今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された

2007-04-20 | 歴史
1887(明治20)年の今日(4月20日)、首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された。
伊藤 博文は、明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長そして、わが地元である兵庫県の初代の知事(官選)をも務めた人物である。
周防国(現・山口県)の百姓の長男として生れながら、明治維新の元勲の仲間入りをし、位人臣をきわめた伊藤を世間では豊臣秀吉以来の出世と称した。しかし明治維新によって長年の身分、階級社会が打破されたとはいえ、そのような貧農のせがれで、武士になったのは維新の直前という。しかるに、最も低い身分の出身である伊藤が参議たちの総理選考会議で、初代内閣総理大臣になれたのは、英語に堪能な事を買われてのことだったという。
伊藤 は、吉田松陰松下村塾に学び、高杉晋作井上聞多らと倒幕運動に加わり、1862(文久2)年には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策しイギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活躍したが、その後、英国・ロンドンに渡航し半年滞在しており、帰国後に革新派に加わる。維新後は天皇が外国大使と会見する時は、必ず伊藤が通訳をし、1871年12月23日(明治4年11月12日)から1873(明治6)年9月13日までの、岩倉使節団の欧米巡視にも同行するなど、明治政府きっての英語に堪能な人物であったようだ。そんな、伊藤は、女たらしで、当時の政治家の中では色豪ぶりでもナンバーワン!だったという。生涯、金や派閥などには執着せず、全く無欲であっさりしていた伊藤だが、女だけには目が無く、女性関係の出入りが激しく、全国行く先々に女がいたという。宴会では新橋の芸者たちを何人もはべらせて、寝るときも、ふとんの両側に若い娘を寝かせて遊んでいたとか、最期まで毎夜のように女を抱いていた絶倫男だったという。
神戸には、JR元町の少し西北あたりに明治時代から昭和40年代くらいまでは賑ぎわいだ料亭街があった。そこには、料亭、お茶屋、仕出屋など戦前は120軒を超える店があり、最盛期には「千人近い芸者衆で華やだいといわれる高級料亭街「花隈」と言う地域である。今はその面影もないが、私が幼い頃、父親は商売が好調で景気がよく、酒好きでもあったので、しょっちゅう花隈通いをしていたようで、夜中に、数人の芸者衆に送られてご機嫌で家に帰って来たのを記憶しているが、初代兵庫県令であった伊藤も毎晩花隈に入り浸っていたといい、伊藤に贔屓にしてもらっていたという元芸者のお婆さんのインタビュー記事を神戸新聞で読んだことがある。 何でも、伊藤の妻・梅子は賢夫人のほまれ高かったそうだが、元々は下関の芸者「お梅」だったという。伊藤には英国留学前に結婚した「おすみ」という女がいたが離婚して、お梅を正妻にして梅子と名のらせた。伊藤が思いきって女道楽のできたのは、梅子の内助のおかげで、梅子は女遊びについて一切文句をいわなかったという。日本の場合、昔は、今と違って芸者などを相手の女遊びは、男の甲斐性のようにもなっていたので、私の親父も花隈などの芸者を相手に相当遊んでいたようだが、そんなことで、私の母親がとやかく言っていたのを聞いたことはなかった。それは、遊びと割り切っていたんだね~。
1883(明治16)年11月28日、外務卿(後に外務大臣)井上馨鹿鳴館の落成式で、「国境の為に限られざるの交誼(こうぎ)友情を結ばしむる場となさんとする」ために鹿鳴館を開いたことを述べ、この文明開化の殿堂が「各国人の調和の交際を得る場」となることを希望すると、その所信を表明。本来は国賓クラスの外国からの賓客を宿泊・接待するための使節であったが、國際親善の場であると同時に、鹿鳴館に招かれた外国人に日本が決して未開の国ではなく、欧米諸国に劣らぬほど文明開化された国である事を印象付けるという役割が架せられた社交場でもあった。(週刊朝日百貨「日本の歴史)
英語通の伊藤もともに欧化主義の積極的な推進者として、鹿鳴館に相当入れ込んでいた。明治政府は明治憲法制定と同時平行で不平等条約改正に取り組んでいたが伊藤も井上も条約改正のためには、日本が文明国であることを外国人に示すことが必要であると考えていた。
1883(明治16)年7月に落成後は、外国人を招いた舞踏会や夜会が毎週のように開かれ、伊藤自らも主催して「舞踏内閣」と悪口を叩かれたという。そして、無類の女好きの伊藤は、夜の部では、こうした舞踏会や夜会を利用して片っ端から女を口説いたとも。
そして、世間の耳目を集めた1887(明治20)年、今日(4月20日)の伊藤博文首相夫妻主催の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)は、鹿鳴館ではなく、首相官邸で行われたものである。
それは、社交界で評判の美人であった戸田氏共伯爵夫人との関係がウワサとなったもので、極子(きわこ)夫人は岩倉具視の次女であり、恵まれた環境で育ったことから、英語とダンスが大の得意で当時の鹿鳴館社交界の名花と謳われ、外人も日本人も争ってダンスの相手になろうとした美人だった。伊藤はこの日、その極子夫人を裏庭の茂みに誘い込んで、乱暴して、いかがわしい振る舞いに及んだので、夫人がはだしで逃げだしたといったスキャンダルを新聞が書き立て、伊藤の好色漢、ハレンチぶりを非難したという。それまで、「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として鹿鳴館での社交パーティーに非難の声を挙げていた者達もこの仮装舞踏会が開催されるや「亡国のきざし」と口を極めて罵るようになったという。勝海舟も憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げて政府に建白している(以下参考に記載の「勝安房 時弊廿一條を内閣に建白」参照)。そして、井上の鹿鳴館外交への風当たりは厳しいものとなり、さらに条約改正は多くの努力にも関わらず果たせず、面目を失した井上は同年9月に外務大臣を辞任している。
この鹿鳴館外交が、外国人の目には、どう映ったか?などもう少し書きたいのだが、長くなるので、また、次の機会に書くことにし、今日はこれで終わる。
(画像は、井上馨(左)と伊藤博文。「ひたすら生き望んだ哀れな古強者」ピゴー画。週刊朝日百科「日本の歴史」より)
参考:
伊藤博文 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
おどる近代 ―交際・ダンス・〈アソビ〉
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem1.htm
鹿鳴館 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
エピソード「結ばれたロミオとジュリエットー大山巌と鹿鳴館の華ー」
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode34.html
ジョルジュ・ビゴー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B4%E3%83%BC
Belle’s bar 日本のワインの歴史
http://blog.goo.ne.jp/urbankitty/c/da75844ddea3b79e648ebf06f8b06937
反米嫌日戦線 LIVE and LET DIE(美は乱調にあり):朝鮮人に暗殺され ...
http://ch05028.kitaguni.tv/e134015.html
戸田氏共 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%B0%8F%E5%85%B1
勝安房 時弊廿一條を内閣に建白
http://www.ballroom-j.com/history/18870523.htm


戦況から都内の幼稚園が無期限休園となった日

2007-04-19 | 記念日
1944(昭和19)年の今日(4月19日)は、戦況から都内の幼稚園が無期限休園となった日。
幼稚園(独・英:kindergarten)とは、満3歳から小学校就学までの幼児を保育し、年齢に相応しい適切な環境を整え、心身の発達を助長するための教育施設のことである。
日本の場合、幼稚園は文部科学省所管の学校であり、大学までの教育体系の中の一環として組み込まれており、保育所厚生労働省所管の児童福祉施設である。
文部科学省・学制百年史 によると、明治5年に制定された「学制」には、小学校の種類として「幼稚小学」をあげ、「幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学二入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」(第22章)と定めているが、この幼稚小学は実現をみなかったという。理由は、当時は小学校の開設に重点が置かれ、就学前の幼児教育施設にまでは及ばなかったためである。
実際に設けられた幼児教育施設として最も早いものには、1875(明治8)年12月京都上京第三十区第二十七番組小学校(柳池小学校)に開設された「幼椎遊嬉場」である。これはドイツのフレーベル流の幼稚園を模範として設けられたようであるが、1年半ばかりで廃止され長くは続かなかったようだ。次いで、1876(明治9)年11月に東京女子師範学校付属幼稚園が開設され、これによってわが国の幼稚園は発足し、その後の発達の基礎がおかれた。これは東京女子師範学校が開設されてまもない時であった。同年11月16日開園式が行なわれた。
幼稚園の設立と教育などについては以前に私のブログ「幼稚園記念日で書いたので詳しくは触れない。また詳しくは、以下参考の「文部科学省・学制百年史 」や「幼稚園制度の普及について」などを見られると良い。
最初の幼稚園が創設されてから、その後すべての府県に少なくとも一園が設置されるまてになったのが1909(明治42)年のことで、ここまでが幼稚園の初期の普及の時期といえるのではないか。明治末年には533園だった幼稚園は1926(大正15)年ごろには1066園と倍増。大正期には新しい試みがかなり自由に行われ、園外保育やクレヨンによる塗り絵などが普及、英会話を教える幼稚園も現れたという。
そして、昭和に入り第二次世界大戦が始まり、米軍の本土爆撃が濃厚となると、空襲の危険に対処するため、1944(昭和19)年の4月19日日付けの防空総本部次官通達により、東京都内の区部にある区立50、私立270のすべての幼稚園に対して無期限休園を指示すると共に、園児の地方への疎開を勧奨した。学童集団疎開開始に先立つ4ヶ月前のことであった。
よく覚えていないが私も神戸市内から、高砂市にある親戚に疎開し、そこの幼稚園に入ったのが、この頃であった。しかし、数ヶ月で、高砂市も危険になり、住んでいられなくなったので、母方の田舎である徳島に疎開し、そこで、終戦を迎え、徳島の小学校へ入学した。
現在のわが国の学校制度は,1947(昭和22)年に制定された「学校教育法」により整備されて来た。そして、その第1条において「この法律で、学校とは、小学校、中学校、高等学校、大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校及び幼稚園とする」と規定し、学校教育法上における学校の種類を示し、ここに幼稚園は就学前教育施設として、学校制度の中に明確に位置づけられた。そして、文部省の統計によると、平成6年度の幼稚園への就園率は63,5%に達しているという。
現代の幼稚園教育は、基本的には、ドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベル教育の構想の中にあったもので、ボール遊び、積み木、お遊戯、鳥や小動物と触れ合い、母親の家事の手伝い、言葉遊び、花壇での花や野菜の栽培など、すべて体系的にフレーベルの著作の中にあるものだという。
以下参考に記載の「幼稚園ねっと」「幼稚園教育は、なぜ3歳からなのですか? 」と言う質問に対して書いているように、人間の成長過程において、3歳という段階はとても重要な意味を持っている。専門家の調査の結果、乳児期の間は家族に依存し、なんでもやってもらう生活で、それを素直に受け入れていた。ところが、3歳になると自己主張が出てくる。3歳児は自立心が芽生え、乳児期から幼児期への扉を開けようとする時期である。また、3歳児になると、しきりに「これ、なあに?」「どうして?」といったような質問を発して大人を困らせるように、知的好奇心がぐんぐん育つ時期である。そして、遊びにおいても、一人遊びとは違った、友だちと遊ぶ楽しさを味う、新しい体験をする。このように、3歳児は人間関係をはじめ子どもの世界が広がる時期である。
しかし、困った事があるようだ。『子供の非行の火種は3歳に始まる』という。結論から言うと、それは、幼児期の 育てられ方だという。幼児期に、溺愛されたことが最も大きな非行原因である」という。愛情飢餓(溺愛の逆)などで非行に走った子は、その後愛情をかければ案外容易に更正ができるが、溺愛されて育ってしまった子供は、どんなことをしてもなかなか更正できないというのである。登校拒否の子供を調べてみても、ほぼ100%が溺愛で育てられていたという結果が出ているという。その理由として、「溺愛する」→「100%わがままになる」→「親が口やかましくなり、注意する」→「徐々に親の言うことを聞かなくなる」→「子供が成長するに従い保護者に暴力をふるう」(遊ばず信頼関係ができていないのに、急に子供を注意をするから反感か敵意しか生まれない)」→「家がおもしろくない」→「非行に走る」という図式ができ上がってしまうからだという。そして、そのような子供は「我慢ができない」「耐性がない」「自分をコントロールできない」などの傾向が出てくるようだ。そして、この溺愛は母親の意識的な行動ではなく、無意識的な行動であるというところが、むしろ根の深い問題があると言っている。私達が、子どもの頃は、どこも、裕福ではなく、親も子供をかまってやれなかった。それが、幸いしていた。しかし、今は、親が、子どものことをかまいすぎている。しかも、現在幼稚園児を持つ親自体が、戦中戦後苦労した我々の年代の親からせめて子供には苦労させたくないと大事に育てられてきており、しかも一人っ子が多くなり、子供を溺愛しすぎているのである。それに、3歳児ぐらいまでは、他の動物でもそうだが、一番可愛いころである。ついついかまいすぎる。これは、心せねばならないだろう。
(画像は大正14年ごろの幼稚園での粘土工作。机上ににキューピーの粘土細工も見える。アサヒクロニクル「週刊20世紀」より)
文部科学省・学制百年史
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html
幼稚園 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92
幼稚園ねっと
http://www.youchien.net/
幼稚園制度の普及について/【国際学院埼玉短期大学研究紀要 Vol.17.1996】
http://www.kgef.ac.jp/ksjc/kiyo/960030k.htm
幼児教育の系譜と頌栄
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/syouei100nen/0_hyousi.html
第二次世界大戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
学童集団疎開の記録
http://www.nogami.gr.jp/rekisi/syouei100nen/0_hyousi.html
幼稚園ねっと
http://www.youchien.net/
幼稚園記念日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/f9e01a0d9d8c16675fbf2965234c5848
松岡正剛の千夜千冊「日本の幼稚園」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0562.html
小学校開校の日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%CC%F8%C3%D3%BE%AE%B3%D8%B9%BB


新庄剛志選手引退宣言

2007-04-18 | 歴史
2006(平成18)年4月18日新庄選手引退宣言。
新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日生まれ )は、元プロ野球選手のタレントである。
2006(平成18 )年4月18日、北海道日本ハムファイターズに所属の新庄選手は、阪神時代の恩師・中村勝広監督率いるオリックス戦(東京ドーム)、この日の1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と名付け、この日を最後に打法命名を封印した。また、この日の試合終了後のヒーローインタビューで、突然このシーズン限りでの引退を宣言した。日本では、シーズン終盤に引退宣言をすることはあっても、シーズン当初に引退宣言をすることは前代未聞のできごとである。
本人によるとその時引退の原因は自慢の守備で衰えを感じるようになり、体力限界が原因であると述べていた。フロントはおろか、ヒルマン監督や同僚の選手も寝耳に水であったらしく、日本ハム本社は「どんな手を使っても残留させる」と発言。しかし、本人の意思は固く日本ハム本社・球団は同年9月1日に慰留を断念した。実際は脚の故障がすでに限界を超えていたための引退であることを「金スマ」(中居正広の金曜日のスマたちへ)で語っており、その故障は左内太股の形が変わるほど酷いものだったそうだ。また、後にTBSの「難病と闘う子供たち」という番組で、引退の理由が本当は遺伝性の眼病であったことを告白(2007年1月9日)していたという。私は、どちらもテレビを見ていないし、どちらの理由が本当かなどその真偽は良くわからない。
この引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて報道された。
新庄 の引退宣言以後、新庄効果で、球場への観客動員数も増え、球場は、ファンの声援で盛り上がり、日本ハムは、快進撃を始めた。そして、新庄は、甲子園でのタイガースのユニホーム姿での登場に始まり、グラウンドにハーレーで登場したり、ドームの天井から宙吊りで現れたり、マジシャンのような脱出劇をグランドでやったり、バラエティー並の被り物で練習したり、襟付きアンダーシャツにオールスターでの電光掲示板や虹色バットなど、随所にパフォーマンスを散りばめ、チームを引っ張って行った。まさに、野球選手と言うよりもエンターテイナー(entertainer)としての面目躍如と言うべきか。新庄選手の2006年ペナントレース終了時の成績は、打率.258、本塁打16本と平凡ではあったが、守備でもムードメーカーとしてもチームの先頭に立って行動した。
終盤、勢いに乗った日本ハムは西武、ソフトバンクとの激しい首位争いを制して9月27日、プレーオフ1位進出を決めた。その試合の直後、引退を決めていた新庄があらためて、最後の引退宣言をした。球場内が暗くなり、新庄選手が自ら考えたというセレモニーが始まった。両親と一緒に撮った6歳時の「新庄少年」の写真に始まり、これまでの軌跡が映像で流された。その間、場内はシンと静まり返っていた。映像が終わると、グラウンドの真ん中にたたずんでいた新庄は、プロ入りから使い続けたグラブをそっと置き、首から下げていた赤いタオル、リストバンドを外して同じようにそばへ添えた。最後には、この日限定で変更した背番号「63」のユニホームを脱いだ。
「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んでこれからも俺らしくいくばいっ!」・・・・、新庄のTシャツの背中に書かれたファンへのメッセージには、どこか詩や歌詞の趣があった。そして、ベンチへの去り際に新庄は初めて涙を見せた。
日本ハムはその後、ソフトバンクとのプレーオフ第2ステージも、あっさり2連勝で勝ち抜いて15年ぶりのパ・リーグ優勝を果たし、中日との日本シリーズでも、1戦目に敗れながら、2戦目に新庄のライト線へのヒットを足がかりに逆転勝ちし、流れをつかんだ。3戦目からは札幌ドームでの地の利を生かして勝ち続け、2006年10月26日札幌での第5戦目、日本ハムが中日を4勝1敗で下し、前身の東映フライヤーズ以来、44年ぶりの日本一を達成。本拠を東京から北海道に移して3年目での栄冠となった。プロ野球選手としての最後のシーズンを初の日本一で飾り感涙する新庄は、仲間からヒルマン監督をさしおいて真っ先に胴上げされた。最後まで前代未聞続きの新庄は、4度宙を舞い引退に花を添えた。 プロ野球史上初めて、北海道で日本一の胴上げが実現したドームでは、おらがチームを応援してきた満員の観客の殆どが飛び跳ね、揺れに揺れた。もうこれ以上のストーリーは作れないという最高の舞台のエンディングであった。
東京を本拠としていた日本ハムが初めてパ・リーグを制覇した1981(昭和56)年、共に後楽園が本拠の巨人と日本シリーズを戦った。9割方が巨人ファンで埋まる中、2勝4敗で敗れた。東京での日本ハムは声援なども少なく、目立たないマイナー球団であった。北海道へ来て、地域密着型の球団を志向し、スター性の高い新庄を獲得。新庄は、見事に北海道のファン獲得の役割を果たした。読売の報道では、新庄選手は3月に開かれた開幕戦で本拠地の札幌ドームに4万人以上のファンが詰め掛けたことを見て、「自分自身の役割は終わった」と感じて現役引退を決意したのだという。
大リーグを経験して、日本ハムに入団した新庄は、本業の競技と同じくらいのウエイトをかけて、エンターテイナーとしての集客力アップに尽力するという革命を起こした。
しかし、そのような新庄のパフォーマンスは、プロ野球はプレーそのものでファンを呼ぶものだと考えている真面目な人々には不快に写ったかも知れない。だが、巨人の低迷でプロ野球そのものに翳りが出始めている中で、その懸念を吹き飛ばし、想像以上の成功を収めたことは事実である。
勿論、プロの野球選手が、本業の競技に全力を注ぐべきは当然の事であるが、ファンに楽しんで野球を見てもらうために、本業以外の集客力にも力を注ぐことも必要なのではないか。
新庄は、現代のプロスポーツのあり方に、大きな問題を提起してくれたのではないか。
(画像は、2006年9月27日、札幌ドームで。新庄選手の背中に「俺らしくいくばいっ」のメッセージ。2006年10月26日朝日新聞より)
新庄剛志 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E5%89%9B%E5%BF%97
CLUB SHINJO - 新庄剛志 オフィシャルWEBサイト
http://gw.tv/fw/shop/pc/contents/shinjo/
北海道日本ハム・新庄選手現役引退を発表
http://ja.wikinews.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BB%E6%96%B0%E5%BA%84%E9%81%B8%E6%89%8B%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E5%BC%95%E9%80%80%E3%82%92%E7%99%BA%E8%A1%A8
オリックス中村監督「幸せを祈ります」
http://www5.nikkansports.com/baseball/professional/shinjo/619/0905-20430.html
TBS「難病と闘う子供たち 私たちはこんな病気と闘っています」
http://www.tbs.co.jp/program/nanbyou_20070109.html
Yahoo!プロ野球 - 日本ハム - SHINJO プロフィール・総合成績
http://baseball.yahoo.co.jp/npb/player?t=db&id=10876



武内つなよし (漫画家『赤胴鈴之助』『少年ジェット』)の忌日

2007-04-17 | 人物
今日(4月17日)は、武内つなよし (漫画家『赤胴鈴之助』『少年ジェット』)の1988年 の忌日 <62歳>
武内つなよし(1926年2月26日生)・漫画家、本名は、武内 綱義・・・と言っても、知っている人の年代は…団塊の世代以上かな???この世代でも、武内つなよしと名前を言っても、覚えていないかも知れないが『『赤胴鈴之助』の漫画の作者と言えば分かるだろ。『赤胴鈴之助』福井英一と武内つなよしによる漫画で、ラジオドラマ化や映画化、アニメ化もされた。
「エイ!」「ヤーッ!」「ターッ!」
「ちょこざいな小僧め 名を、名を名のれ」 
「赤胴!鈴之助だ!!」
 剣をとっては 日本一に
  夢は大きな 少年剣士
  親はいないが 元気な笑顔
  弱い人には 味方する オー
  がんばれ たのむぞ
  ぼくらの仲間 赤胴鈴之助
1957(昭和32)年1月1月 6日 ~1959(昭和34)年2月14日までラジオ東京(現TBSラジオ)で放送されたラジオドラマ『赤胴鈴之助』の主題歌。(作詞:藤島信人、作曲:金子三雄)。歌詞と曲は以下でどうぞ。二木紘三のWebサイト「赤胴鈴之助」
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/akadousuzu.htm
北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士・金野鈴之助の活躍を描く物語で、父親の形見である赤い胴(防具)を着けることから「赤胴鈴之助」と言われる。
鈴之助の必殺技は、千葉周作の紹介で飛鳥流に弟子入りして伝授された「真空斬り」。当時の子どもたちに大人気であった。また、当時小学生だった吉永小百合も参加していた。以下では、当時小学生だった吉永小百合の可愛いラジオ放送スナップ写真が見れるよ。
思い出の映画「赤胴鈴之助だあ!」
http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/wakatai/akadoumu.htm
1951(昭和26)年から『冒険王』に連載した柔道漫画『イガグリくん』で人気を得た福井英一は、手塚治虫と張り合うほどの人気人気漫画化となっていたが、『銀の鈴』に連載していた『よわむし鈴之助』を基に、1954(昭和29)年『少年画報』』(少年画報社参照)に『赤胴鈴之助』の第1回目を描いたところで過労のため急逝してしまった。そのまま打ち切りになるのはあまりにも勿体ないという判断で新人漫画家・武内が後を継ぎ、見事に人気漫画に育て上げたものである。私もこの頃は漫画が大好きだったから、『イガグリくん』も『赤胴鈴之助』もよく覚えている。
『赤胴鈴之助』の漫画はラジオ放送漫画から少年の間で人気沸騰となり、すぐにラジオドラマ化され、さらに人気は爆発。そのラジオドラマを大映が同年5月から次々と映画化。第1作『赤胴鈴之助』第2作『赤胴鈴之助 月夜の怪人』第3作『赤胴鈴之助 鬼面党退治』第4作『赤胴鈴之助 飛鳥流真空斬り』第5作『赤胴鈴之助 新月塔の妖鬼』第6作『赤胴鈴之助 一本足の魔人』以上6本が1957年に公開されている。そして、よく1958年には、第7作『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』第8作『赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人』第9作『赤胴鈴之助 どくろ団退治』の3本が公開されている。第1作から第7作までは、主演の赤胴鈴之助 を演じたのが、梅若正二 、美少女時代の中村玉緒が千葉周作の娘・さゆり役で殆ど出ている。
この映画は、第4作までは、モノクロであるが、第5作~第7作はカラー作品である。次の第8作、第9作はまたモノクロ作品となっている。梅若正二 が、交通事故で『赤胴鈴之助』を退いた後、2年ほどのブランクを経て大蔵映画の「怪談映画」のスターとして活躍している。第8作から主演の鈴之助は、桃山太郎に代わっている。第6作 『一本足の魔人』以降、第1作からの美貌の少年剣士による冒険活劇のイメージから、なんか、不気味な怪奇映画の雰囲気が濃厚に漂ったものに変わってきており、小さな子供などは恐かったのではないかな。全て見ているわけではないが、お袋の友人の小さな子が見たいというので1人では映画館へ行けないので私が代わりに良く連れて行ってやった。私自身時代物の映画が好きだったので喜んで連れて行ってやったが、梅若正二主演の映画は観て覚えているが、桃山太郎主演の映画は観ておらずどんな映画かも記憶がない。
兎に角、ラジオ・映画などと、ほぼ同時期に異なる局で二種類のテレビドラマも製作されている。1つは、1957年9月20日~1958年10月3日間に大阪テレビ放送(現朝日放送)が放映。(全55話。)スタジオ生放送で製作された。もう1つが、1957年10月2日~1959年3月25日間に ラジオ東京(現東京放送)で放映された(全55話)。これもスタジオ生放送で製作された。好評だったラジオドラマをテレビドラマ化したものであり、出演は、尾上緑也(6代目尾上松助)、小林重四郎、高杉哲平、神田正夫、他、テレビ初出演の吉永小百合、五月みどり野沢雅子大平透大塚周夫らとお馴染みの名前が大勢見られる。
そんなまぼろしの名番組・赤胴鈴之助が、1970年代に復活した。漫画の 『赤胴鈴之助』は、過去の映画もテレビも実写作品だったのに、1972年4月5日~1973年3月28日にフジテレビ系列で放映されたものは、アニメでリメイクされた(全52話)。 やはり、過去に放映されたテレビの実写ものは、ラジオほどには受けなかったので、小さな子供向けに、アニメでリメイクしたのだろう。声の出演は、赤胴鈴之助 を山本圭子 、さゆり を、童謡歌手で名高かった小鳩くるみ がしていた。
主題歌は、オープニング は、「がんばれ!赤胴鈴之助」(作詞:藤島信人、作曲:金子三雄、編曲:渡辺岳夫、歌:東京城北少年少女合唱団) 、エンディング は、初代「赤胴音頭」(作詞:東京ムービー企画部、作曲:渡辺岳夫、編曲:松山祐士、歌:加世田直人、ハニーナイツ) 、二代「赤胴真空斬り」(作詞:東京ムービー企画部、作曲:渡辺岳夫、編曲:松山祐士、歌:ボーカル・ショップ) である。
このテレビアニメでの主題歌、「がんばれ!赤胴鈴之助」、「赤胴音頭」、「赤胴真空斬り」の懐かしい歌が以下では、当時の放送時そのままの音声で聞けるのが嬉しいよ。
アニメ・特撮館 ・赤胴鈴之助  放映記録1972.4.5~1973.3.29 全52回
http://www.komatomo.com/tv/anime/akado/index.html
後年、「週刊漫画タイムス」において、青年になった鈴之助が性に目覚めて悶々とする続編が描かれているそうだ。同じ竹内つなよし本人による作品だが、絵柄は全く違う劇画タッチになっているようだが、どんなものか、私は見ていないので知らない。また、竹内の『少年ジェット』もテレビドラマ化されて文字通り一世を風靡したというが、これも私は見ていないので良く知らない。ただ、赤胴鈴之助 だけは、記憶に深く残っているよ。
(画像は、赤胴鈴之助 1 武内つなよし
少年ジェット 武内つなよし著
http://www3.zero.ad.jp/poseidon/TVG/jet.html
赤胴鈴之助 武内つなよし
http://www3.zero.ad.jp/poseidon/TVG/red.html
アニメ・特撮館 ・赤胴鈴之助/「ガンバレ赤胴鈴之」「赤胴音頭」「赤胴真空斬り」 の当時の懐かしい歌が聞けるよ。
http://www.komatomo.com/tv/anime/akado/index.html
思い出の映画「赤胴鈴之助だあ!」/当時の可愛い吉永小百合のラジオ放送スナップ写真が見れるよ。http://www.asahi-net.or.jp/~uy7k-ymst/wakatai/akadoumu.htm
格闘漫画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E9%97%98%E6%BC%AB%E7%94%BB
大蔵映画 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%98%A0%E7%94%BB
吉永小百合ホームページ
http://homepage3.nifty.com/fwhj5337/
二木紘三のWebサイト「赤胴鈴之助」
http://www.duarbo.jp/versoj/v-douyou/akadousuzu.htm
梅若正二 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/110196/index.html



永井荷風の『濹東綺譚』連載開始

2007-04-16 | 歴史
今日は何の日~毎日が記念日の歴史を見ると、”1937(昭和12年)年 「朝日新聞」で永井荷風の『濹東綺譚』が連載開始 された。”・・・とあった。
濹東綺譚(ぼくとうきたん)は、永井荷風の小説の中でも最高傑作とも呼ばれている。挿絵木村荘八が描いている。1936年に執筆され、1937年(昭和12年)に私家版として発表。同年、朝日新聞に連載され、岩波書店から単行本が刊行された。
荷風は、1879(明治12)年東京小石川士族の長男として生まれた。本名は壯吉。号は断腸亭主人、金阜山人。1908(明治41)年、アメリカ・フランスなど外遊帰国後に『あめりか物語』(1908年)、 『ふらんす物語』(1909年)を刊行して耽美派(たんびは)作家としての地歩を固めるとともに、1910年kら1916年まで、慶應義塾大学教授となり、「三田文学」を主宰。しかし、文明開化の日本も明治になって40年経つとずいぶん豊かになり成熟しては来たが、荷風には目の前の明治の日本が、ただ西洋文明の粗悪浅薄な模倣に汚染され、日本の社会の上・中層には虚飾と偽善、功利が満ち溢れているようにしか見えなかった。そして、荷風が眼前の東京の中で、わずかに心を寄せえたものは破壊されてゆく「徳川時代の文明」の名残りをなお細々と今に伝える庶民のつつましい暮らし花柳の小世界、そして、江戸以来の山の手・下町の緑や水の景観であった。荷風がもともと好きだった江戸の偽作文学や浮世絵の世界に改めて深入りしてゆくのは、慶応義塾大学への通勤途上、大逆事件(1910年)により幸徳秋水らを運ぶらしい「囚人馬車」を目撃をしたのが1つのきかけであったらしく、そんな軽薄な日本の近代文明を嫌悪して、明治末から大正初めにかけて彼は江戸人情本の翻案ともいうような作品を幾つか試み、春信・北斎・歌麿などの浮世絵や歌舞伎を論ずる評論を次々発表し、そして、大正3年から翌年にかけて、荷風は日和下駄(ひよりげ)に蝙蝠傘の出で立ちで、木版の切絵図を手に、東京市内に残る江戸風景の面影を自分の足でつぶさに再吟味してまわったという。『日和下駄』(一名東京散策記、随筆、1915年発刊)は、工業化しスラム化する東京の中にあって尚江戸の都市美とその生活の陰影を伝える市内の淫祠(いんし)・樹・寺・水(掘割・隅田川・溝川など)・路地・閑地・崖・坂・夕陽(附富士遠望)などの現況を、新旧対比しながら検分した記録である。それ以降、花柳界娼婦の世界を描いた『腕くらべ』(1918年)、『つゆのあとさき』(1931年)、『濹東綺譚』(1937年)を発表した。また、死の前日まで、実に42年間にわたる日記『断腸亭日乗』(一部は1947年刊『荷風日歴』)を残している。近代日記文学の最高峰といわれる『断腸亭日乗』は、荷風文学中の圧巻であり、天候、出かけた場所、会った人物、会話の内容や世間の噂、女性との関係、読んだ本、書いた原稿、買物の値段をはじめ、印象に残った事柄が克明に記されている。
この荷風の日記『断腸亭日乗』によれば、「昭和十二年四月十五日。晴れたる空暮方に至り俄にかきくもりて、雨そそぎ来る。燈刻銀座不二氷菓舗に飯して帰らむとする時雨車軸を流すが如し。三丁目ふじあいす地下室に入るに安東氏在り。千香女史ついで来る。拙作『綺譚』朝日紙上に出でたりと云ふ。帰途新橋にて清潭翁の来るに会ふ。夜半雨霽る。(▼[欄外朱書] 『濹東綺譚』此日ヨリ『朝日新聞』ニ連載)とあるようだ。(以下参考に記載の「『摘々録 断腸亭日乗』永井荷風の日記」参照)
どうもこれを見ると、 4月16日「朝日新聞」で連載開始 となっているが、東京朝日新聞には朝刊ではなく夕刊に連載されたものらしので、恐らく15日付け夕刊に連載が正しいのではないか??。まあ、読む人は16日あさということになるのだが・・。
また、荷風が『濹東綺譚』の舞台となる、玉ノ井を初めて訪れたのは、1932(昭和7)年の1月のことのようである。以下参考に記載の「『摘々録 断腸亭日乗』永井荷風の日記」を見ると、「昭和七年一月廿二日の条に、「陰暦十二月の十五夜なるべし、枯蘆の茂り稍まばらなる間の水たまりに、円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもかゝれぬ眺めなり、四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺島町の陋巷なり、道のほとりに昭和道玉の井近道とかきたる立札あり、歩み行くこと半時間ばかり、大通を中にしてその左右の小路は悉く売笑婦の住める処なり、小路の間に飲食店化粧品売る小店などあり、売笑婦の家はむかし浅草公園裏に在りし時の状況と更に変るところなし、立寄りて女のはなしを聞くに、玉の井の盛場は第一区より第五区まであり、第一区は意気向の女多く、二区三区には女優風のおとなし向が多し、祝儀はいづれも一二円なりといふ、路地を出るに商店つゞきたる道曲り曲りて程なく東武鉄道の停留場に達せり、電車より昇降する人甚多し、江東の新開町にて玉の井最繁華となりと見ゆ、雷門より市内電車にて銀座に至れば夜は既に八時なり、オリンピク洋食店に入るに、偶然番街のお歌の丸髷の女連と共に来れるに逢ふ、食事して後別れて酒館太訝に立寄るに、清潭翁市川八百蔵と共に在るを見る、十一時過家に帰る、空俄にくもりて雨となりぬ・・・」と非常にその様子を克明に書いてる。そして、以下参考の「台東区ゆかりの文学者」の「台東区と文学永井荷風」を見ると、それ以来、特に1936(昭和11)年3月頃より、荷風は足繁く玉ノ井に通うになり、やがて,同年9月7日の日記には「今年三四月のころよりこの町のさまを観察せんと思立ちて、折々来りみる中にふと一軒憩むに便宜なる家を見出し得たり」と書き付けるようになる。そして、同日の「日記」にはその「家」の「女」について、「女はもと洲崎の某楼の娼妓なりし由。年は二十四五。上州辺の訛あれども丸顔にて眼大きく口もと締りたる容貌(きりやう)、こんな処でかせがずともと思はるゝ程なり」と書いているが、この描写は『濹東綺譚』冒頭に掲げたお雪の「容貌」とよく似ており「日記」と『墨東綺譚』のその他の部分とを読み合わせても、荷風は「女」をモデルにお雪を造型したことは間違いないようである。荷風がこうして「憩むに便宜なる家」とその「女」について書いたその2週間ほど後の20日には,喜ばしげに「この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり」と書いており、その「小説」が『墨東綺譚』であることはいうまでもない。」・・としている。
『墨東綺譚』は、銘酒屋街(私娼窟)である玉の井を舞台に、主人公の「わたくし」(小説家・大江匡)が、小説の取材で玉ノ井を訪れた際、たまたま俄雨に遭う。季節は梅雨時。『日和下駄』に、「人並みはずれいて丈(せい)が高い上に私はいつも日和下駄をはき手に蝙蝠傘を持って歩く。いかに晴れた日でも日和下駄に蝙蝠がなければならぬ」というように、主人公は長年の習慣で、当然のごとくに洋傘を手にしていた。彼が差した傘に「檀那、そこまで入れてつてよ」と真っ白な首を突っ込んで来たお雪と偶然知り合った。それがきっかけで、その女つまり、主人公とは、親子ほど歳が離れた娼婦・お雪とのはかない恋が生まれ、数ヶ月で散っていくさまを描いている。昭和11年4月ごろから墨東の玉の井(現在の東向島)の私娼街に毎晩のように通い、自らの体験を小説にすることを思い立つ物語の主人公「わたくし」とは、永井荷風の分身であろうことは間違いない。だが、荷風がお雪のモデルとなった「女」と知り合ったのは、こうした偶然からではなかったことは、『断腸亭日乗』にも書かれている通りである。本書で荷風が描くところの小説家・大江は、荷風の分身ではあるが、極めて虚構性・匿名性の強い人物で、大江の書く小説を物語の中に挿入するという2重構造により、一層それが際だっている。その虚構性が、やはり虚構の世界に生きる娼婦の姿と感応して、写実的でありながらファンタジックな雰囲気を醸し出しているともいえるだろう。この作品の評価を高めた原因には、木村荘八による詩情あふれた挿絵によるという意見も多い。
なお「濹」は永井荷風が、江戸時代の漢詩人の造字したものを発掘して使った漢字で、隅田川(墨田川)を指しているそうだ。
永井荷風の没後一周年を記念して、豊田四郎監督が同名で「墨東綺譚」(1960年)を映画かした。お雪は山本富士子 が演じている。山本富士子のような余りにも美しい女性が、遊郭に身を落とした不幸せな人間を演じると余計に哀れを誘うよね~。1992年には新藤兼人監督により、墨田ユキ、津川雅彦 ら主演で映画化されている。
(画像は、濹東綺譚 さし絵。向島の玉の井を舞台にした永井荷風の濹東綺譚 は、昭和12年に「朝日新聞」に連載。木村荘八画。週刊朝日百科「日本の歴史」より。)
濹東綺譚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B9%E6%9D%B1%E7%B6%BA%E8%AD%9A
台東区ゆかりの文学者
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/bungaku/index.html
『摘々録 断腸亭日乗』永井荷風の日記
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/dannchoutei.html
tokyokidの【書評】日記 - 書評・濹東綺譚
http://d.hatena.ne.jp/tokyokid/20070225
墨東綺譚(1992) - goo映画 監督:新藤兼人、出演: 津川雅彦 、墨田ユキ
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27657/index.html
映画「墨東綺譚」(1960年)監督: 豊田四郎、出演: 山本富士子, 芥川比呂志
http://movie.ontvjapan.com/RatingUserList/movie/139541
濹永井荷風の足跡をたどる
http://www.tokyo-kurenaidan.com/kafu-10.htm