今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

リメンバー・チェルノブイリ・デー

2007-04-26 | 記念日
今日(4月26日)は、「リメンバー・チェルノブイリ・デー」
1986(昭和61)年の今日(4月26日)、ウクライナ(旧ソビエト連邦ウクライナ共和国) の首都キエフの北方100キロ余りに位置するチェルノブイリ近郊にあった原子力発電所4号炉で、出力暴走事故が発生した。この炉は、旧ソ連に特有のRBMK-1000と呼ばれる黒鉛減速軽水冷却沸騰水型原子炉である。(世界中で運転されている黒鉛減速炉は危険ではないのか参照)。
急激な出力上昇とそれにともなう爆発により、原子炉およびその建屋が一瞬に破壊された。野外の目撃者によると、花火のような火柱が夜空に立ち上がったという。原子炉構造材である2000トンの黒鉛が燃え始め、以降10日以上に渡って大量の放射能放出をともない火災が続いた。原発の安全性とは、炉心に蓄積されている膨大な量の放射能をいかにうまく閉じ込めておけるかにかかっている。チェルノブイリ事故は、放射能が直接放射されるという、原発史上最悪の事態となった。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)
最初の爆発にともなって放射された放射能は、1000メートルから2000メートルもの上空に吹き上げられ、遠くの国々まで運ばれた。当初、ソビエト連邦はこの事故を公表しなかったが、翌4月27日、スウェーデンでこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソビエトも事故の公表に踏み切った。日本でも、5月3日に雨水中から放射性物質が確認され大騒ぎとなった。このチェルノブイリ事故で、放出された放射能は結局北半球のほぼ全域に達し、一旦原発事故が起こると、地球全体が被爆することを示したことになった。
事故から4ヶ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)で開かれた専門会議に事故報告を提出した。その報告書などに基づくと、事故の原因は、運転者の規則違反、事故当時の大量被爆にともない消防士と原発職員300人余りが病院に収容され31人が死亡、事故炉をコンクリートで密閉する「石棺」を建設中で、事故の後始末もほぼ終了というものであった。事故の根本的な原因は、原子炉の設計欠陥とそれを承知しながら対策を怠った責任が当局にあったことが後に明らかにされるが、原発反対運動のいっそうの広がりを危惧したこともあって、専門家会議では、十分な報告もなくソ連の事故報告が受け入れられた。
この事故が発生したのは、ゴルバチョフがソ連共産党書記長として華々しく登場してから1年余りの出来事であった。事故当時、すでに、「ペレストロイカ」(「建て直し」再建」を意味する改革)や「グラスノスチ」(情報公開)ををスローガンに本格的なソビエト体制の改革に着手していたが、事故や汚染に関する情報は機密扱いとされ、国外はもちろん住民にも隠されていた。
チェルノブイリ事故で深刻な放射能汚染の存在が明るみに出始めるのは事故から3年経ったベルリンの壁が崩壊した年・1989年の春のことであった。このベルリンの壁崩壊(1989年11月9日)の前、ソ連国内でも既に変化が起きつつあった。ウクライナベラルーシでは、民主化・独立を求める運動と汚染地住民の運動が合流し、一緒になって当局に放射能汚染の対策を求め始めていたのである。原発から、3000キロも離れたところに飛び地のように高レベルの汚染が広がっており、もっともたくさんの放射能はすぐとなりのベラルーシの方に流れ放射能に汚染された地域は、ベラルーシでは国土の30パーセントに達していたとう。因みに、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの被災3カ国を合わせた被災地域の合計面積は、14万5000平方キロメートルにもなり、これは、日本の本州の約60%にもなるという。
放射線被曝は、数年、あるいは数十年もたってからもガンなどを発生させ病気に対する抵抗力を弱め、、さまざまな病気にかかる人が増えていく。とくに深刻なのが子どもの被害であるという。なかでも、事故前にはほとんどみられなかった甲状腺ガンの増加だといわれている。
日本にも稼動している原子力発電所が17ヶ所あり(日本の原子力発電所の一覧参照)、稼動していない発電所が10ヶ所(日本の稼動していない発電所 参照)を含めると27ヶ所もある。しかし、これら原子力発電所における過去の運営・管理状況の不備が次々と明るみに出ているが、ソ連のチェルノブイリ事故のような大きな放射能事故が幸い発生していないとはいえ、事故事実を隠蔽しているなど、情報公開に非常に問題がある。2004年現在、原子力発電所は、日本における発電電力量の約30%、発電設備容量の約20%を担っており、それだけ、重要なものであるだけに、確りと管理してもらわなければならないが、一番怖い事は、原発反対運動の広がりを危惧してのものかそれとも管理側の体質によるものか知らないが、事実を隠蔽することである。危険なものであればあるほどに、重要事実の隠蔽は、下手をすると国を潰す事にもなりかねないであろう。単に責任者が頭を下げて済むものではない。国としての十分なチェック体制の確立と管理をしてもらいたいものである。
(画像は、チェルノブイリ原発4号炉の爆発で、屋根が吹き飛ばされた建屋。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
チェルノブイリ原子力発電所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
資源エネルギー庁・原子力広報ページ『e-原子力』サイトマップ
http://www.enecho.meti.go.jp/e-ene/sitemap.html
国際原子力機関 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%A9%9F%E9%96%A2
チェルノブイリ原発事故
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/Henc.html
チェルノブイリ医療支援ネット・チェルノブイリ原発事故とは
http://www.cher9.to/jiko.html
原子力防災基礎用語集・財団法人 原子力安全技術センター
http://www.bousai.ne.jp/visual/bousai_kensyu/glossary/index.html
日本の原子力・電気事業連合会
http://www.fepc-atomic.jp/index.html
日本 原子力発電所 事故のニュース検索結果
http://news.google.co.jp/news?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E3%80%80%E4%BA%8B%E6%95%85&hl=ja&lr=&um=1&sa=X&oi=news&ct=title


ファーストペイデー,初任給の日

2007-04-25 | 記念日
今日(4月25日)は、「ファーストペイデー,初任給の日」
今日が、4月の給料日で、新入社員が初めての給料を受け取る日だからだそうだ。通俗的には「社員」は民間企業の「従業員」を指し、法律上の「労働者」、「被用者」(「被雇用者」)、「商業使用人」を指している。だから、公務員などは、この中に含まれない。現在、日本の場合は、春に学校を卒業した学生などを新規に社員として採用するのが、一般的であることから、企業などに採用された新入社員が、25日に貰うことが多いからこの日を記念日としているのだろう。しかし、給料の支払日については、企業によって異なる日も多い。因みに、公務員などは、支給日は、各自治体の条例・規則などで決められていて、それぞれ違うが、概ね15日前後が多いようである。
個人事業であれ、会社であれ、従業員を採用する際、仕事の内容の他に、賃金(給料)等についての説明もされているはずであるが、雇用契約については、労働基準法で「使用者は賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない」と定めており、賃金については「賃金の決定、計算、支払方法、締切日、支払時期、昇給方法」などを、絶対的明示事項としている。
だから、新入社員が初めて受け取れる額についても、勤め先との契約により、日払、日給月給、月給などの違い、何時から何時までの給与を何時の日に支払うかなどによって、人によっては、働いた日数分をもらえない場合もあるし、逆に働いた日数以上に前払いの形で多く貰っている場合もある。そして、賃金の支払いについては、労働基準法では通貨で直接支払う事と定められているが、現代では、企業と労働者の代表との労働契約により、大企業などにおいて、銀行等金融機関口座への振込が主流となっているが、中小企業の場合や、パート・アルバイトへの支払いなどは現金で手渡している例も多い。
先にも述べたが、日本では、現在、4月に新規採用が多いのは、今の日本の学校の入学が4月であること関係しているからである。私たちは学校の新学期は桜咲く春・4月の行事と考えられているが、欧米では、入学は一般に9月、秋の行事であり、企業も秋に新規採用をしているところが、圧倒的に多い。
日本の学校の始まりは、江戸時代の寺子屋や、私塾、藩校などであるがその頃は特に入学の時期を定められていたわけではなく随時入学ができた。
日本における近代的な学校教育制度は、明治5年の学制発布から始まった。この時の明治政府の布告には「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とあり、その内容としては、一、立身出世の基礎は学問にある。二、教育は徳育・智育・芸育に分けられる。三、教育は国民全般に施されるものである。四、実用の学を身につける。五、学費その他の費用は各自が負担する。・・・として、西洋の教育が導入されるようになった。そして大学生など高等教育を受けるものは徴兵から除外される特典が与えられ、勉学にいそしみ国に尽くす期待が持たれていた。日本は、元々中国漢時代に由来する「立春年初」を採用していたので、当時の学校制度では日本も諸外国と同じように一般の高等教育では9月新学期と定められていたが、士官学校等軍関係学校は翌年の4月が新学期だった。明治政府の大臣や閣僚の多くは元の武士であり、武家社会では、公務上の年度がえが4月をきりに行われていたようであることから 、伝統的な慣習が根強く根付いており、4月を年度はじめとするのが、やはり納まりがよかったのだろう。
明治の近代化の中で1873(明治6)年に国際化の流れの中で太陽暦が採用されたが、旧暦と新暦が併存する形になるなど年度の始期も混乱していたが、1886(明治19)年に、制度化された会計年度の導入により現在の4月から翌年3月までを1年とした。そして、同年10月に、高等師範学校の入学を4月1日からと定め、1888(明治21)年から全国一斉に、これにならうようになった。この裏には、高等教育を受けるものは徴兵から除外される特典があったため、優秀な学生の殆どが9月に一般の学校へ入学してしまい、翌4月に入学する軍関係学校への入学希望者の質が落ちてしまったことに、危惧を感じた軍部が文部行政に圧力をかけ、軍と同時期に全ての学校が新学期を向かえるようになったともいわれているが・・・・。
その真偽の程は知らないが、1888(明治21)年以降も帝国大学や旧制高校などは9月入学を続け、それらの学校が1919(大正8)年から1921(大正10)年にかけて、4月入学となった後も9月入学を続けていた私学もあったようである。やがて4月入学が定着し、敗戦後も継続され、現在に至っているわけであるが、このように、入学の時期を4月に統一するには政府、軍部、学校側、学生など、夫々にいろいろな思惑があったのだろう。
兎に角、欧州各国などは進学期を秋としている国が多いようである。以下参照。
世界各国の入学式・新学期はいつ?
http://allabout.co.jp/contents/sp_enterschool_c/seasonalevent/CU20070401A/index2/
上記を見ると、各国に共通点があり、いずれも夏休み明けから新学年がスタートしているそうだ。これは、いいことだと思うね~。秋から、新学期が始まり、夏に学校が終り、ゆっくりと、暑い夏を楽しむなり休養してから、秋に企業に入社し、確りと働いてもらう。
今、大学入学機会の複数回化という観点から、秋季入学の導入の促進を求める声もある。受験者の選択の幅を広げ、多様な学習が行えるためにも。大学や大学院では、社会人特別選抜や昼夜開講制などが実施されているが、実施校数等はまだ限られた状況にある。 企業の側でも、例えば、大手の流通業などのように、大型店の出店は秋以降に多いが、春一斉に新規社員を採用しても、秋までの人件費負担が大きいので、秋の採用を増やしているところも増えている。もっと、9月入学、企業の9月新規採用が増えてもよいよと思うが・・・。
ところで、企業に入社した、新入社員など、初任給の使い道はどうしているのだろう?。1人の子供に大学などの高等学校を卒業させるには、親は大変な苦労をしている。せめて、初月給をもらった時には、そんな親に感謝の気持ちを込めて、ささやかなプレゼントぐらいはしてくれているんだろうね~。
私は昭和30年代前半であったが、仕事が、商社関係で繊維関係の仕事をしていたので、初月給では、会社で扱っている商品が、社員割引で殆ど原価に近い値段で買えたので、先輩に選んでもらって、ウールの着物地(反物)を買ってプレゼントした。当時は、着物と言うと絹と木綿などが主でウール地は開発されたばかりで珍しかった。母は非常に喜んでくれて、大事に着て、その着物を、亡くなるまで大事にとってくれていた。亡くなった時、遺品の整理をしていて、そんなに感動してくれていたのかと、目が熱くなったのを思い出す。
ウールの着物地を買うには、当時、サラリーマンの初任給も安かったのでたしか月賦にしてもらったよ。それにしても、当時、給料は、袋に現金を入れて貰っていたよ。1人1人上司に呼ばれて、一言「ご苦労さん」と言って手渡された。袋は薄かったが、情が通っていたし、初月給を貰ったときは感激したよね~。しかし、1958(昭和33)年12月に1万円札が発行されるともうぺらぺらだったよね~(^0^)。
その後の池田内閣で所得倍増計画が打ち出され、サラリーマンの給料もどんどん上がったが、以下参考の「経済統計は語る・大卒初任給と米1俵の価格」を見ると、平成15年の大卒初任給はピークに達し、 平均201,300円で、この金額は、お米を購入すると何俵買えるかで評価すると14.64俵買えることになる。これは、江戸時代の旗本の禄高が、200石以上1万石未満だったので、200石の旗本の手取り月収を米で換算すると(1石=140kg、1俵=60kg、四公六民)・・・。200×140kg÷60kg÷12ヶ月×0.4=15.6俵になり、現代の 新入社員は、200石の旗本並になるそうだ。まだ、社会へ出て、たいした仕事も出来ない独身の若者が、多くのものを扶養しなければならない旗本並みの禄高を取っていたことになる。感謝しないといけないね~。どこの親にとっても、手塩にかけて育てた子供が、社会に出て初めて仕事をして稼いだお金でのプレゼントは、私の親じゃないけれど一生の宝物じゃ~ないだろうかね~。是非、喜ばせてあげてくださいよね~。・・・。「親孝行したい時には親はなし」と言うからね~。ところで、私は、息子から、何を貰ったのだろう・・・???。なかなか思い出せない・・・ということは、たいしたものは貰っていない・・・(×_×)。
(画像は給料袋)
参考:
給料 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%A6%E6%96%99
入学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E5%AD%A6
初月給はどうするの?
http://allabout.co.jp/finance/kakei/closeup/CU20010424/
労働の統計 (便利帳)
http://labor.tank.jp/toukei/toukei_mokuji.html
付表45 新規学卒者の初任給額の推移 -(産業計、企業規模計)
http://www.miraikan.go.jp/toukei/002/statistics/huhyo045.html
労働基準法
http://www.houko.com/00/01/S22/049.HTM
給与計算と労働基準法目次
http://homepage2.nifty.com/kskt/kyuuyojimumokuji.htm
厚生労働省:平成18年賃金構造基本統計調査結果(初任給)の概況
http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/06/index.html
経済統計は語る・大卒初任給と米1俵の価格
http://j_coffee.at.infoseek.co.jp/toukei.html#shoninkyuu
どうして日本は4月に入学するの? All About
http://allabout.co.jp/contents/sp_enterschool_c/seasonalevent/CU20070401A/index/
給料日までの道
http://member2.warp-crew.com/money/

こども読書の日

2007-04-23 | 記念日
今日(4月23日)は、「こども読書の日」
2001(平成13)年12月に制定。文部科学省が実施。
こどもの読書活動についての関心と理解を深め、こどもが積極的に読書活動を行う意慾を高めることを目的としている。
4月2日をアンデルセンの誕生日にちなんで、IBBY(国際児童図書評議会)がこの日を「国際子ども本の日」と制定した。この「国際子ども本の日」のことは私のブログでも書いたので、そこで見てください。→国際こどもの本の日
また、日本でも『子どもの読書活動の推進に関する法律』が平成13 年12 月に公布・施行され、これに伴い、今日(4月23日)を「子ども読書の日」とすることが法律で定められている。
これは、国民の間に広く子どもの読書活動についての関心と理解を深めるとともに、 子どもが積極的に読書活動を行う意欲を高めるために設けられたもので、文部科学省も2003(平成15)年2月には子供読書活動推進ホームページを立ち上げている。同HPをみると、「読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであるが、調査の結果、日本の現状は以下のようだ という。
○  テレビ、ビデオ、インターネット等の様々な情報メディアの発達・普及や子どもの生活環境の変化、さらには、幼児期からの読書習慣の未形成などにより、子どもの「読書離れ」が指摘されている。
○  平成14年5月に行われた調査(社団法人全国学校図書館協議会による)によれば、児童生徒の1ヶ月の平均読書冊数は、小学生が7.5 冊、中学生が2.5 冊、高校生が1.5 冊、また、1冊も読まなかった子どもたちの割合は小学生9 %、中学生33%、高校生56%となっており、中学校以降極端に読書量が減少している。また、平成12年に行われた経済協力開発機構(OECD)生徒の学習到達度調査によれば、「趣味としての読書をしない」と答えた生徒は、OECD平均では31.7%であるが、日本では55%となっており、「どうしても読まなければならないときしか、本は読まない」と答えた生徒は、OECD平均では12.6%であるが、日本では22%となっている。
このように、今日では、テレビ、ビデオ、インターネットなどの様々な情報メディアの発達・普及や子どもの生活環境の変化、さらには幼児期からの読書習慣の未形成などにより、子どもの「読書離れ」が指摘されており、 このような状況の中、子どもの読書活動の推進のため、家庭・地域・学校を通じて、子どもたちが 「本っておもしろい」と思える環境作りをしていくための取組に対し、情報面での支援をし、子どもの読書活動推進に関する情報に対して、 多くの人々が容易に接し、活用することが出来るよう、このホームページを設けたとある。
その中で、子どもの読書活動を推進するための諸条件の整備・充実として、公立図書館の充実もあがっているが、先日、TVで、現状の公立図書館の情況を報じていたが、心無い市民のために、本の一部が切り取られたり、落書されたりと酷い状態のものが増えているらしい。図書館職員の不足などにより、返却時に中身を点検できないために起こっているようだが、今の日本人のモラルの低下には、呆れるばかりである。それは、別として、読書といった場合、それは、何を指すのだろうか???。普通に読書と言えば、「本を読むこと」であるが、マンガも本には違いないのだが・・・マンガを読むことも読書になるのだろうか???。
因みに、独自の解説で人気の高い『新明解国語辞典』(三省堂・第5版)では読書とは、「〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために、〔時間の束縛を受けること無く〕本を読むこと。〔寝ころがって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない〕」とある。なお、「勝義」とは「本当の意味」という意味。・・・漫画や電車の中で読む週刊誌などを読書と考えている人は余りいないであろうが、兎に角、忙しい現代人にとって、〔時間の束縛を受けること無く〕本を読むという条件はなかなかクリアー出来ないだろうが、ここにうたわれている「読書」の意味は、納得できる。
読書にはこのような 「ふつうの読書」と〔研究調査や受験勉強の時など〕のときの 「知識習得のための読書」 があるが、必要なのは、この 「ふつうの読書」つまり、趣味的な読書 が大切なのであり、基本的に自主的な個人的営みであって、他の人に強制されたり、感想文の提出を求められたりする類のものではない。
以下参考に記載の「フランスの若者の読書状況」にもあるが、「普通の読書すなわち楽しみのための自発的読書を妨げる (あるいはその時間を減らす) 要因はテレビであるとは言えず、 むしろテレビは読書へと向けるきっかけを作るのであって、 余暇を過ごす活動としては読書は依然重要な地位を占めている (音楽に次ぐ) という。 しかし、 年齢が進むにしたがって、 友達と出かけたり遊んだりするいわゆる友達づきあいが読書時間を減らし、 一方では、 宿題、 復習、 受験準備、 およびコンピューターなど新しい技術の習得に時間を取られるようになる。 では学校は楽しみのための読書には敵なのかと言えば、 学校生活の間に読書の経験をし、 本を読む方法を会得した者 (だけ) が、 宿題や受験から解放された暁に自発的な読書を楽しむことができる」・・・といっている。
また、総務省・統計局の「大切な時間から知る暮らしぶり」の中の”平成18年度社会生活基本調査からみた「小・中・高校生の「趣味・娯楽」”を見ても、「子供とその親の「趣味・娯楽」をみると、子供の行動者率、すべての種類で、親がそれを「した」場合が、両親とも「しなかった」場合に比べて高くなっており、親と子供の「趣味・娯楽」には強い相関がみられる。「趣味としての読書」でも2倍以上の開きがみられる。子供の行動者率の高い「テレビゲーム」や「レコード・テープ・CD等による音楽鑑賞」は開きが小さい。 」とある。
昔から、子供は親を見て育つというが、子供に読書を進める前に、親自身が読書週間を持たなくてはならないだろう。
また、以下参考に記載の「子供の読書習慣に対する電子メディアの影響」を読むと、1,000人のオランダの小学生の行動を3年間研究した,、C・M・クールストラ教授によると、 テレビを見ることに関して以下のようなデータがあるそうだ。
”テレビを長時間見ると、子供たちは読書の喜びを失い、集中力を弱めてしまうという。 頻繁にテレビを見る人にとって,、読んでいるものの意味をつかむことや、目の前の開いているページに 思いを集中することは 徐々に難しくなり、 すぐに本をわきに押しやり テレビのリモコンを探す傾向が強い”のだそうだ。
この情報化社会の時代にテレビやパソコンなどの電子メディアはなくてはならないものである。今のテレビにもすばらしい映画やドラマ、アニメ、教育番組、教養番組もある。しかし、そのようなものの動画よりも、静止画であるよい絵本や漫画が、そして、そのような静止画の入ったものよりも、凝縮された文字で書かれた優れた内容の本を読む方が、豊かな「想像力」を身につけられるであろうことは、間違いないだろいう。
日本の現代の若者や子供には、最近際だった「自己喪失」が見られるともいわれているが、そのような自己喪失を回避するためにも、小さい子供の頃から、普通の読書に興味を持たせ、物語や詩歌を声に出して読み、美しい日本語のことばのハーモニーとリズムに楽しみを覚えさせることが有益であろう。ただ、ごく小さな子供たちを読書好きにさせるための方法としては、すでによく知られているとおり、読んで聞かせることに尽きる。日本の昔話や童歌にはすばらしい内容のものが沢山ある。こどもの読書週間は、4月23日~4月12日 。子供たちに、TVを見たりテレビゲームをする楽しみと同じ様に、本が楽しく読めるようにしてあげたいものである。
(画像は、「こどもの読書週間」2007年度ポスター。作・杉田豊。)
子供読書活動推進ホームページ(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/hourei/index.htm
日本国際児童図書評議会(JBBY)
http://www.jbby.org/
国際こどもの本の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%A5%A2%A5%F3%A5%C7%A5%EB%A5%BB%A5%F3
江戸川区立図書館ホームページ「いっしょに、読もうか」
https://www.library.city.edogawa.tokyo.jp/kodomo_honnohi.html#kodomo
フランスの若者の読書状況
http://www.agulin.aoyama.ac.jp/kanpou/aguli/agulitext/aguli52/aguli52-p13.htm
[読書]とは -
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%5B%C6%C9%BD%F1%5D
総務省・統計局
http://www.stat.go.jp/
子供の読書習慣に対する電子メディアの影響
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/ac/kyomu/koudai/kikaku/kensho04/kensho_j/2003/ronbun03.html
読書 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E6%9B%B8

『サザエさん』が新聞で連載開始された日

2007-04-22 | 歴史
1946年の今日(4月22日)福岡の新聞「夕刊フクニチ」で長谷川町子の4コマ漫画『サザエさん』が連載開始 された。
『サザエさん』は、長谷川町子の漫画、およびそれを原作とするテレビアニメの題名であり、その主人公である子持ちの若妻「フグ田サザエ」の呼び名である。
長谷川 町子は1920((大正9)年1月30日生まれ。 佐賀県多久市出身の日本初の女性プロ漫画家である。旧制山脇高等女学校(現・山脇学園短期大学)卒業。山脇高女在学中から田河水泡に師事。
『サザエさん』の原作漫画は新聞連載の4コマ漫画である。
町子は、疎開先の福岡で西日本新聞社の絵画部に所属していた時に終戦を迎えた。その翌年の1946(昭和21)年に、同社から新しく『夕刊フクニチ』が発行された。そして、連載漫画を頼まれ、本人は「地方紙の気軽さからあっさり引き受けた」そうで、家の裏の海岸(百道海岸:現シーサイドももち付近)を結核療養中の妹と散歩しているときに、その作品の家族構成や名前を思いついたことから、登場人物がみんな海産物の名前になったという(サザエさんの登場人物)。当初、作者自身は、アルバイトのつもりでやっていたようだ。そして、同・1946(昭和21)年4月22日より「夕刊フクニチ」(夕刊)で連載をはじめたのが始まりであり、漫画の舞台は九州・博多でサザエは独身だったが、その後、町子が上京するために同年8月22日に連載はひとまず打ち切られた。この連載を打ち切るときにサザエがマスオと結婚している。そして、町子さん一家が東京の桜新町へ引っ越したあとは、再び翌年の1947(昭和22)年1月3日より「夕刊フクニチ」で連載を再開。このときから、サザエさんの舞台も東京へ移り、サザエの伴侶・フグ田マスオが磯野一家に同居するようになる。掲載紙は間もなく「新夕刊」でも連載されるようになるが、「夕刊フクニチ」及び「新夕刊」の連載が1949(昭和24)年4月、共に終了。同年12月1日より、『夕刊朝日新聞』(朝日本紙とは別扱の新興紙)・『朝日新聞』の夕刊への連載を経て、「サザエさん」は徐々に人気を広げ、最終的には、1951(昭和26)年には、「ブロンディ」の後を承けて、4月16日より『朝日新聞』の朝刊に登場する。このときからがサザエさん一家が本格的に”国民のアイドル”に成長したと言っていいであろう。作者の一身上の都合や病気でたびたび休載になることもあったが、1974(昭和49)年2月21日の連載をもって3年間の休載に入りそのまま打ち切られているため、この日が事実上の最終回となった。
長谷川町子は、1992(平成 4)年5月27日に74歳で亡くなったが、世間が知ったのは1ヵ月後のことであった。故人の意思で納骨が終わるまで公表しない約束だった。同年、7月13日国民栄誉賞が授与された(漫画家で国民栄誉賞が授与されたのは現在のところ、長谷川町子1人である)。そのサザエさんの”すべてを”集めた美術館(「長谷川町子美術館」)が、東京・世田谷区の静かな住宅地にある。私は行ったことがないが、漫画の磯野家が住んでいる町の風情とよく似ているという。同美術館「町子コーナー」には1951(昭和26)年4月から1974(昭和49)年2月まで23年間にわたって朝日新聞に掲載された「サザエさん」などの懐かしい原画をはじめ「いじわるばあさん」などの作品のほか、町子が姉の毬子さんと30年かけて集めた絵画、執筆の傍ら創作したという趣味の陶人形なども紹介されている。町子さんは、新聞への連載が終わってからは1992(平成 4)年に74歳で亡くなるまでもっぱら美術館に展示するグッズに使うサザエさん一家を描いていたそうだ。
お魚くわえたどら猫 追っかけて
はだしでかけてく 陽気なサザエさん
みんなが笑ってる お日さまも笑ってる
ルルルルルル 今日もいい天気
「サザエさん」林春生作詞・筒美京平作曲MIDI ↓
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/sazaesan.html
漫画『サザエさん』を原作とするテレビアニメ「サザエさん」のオープニングテーマである。
同オープニングテーマの最後は、
明るい笑顔に幸せが ついてくる
楽しい仲間と 陽気なサザエさん
みんなが笑ってる 夕焼けも笑ってる
ルルルルルル あしたもいい天気
・・・である。サザエさんの漫画は、「日常の当たり前のことのなかにユーモアがある」、「家庭の本当の温かさがある」、「サザエさんのあわてん坊で庶民的なところがよい」、「カツオの勉強嫌いがよくわかる。あれぐらいサボれたらいいな~」・・と読む人の年代によって受け取り方は違っても、多くのファンが、サザエさん一家のなかに夫々が自分の分身を見て取れたのが人気の秘密だろう。それになんと言っても明るい。最近は、TVドラマなどにしてもサザエさんのようなちゃぶ台を囲んで楽しく家族で会話するようなものがなくなってしまった。サザエさんの漫画は途中で数度休載はあったものの連載が6477回、25908コマに及んだ長期間にわたる漫画である。ストーリー漫画ではなく、一完した舞台、人物が登場する比較的独立したエピソードからなるものであった。だから、サザエさんの漫画は時代背景を象徴する内容が多いのもひとつの大きな特徴で、サザエさんを読めば、戦後から1974(昭和49)年までの庶民の生活がわかる。サザエさんの新聞連載漫画が1974(昭和49)年に終了する前頃から核家族化が急速に広がり、家は和風の家から洋風の家へ、そして、個室化が広がり、人の考え方にも個人主義がはびこり、夫々が自分中心の勝手な生活を始めるようになり、家族での団欒といったものが家庭から消えて久しい。今もテレビアニメ「サザエさん」は放映されているが、サザエさんのような一家団欒の生活は今の人にとっては夢物語のようなものではないだろうかね~。
(画像は、サザエさん一家の暮らしぶり、ミニチュアセット展示【美術館】。朝日クロニクル「週刊20世紀」掲載のものより)
サザエさん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93
朝日新聞社の歩み
http://mfeed.asahi.com/shimbun/honsya/j/history.html
新明解サザエさん語事典
http://www63.tok2.com/home2/seruanago/
「サザエさん」林春生作詞・筒美京平作曲
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/sazaesan.html
サザエさん (テレビアニメ) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)

大岡政談として有名な「天一坊事件」の首謀者修験者源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処刑された日

2007-04-21 | 歴史
1729年 の今日(4月21日)、大岡政談として有名な「天一坊事件」の首謀者天一坊のモデルとなった、修験者源氏坊改行が鈴ヶ森刑場で処刑された。
鈴ヶ森刑場は、江戸の北の刑場である小塚原刑場に対して、南の刑場として1651(慶安4)年に旧浜川町(東京都品川区南大井)の南の一本松と呼ばれるところにかって設置されていた刑場である。東海道の西側すぐ脇に当たる場所で、一本松の獄門場ともいい、鈴が森というようになったのは隣接する不入斗(いりやまず)村(現大田区)に鈴森八幡(現岩井神社)があったことによるという。間口40間(74m)、奥行き9間(16.2m)という広さがあり、閉鎖される1871(明治4)までの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、明確な記録は残されていないそうだ。
「おそろしや罪ある人の首玉に つけたる名なれ鈴が森とは」
これは、十返舎一九の東海道中膝栗毛に出てくる弥次郎兵衛が、鈴が森の刑場のあたりにきて詠んだ一句であり、猫の首に鈴をつけるのもじったもの。
鈴ヶ森刑場は、当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る者、とくに浪人たちに警告を与える意味で、さらし首や処刑が通行人に見えるようにこの場所に設置したのだと考えられている。
最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安事件の首謀者の1人丸橋忠弥であるとされている。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて刑にされた。
その後も、よく知られているところでは、平井権八(芝居では白井権八。以下参考の「平井権八伝説と実録・読本」参照)や天一坊浜島庄兵衛(盗賊・日本左衛門として知られる)八百屋お七といった人物がここで処刑されたが、なんと言っても有名なのが『大岡政談』に出てくる天一坊事件のの首謀者天一坊であろう。将軍・徳川吉宗が部屋住みの頃親しんだ沢の井の生んだ子になりすました宝沢(ほうたく)が、吉宗のお墨付きと短刀を証拠に、徳川 天一坊として江戸に乗り込み吉宗との対面を試みた。その影には軍師として徳川光圀に謀反のかどで手討ちになった藤井紋太夫の子赤川大膳がいた。2人は大膳の叔父常楽院天忠(じょうらくいんてんちゅう)と山内伊賀亮(やまのうちいがのすけ)を仲間にして、各地で金品を騙しとり、上京、高輪の旅宿に「徳川 天一坊殿御宿」と表札を立てる。吉宗、重臣らも実子と認めたが、大岡忠相の活躍により天一坊はにせものと判明した。享保13年8月と『大岡政談』には記されている。歌舞伎錦絵は以下で見れる。
浮世絵閲覧システム - 天一坊大岡政談
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&gedai=%C5%B7%B0%EC%CB%B7%C2%E7%B2%AC%C0%AF%C3%CC
この事件は、後に講談『大岡政談』に取り入れられ大岡越前守の名裁きのひとつとされた。しかし、実際には大岡越前守はこの事件には全く関係していない。
この有名な「天一坊事件」は、実際にあった「源氏坊改行事件」(修験者源氏坊改行が徳川吉宗の御落胤と騙って、金品を騙し取ったため捕らえられ処刑)に粉飾したもので、この一味は品川で関東郡代に逮捕され、評定所で吟味を受け、大目付立会いのもと、勘定奉行稲尾正武から1729(享保14)年4月に判決申し渡りがあり、4月21日に死罪の上、獄門となったもの。当時の品川はまだ町奉行管轄の江戸府内の外にあった。品川が府内に繰り込まれたのは、4 里内外を府内と定めた1788(天明8)年以降であり、それまで関八州内江戸府外を管轄したのは勘定奉行配下の関東郡代伊奈家や代官であった。
歌舞伎黙阿彌作の「扇音々(あふぎびやうし)大岡政談」によつて今も屡々上演を繰返されているが、その原作は江戸時代末期の講談師神田伯山の講談『大岡政談天一坊』である。
史学的検証から、数ある大岡政談のうち、実在したのはこの天一坊事件と1727(享保27)年の「白子屋お熊事件」(舞台などでは白木屋お駒)のみであり、忠相が町奉行時代に実際に裁いたの白子屋お熊の裁判くらいなものであるといわれている。
天一坊が自らが後落胤と名乗ってから、何故か、捕らえるまでに半年を有している。だから、天一坊が自らが後落胤と名乗る何らかの証拠があったのだろうと幕府側も、証拠を覆すまでにそれだけの月日を要し、そのような、即座に否定もできない当時の幕府の姿勢を見て、江戸の庶民も これは本当に後落胤かも知れない と思ったかも知れない。
法律家であり、探偵小説家でもあった、濱尾四郎の短編『殺された天一坊』では、冒頭に、「あれ程迄世間を騒がせた天一坊も、とうとうお処刑(しおき)となって、獄門に梟(か)けられてしまいました。あの男の体は亡びてもあの悪名はいつ迄もいつ迄も永く伝えられる事でございましょう。世にも稀な大悪人、天下を騙(だま)し取ろうとした大かたり、こんな恐ろしい名が、きっとあの男に永く永くつき纏(まと)うに違いございませぬ。私のようなふつつか者が廻らぬ筆をとりましたのも、その事を考えましたからでございます。私からはっきりと申しますれば、あの男こそ世にも愚かな若人(わこうど)なのでございます。けれども決して大悪人ではございませんでした。ああした不思議な運命に生みつけられた人間はおとなしく此の有難い御治世の、どこかの片隅にじッと暮して行けばよかったのでございましょう。天一坊は此の世の中というもののほんとうの恐ろしさを知らなかったのでございます。真実の事実を有りの儘に申す事、もっとむずかしく申せば真実と信じた事をはっきりと申すことが、此の世の中でどんなに恐ろしい結果を招くかという事をあの男は存じませんでした。だからあの男は愚者でございます。世にも稀な馬鹿者でございます。それに、自分の正しく希望してよい事を、はっきりと希望した、というのもあの男の考えが至らぬ所でございました。此の世の中は法というものばかりでは治められぬ。いいえ、時によっては法というものさえも嘘をつくという事を知らなかったのでございましょう。あの男は気の毒な愚かな、しかし美しい若人でございました。」・・・とある女からの奉行宛の書状は始まっている。そして、「あの男はただ父親に会いたかったと申して居ります。それはそうに間違いございますまい。けれど御奉行様に致しますれば、それはただそれだけの意味にはならないのでございます。御奉行様は世の為に此の哀れな人の子を其の親に会わしてやることはお出来にならなかったのでございます。お調べの結果は、御奉行様の為にも、又天一坊の為にも余りに悲惨すぎて詳しく申し上げる言葉もございませぬ。御奉行様の御取り計らいで、天一坊は全く偽者なる事に定りましたのでございます。「天下を欺す大かたりめ」之が御奉行様が最後に天一坊に仰言ったお言葉でございますが、いつもに似ず御声に慄えを帯びておいでになったそうでございます。」と最後の方で述べているが、吉宗にも天一坊のような子供が出来ても仕方のないだけの所業があり、天一坊は真実吉宗を父親と信じているが、周りのものがそれを利用し少し、お金にしただけなのに死罪の上獄門に処したことで、天一坊への憐れみとそのような祭壇をしなければならなかった奉行への同情まで示している。
天一坊は「悪人だから処刑になったのか?それとも処刑になったから悪人なのか?」。徳川吉宗の落胤だと主張し、世間を騒がせただけの天一坊を「天下の御為」に裁く・・・」。人が人を裁くことの理不尽を描いている。なかなか面白いよ。短い文なので一度読んででみたら。
濱尾四郎『殺された天一坊』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000289/files/1796_22485.html
それにしても、日本もアメリカなどと同じ様に、一定の刑事裁判において、国民から事件ごとに選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に参加する裁判員制度が2009(平成21)年5月に開始される予定。何時我々が、天一坊事件のような、どこまでが本当で、そこまでが嘘かわからないような裁判に参加しなければならないかわからない。そんな時どのような判断が下せるか・・・?。
(画像は興行名: 扇音々(あふぎびやうし)大岡政談に出てくる悪役たち。左: 山ノ内伊賀亮 初代市川左団次 中央:天一坊 は、5代尾上菊五郎。右上、赤川大膳 :中村仲太郎 妹宮香:尾上いろは )
大岡越前の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C5%B7%B0%EC%CB%B7
天一坊事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%80%E5%9D%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
鈴ヶ森刑場 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E3%83%B6%E6%A3%AE%E5%88%91%E5%A0%B4
鈴が森刑場跡/歴史の足跡
http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/keijo.htm
作家別作品リスト:No.289作家名:浜尾 四郎
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person289.html#sakuhin_list_1
常楽院(ジョウラクイン)の謀議(ボウギ)/谷汲村の昔話(キャッシュ
http://cscns.csc.gifu.gifu.jp/tiiki-hp/tanigumi/mukasi/3/4.htm
平井権八伝説と実録・読本
http://koneeta.hp.infoseek.co.jp/gonpati.html
浮世絵閲覧システム - 天一坊大岡政談
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&gedai=%C5%B7%B0%EC%CB%B7%C2%E7%B2%AC%C0%AF%C3%CC
浮世絵閲覧システム ・日本左衛門
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&haiyakukensaku=%C6%FC%CB%DC%BA%B8%B1%D2%CC%E7
浮世絵閲覧システム ・白井権八
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=10&haiyakukensaku=%C7%F2%B0%E6%B8%A2%C8%AC
浮世絵閲覧システム ・藤井紋太夫
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&gedai=%C2%AF%C0%E2%C8%FE%C3%CC%B2%AB%CC%E7%B5%AD
浮世絵閲覧システム ・白木屋お駒
http://enpaku.waseda.ac.jp/db/enpakunishik/results-1.php?Max=30&haiyakukensaku=%C7%F2%CC%DA%B2%B0%A4%AA%B6%F0
日本左衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
東海道中膝栗毛
http://www.hara-s.or.jp/yajikita/yajikita_flame.htm
裁判員制度 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6
鈴ヶ森刑場
http://hp.vector.co.jp/authors/VA011532/Suzuexe.html
鬼平犯科帳と江戸名所図会
http://homepage3.nifty.com/onihei-zue/