂木が同病院内で主演の仲代達矢演じる桔梗信治との決闘シーンは互いの手足を縛りナイフだけで戦うという「イスパニア式決闘」が採用されていて、BGMはフラメンコが採用されていた。
又、1971(昭和46)年のTV・藤岡弘主演の初代「仮面ライダー」で演じた敵役ショッカーの幹部・死神博士は、仮面ライダー全シリーズの悪役の中でも屈指の人気を誇っている。フジテレビ系たけし・逸見の平成教育委員会」にレギュラー解答者として出演し、抜群の正解率と、長い白髪にトレードマークのひとつスカルキャップ(丸編帽)をかぶった風貌で若者にも人気があった。
「将来はスペインに移住したい」と言っていたが叶わず、 2003(平成15)年の今日(3月23日)急性肺炎で北九州市にて77歳で死去。当事の新聞記事によると葬儀は地元のカトリック若松教会で行われた。喪主は姉の久野鈴さん。自宅は公表されていないとのことである。何でも、Wikipediaによると、彼は、家を持たず、空き家になっていたクリーニング店の2階で寝泊りしていたそうで、住居には電話も引いていなかったため、仕事の依頼などは近くの某ファミリーレストランに取り次いでもらっていたそうだ。風貌だけではなく、相当な変わり者でもあったのだろう。
遺灰は2005(平成17)年10月下旬にスペインアンダルシアグアダルキビール川源流近くにまかれたそうだ。著書に7ヶ月にわたるスペイン全土の旅の思い出を綴った「スペイン巡礼」(1980年)などがある。
思えばつい最近までは、彼の様な個性的な独特の味のある俳優が沢山居たが、そのような人たちが次々と居なくなり、最近は、映画舞台でも独特の個性のある味のある俳優が居なくなってしまったな~。かっての、映画や舞台、ドラマなど、このような個性的な名脇役によって、生きていたと思うのだが、最近のTVなど見てもつまらないのは、このような個性のある俳優が居なくなったからだろうね~。いかにも悪役らしい悪役(Category:悪役俳優参照)は居なくなってしまった。個性化の時代だとかなんだとか言われているが、昔の方が余程個性的な特徴のある人が多かったように思う。これも管理社会の影響だろうか、個性化の時代などと口で言っているものの実際には、逆に、非常に個性のない何か均質化した平凡な人が多くなったのは、皮肉な事ではないかな~。
(画像は、天本英世 。2003・03・24朝日新聞掲載分より)
天本英世 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E4%B8%96
劇団四季 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E5%9B%A3%E5%9B%9B%E5%AD%A3
オテロ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%86%E3%83%AD
天本英世 (アマモトヒデヨ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/85749/index.html
女の園(1954) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23953/
岡本喜八 (オカモトキハチ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/88246/
[PDF] フェデリコ・ガルシア・ロルカの作品の日本への移入について
http://texts.at.infoseek.co.jp/journal1/hirai.pdf