今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す

2007-11-25 | 歴史
1557(弘治)3年の11月25日の今日、毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す。(後に「三本の矢」の話として伝えられる。 )
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、後世、戦国時代最高の名将の一人と評されている。
1497(明応6)年、安芸の国吉田で毛利弘元の二男としてで生まれ、20歳のとき初陣で、「有田中井手の戦い」(後世「西の桶狭間」といわれた)に勝利し、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎えている。
27歳で毛利の本家をついだ元就は、50代半ばまでは、周防(今の山口県)の大内氏と出雲の尼子氏の間で領国を守ることに終始した。中でも、1540(天文9)年~1543(天文12)年にかけての尼子晴久率いる2万の尼子軍に本拠地吉田郡山城攻め(吉田郡山城の戦い)と、大内義隆に従っての出雲国の月山富田城への侵攻(第1次月山富田城の戦い)は、元就にとって大きな危機であった。元就は1555(弘治元)年59歳のとき、陶晴賢と対決した「厳島合戦」の2年後、1557(弘治3)年に、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功。中国地方の大大名となる。この年、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。ただし実権は元就がなおも握り、吉川元春(次男)と小早川隆景(三男)による『毛利両川体制』を確固たるものとしていった。隠居に際して同年11月25日の今日『14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)をしたため、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」の逸話の基となったとされている。
「一本の矢はすぐ折れても三本の矢を折ることは難しい。この矢のように、お前達も1人づつでは力が弱い」
この「三矢の訓」(さんしのおしえ)は、兄弟の争いを戒める例としてとくによく知られた話である。
確かに、骨肉相食む(あいはむ)乱世にありながら、元就の3人の子供は、争うことなく、助け合い、毛利の名を天下に高らしめ、戦国諸大名の羨望を集めた。更に、戦国の世を潜り抜けた毛利家は、その後の豊臣政権、徳川政権の下でも巧みにその家を守り、幕末には維新の志士達を輩出させ、明治の世には徳川家に勝る権勢を掌中にしている。この毛利家の繁栄とその生命力は、「三矢の訓」がもたらしたものだといわれている。しかし、この三本の矢の話が事実であることを証明する記録はどこにも残されておらず、しかも、毛利元就とは、相手を倒すのに手段を選ばず、また、いささかも情に流されない戦国武将であったという。
「能も芸も慰めも道たても本路たても、何もかもいらず候。ひとえにひとえに武略・計略・調略かたの事までに候々」「はかりごと多きは勝ち、少なきは敗け候と申す」(毛利家文書413)
「三矢の訓」は、中国の『西秦録』(せいしんろく)という書物に見える故事をもとに江戸時代になって三子教訓状と関連させてつくられたもののようだが、元就が日頃から3人の協力を説いてやまなかったことは書状からも窺える。
強大な権力を築くことの難しさは国人から身を起こした戦国大名が負わざるを得ない宿命である。西国の雄元就も、この宿命に苦悩し続けた1人である。元就の結論は晩年自らが述べているように「計略こそが唯一の道である。」と言うことである。
強力な権力を持たない毛利氏にとって、血縁的な紐帯(じゅうたい)の強化が独立性の強い国衆に対する最も有効な対抗手段だった。そのため、元就は安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家に次男、三男を養子に送り込み他家の乗っ取りを果たした。しかし、家督を譲った長男隆元は15歳から3年余り大内氏へ人質として預けられ、元服して、義隆からその名をもらったのだが、この時、西の京都といわれた山口の優雅な公家文化に浸っており、書画修業にも励み文化人としての素養はあっても武将としては優柔不断であったようであり、武将としての一層の鍛練を求めている。軟弱な当主では、厳しい戦国の世を乗り切れないという父親の思いが伝わってくる。また、武略一筋で中国地方一帯の覇者となった知将元就は苦労人の細心さで隆元ら三子の結束を説いた教訓状も残したのである。
(画像は、毛利元就 。防府毛利報公会蔵。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
毛利元就 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
中国新聞 毛利 元就
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/index.html
毛利元就とその一族を探求する「安芸・毛利一族HomePage」
http://fukubara.web.infoseek.co.jp/2003a/2003_6_8.htm
戦国毛利氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/index.html
毛利元就 (NHK大河ドラマ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
毛利博物館
http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/
[図説]歴史の意外な結末
http://books.google.com/books?id=EDyuvZjoww4C&pg=PA48&lpg=PA48&dq=%22%E8%A5%BF+%E7%A7%A6%22+%22%E4%B8%89+%E6%9C%AC+%E3%81%AE+%E7%9F%A2%22&source=web&ots=Y6YCUpOpkW&sig=SAcQpcP6iWT_ocwaK2Rl37Ii6zI#PPA47,M1

東京天文台設置記念日

2007-11-24 | 記念日
今日(11月24日)「東京天文台設置記念日」
1921(大正10)年の今日(11月24日)、東京都麻布区板倉(現在の港区麻布台)に東京天文台が設置された。
1878(明治11)年に東京帝国大学(現・東京大学)構内に作られた理学部星学科観象台を母体とし、旧内務省海軍省の天文関係業務を統合して設立された。1924(大正13)年に、都会の明るさのために観測が困難になったことから、郊外の三鷹市に移転。1988(昭和63)年に、東京大学附属東京天文台から文部省(現在の文部科学省)附属の天文台に移管された。
天文学の起源はを作ることから始まったと考えられている。人類が農耕を行うようになると、農作物の栽培や収穫に最適な時期を知るために1年周期の季節変化を正確に把握する必要が出てきたからである。
日本の天文学は主に中国の天文学が移入され、それが発展した。6世紀頃の飛鳥時代百済から渡来した人々が中国の暦を日本に伝え、日本でも暦法が行われるようになった。暦は9世紀半ばまで、その時々の中国の暦を採用していたが、遣唐使の廃止などによって中国との往来が途絶えると、862(貞観4)年の宣明暦の採用を最後に改暦は長く行われなくなった。これによって暦の誤差はその後800年にわたって累積することとなったが、江戸時代の天文学者渋川春海が中国のの暦を元にして貞享暦を作り、改暦を行った。この功績によって春海は江戸幕府に新設された天文方の職に就き、幕府の公設天文台として「浅草天文台」が設置された。(以下参考に記載の「伊能忠敬図書館 /写真資料室」参照)これ以後、朝廷の陰陽寮が行ってきた暦の編纂は幕府主導で行われるようになった。そして、この時より、幕府天文方の浅草天文台で継続的に星の観測をするようになった。
江戸中期には、西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいという将軍徳川吉宗の強い意向を受け、改暦の準備が始めら、幕府天文方には吉宗の要望を実現するに足るだけの人材が集められると同時に、西洋天文学がこの組織の中で盛んに研究された。この流れの中で、在野の天文学者でありながら独自の計算で日食を正しく予報したりケプラーの法則を独立発見した麻田剛立や、剛立の弟子で後に幕府天文方となった高橋至時などが現れた。至時はケプラーの楕円軌道理論を取り入れた寛政暦を1798(寛政10)年に編纂し、また伊能忠敬の師として彼の日本地図作成を助けた。伊能は、幕府天文方が西洋の知識を導入する過程で求めていた天文・地理情報を実測によって提供するために、精密な日本地図作りに励んだのである。
明治維新以降になると西洋天文学が本格的に日本にもたらされたが、工業化とは直接的には無縁であった天文学は他の科学に比べて新政府の関心は低く、江戸幕府の天文方が廃止されて、陰陽寮が日本の天文暦法の一切を統括するなど明治当初には却って危機的状況に置かれていたが、太陽暦の導入や新設の海軍省から航海上の安全確保の観点から西洋天文学導入の必要性を訴える意見が出た事によって、政府も天文学研究に本腰を入れるようになった。
江戸幕府の洋学所をルーツとする東京開成学校が東京医学校(以下参考に記載の「旧東京医学校本館」参照)と合併して1877(明治10)年に東京大学が設立され、日本で初めての近代的な大学が設立された。また、設立と同時に、理学部星学科が設置され、翌1878(明治11)年には理学部学生の実習用に天文台として星学科観象台が作られた。1882(明治15)年には天象台と気象台に分離されて前者のみ東京大学にとどまった。
因みに、1875(明治8)年6月から東京府第2大区(のち赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門2-10ホテルオークラのあたり)で気象業務を開始(気象庁の前身東京気象台、当初は、御雇外人ジョイネルが一人で担当して地震観測と1日3回の気象観測を開始)していた。日本で「天気図」が毎日作られるようになったのは、1883(明治16)年2月16日からで、東京天文台が各地の気象観測の結果を電報で集め、暴風の可能性があるときに警報を発表する業務を始めてからである。一般国民が毎日「天気図」を見られるようになったのは、1924(大正13)年8月21日の「国民新聞」に掲載されてから。同時に「台風経路図」が載ったのが好評で、その後、掲載紙が増え、次第に専門家のものだった「天気図」が国民にも親しまれるようになった。
1886(明治19)年3月2日に帝国大学令(以下参考に記載の「中野文庫 - 帝国大学令」参照)が施行されると、高等教育機関の改組・改称が行われ、東京大学理学部も帝国大学理科大学と改称され、その7学科の一つとして星学科が開設された(大学制度の実質的な変化は伴っていない)。
1888(明治21)年天象台が麻布飯倉に移転して東京天文台(改称) となるに及んで星学教室も同所に移った。1924(大正13)年に東京天文台は三鷹に移転したが、星学教室は同所に留まった。この間1919(大正8)年に理科大学は再び理学部に改められ星学科は天文学科と改称、1921(大正10)年には、東京天文台が理学部を離れて東京大学附置の研究所となる。
1988(昭和63)年、東京大学東京天文台は水沢の緯度観測所(以下参考に記載の「緯度観測 ・水沢観測所木村記念館」参照)などと一緒になり、国立天文台となり、さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっている。
海外のハワイ観測所などいくつかの観測所や、三鷹キャンパスなどで研究活動を行っており、総称として国立天文台と呼ばれており、本部は三鷹キャンパス内にある。
国立天文台三鷹キャンパスは年末年始を除く期間自由に公開施設を見学可能だそうである。(国立天文台三鷹キャンパス常時公開参照)
(画像は、「明治十六年(1883)十月三十一日 太陽金環触の圖」国立天文台 三鷹図書室より。拡大図等他の貴重資料も国立天文台 貴重資料でみれます。)
参考:
国立天文台
http://www.nao.ac.jp/index.html
国立天文台 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%8F%B0
東京大学大学院理学系研究科天文学専攻・理学部天文学科/天文学教室の沿革
http://www.astron.s.u-tokyo.ac.jp/history.html
Category:廃止された日本の国家機関
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%A9%9F%E9%96%A2
天気図 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B0%97%E5%9B%B3
伊能忠敬図書館 /写真資料室
http://www.tt.rim.or.jp/~koko/salon.html
国立天文台 三鷹図書室
http://library.nao.ac.jp/Default.htm
旧東京医学校本館
http://www.geocities.jp/bane2161/kyuutoukyouigaxtukou.html
文部科学省・学制百年史 [第一編 第五章 第二節 一]
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_140.html
気象庁の歴史
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html
國民新聞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E
気象に関する用語
http://www.kishoyoho.net/yougo4.html
中野文庫 - 帝国大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-3.htm
東京天文台
http://www.intwk.co.jp/YAMADA/build2b/tenmon.htm
緯度観測 ・水沢観測所木村記念館
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s293-10ido.html

外食の日

2007-11-23 | 記念日
今日(11月23日)は、「外食の日」
日本フードサービス協会(ジェフ)が1984(昭和59)年に制定。
家族で外食することの楽しさを知ってもらおうと「勤労感謝の日」に制定したそうだ。
家庭の外で食事を提供するサービス業外食産業と呼ばれている。
広義の外食は、主として食事を提供する業種が全て含まれるとされている。広義にのみ含まれる業種として、調理済みの弁当、惣菜の販売などの「中食」や、出前、デリバリー形態の販売、イベントや飛行機の機内食などの大人数分の仕出し(ケータリング)、工場などの社内食堂や病院など給食業務を請け負う事業がこれにあたる。
狭義の外食は、食事をする空間とともに食事を提供する形態の業種を指し、食堂レストランファーストフード喫茶店(カフェ)など一般に「飲食店」と称する業種がこれにあたる。 ここで行っている「外食」は、ここで言うところの狭義の外食を指しているのだろう。
日本における狭義の外食の原型「茶屋」が登場したのは室町時代であり、また、江戸時代に飲食店が現れ始めたのは明暦の大火(1657年)以降であるといわれている。江戸の町には各地から多くの人々が移住してきたが、その多くは単身の男性であったこと、また参勤交代により妻子を故郷に残して江戸へやってきた武士が多いこともあって、外食の需要が多かった。そうした人々を相手に、簡易な外食の手段として振り売り屋台店が現れ、店を構えた「飯屋」も登場し、例えば元禄時代の浮世草子人形浄瑠璃作者であった井原西鶴の遺稿集「西鶴置土産」によれば、1657(明暦3)年に浅草金竜山(浅草寺)に出店した飯屋の奈良茶(茶飯、豆腐汁、煮しめ、煮豆のセットメニュー)が人気を博したようで、「中々上がたにもかかる自由はなかりき」と評しているという。一般的には、この奈良茶飯の店が料理屋の元祖とされているようである。
中期から後期にはそば屋や居酒屋、また、留守居茶屋(大名がいない間、大名屋敷を預かる留守居役を相手とした高級茶屋。会席料理を出していた)などの業態が登場するが、特に明和8年(1771年)に、深川洲崎で営業を始めた升屋は、料亭の元祖といわれているそうだ。
江戸時代から明治に代わり、文明開化の名の元、西洋文化が取り入れられる中、食文化も「洋食」が本格的に流入すると、外食も急速に多様化し、1867(慶応3)年には早くも外神田神田に三河屋久兵衛の「三河屋」という西洋料理店が出現し、1868(明治元)年には大衆相手の牛鍋屋「太田なわのれん」が誕生。その後、「小川軒」、「東洋軒」、「精養軒」などといった今で言う洋食レストランが次々と開業して話題となる。また、1879(明治12)年には中華料理店の永和斉(王斉)が東京築地入舟町で開店し、1899(明治32年には新橋に日本初のビヤホールとして「恵比寿ビール Beer Hall 」が登場する。大正期に入ると、外食が日常化してくる。
これらの業態は、個人による生業(なりわい)的なものがほとんどで、「のれん分け」による支店としての関係にとどまっていたが、1960年代にアメリカで起こったフランチャイズブームをきっかけに、日本にもフランチャイズ形式の店舗不二家(レストラン)が登場。1968(昭和43)年には、回転寿司の元禄寿司が大阪にオープンした。
ファーストフードについては、1970(昭和45)年、大阪日本万国博覧会会場にケンタッキーフライドチキンが出店。翌・1971(昭和46)年7月20日には、東京・銀座の三越デパート1階にマクドナルド1号店がオープンした。当日は丁度、日曜日、歩行者天国をふらつく若者たちに人気を集め、1個80円のハンバーグや1杯60円のコカコーラが飛ぶように売れた。以後わずか73平方メートルの店舗に連日2000人からの客が押し寄せたという。1号店は郊外がよいというアメリカ側のアドバイスを蹴って、銀座での開店に固執したのは日本マクドナルドの藤田田(でん)社長であった。藤田は、マクドナルドのハンバーガーとは新しい文化であり、新しい文化を受け入れるのに最適の地は日本では銀座をおいて他にはないと確信していた。そして、日本初の本格的なファーストフード店は見事成功した。同年にはミスタードーナツも第1号店を出店。1973(昭和48)年には牛丼をメイン商品とする吉野家が神奈川県小田原市にフランチャイズ第1号店を出店。ファミリーレストランは1970(昭和45)年に、すかいらーくロイヤルホストが出店している。
現代の外食産業が大きく発展した理由のひとつには、このような、ファーストフードやファミリーレストランの出店が上げられる。 チェーン展開やフランチャイズ形式で、どの店でも同じ味、同じサービスを、しかも手頃な価格で味わうことができるようになり、若い人たちや新しいファミリー層の支持を受けて外食がより身近な存在になったため飛躍的に発展してきた。
しかし、1979(昭和54)年ごろになると、郊外レストランやハンバーガー、ピザなど外食産業全体に、低価格を売り物とした動きが活発になった。値段と味に対する消費者の選択が厳しくなる一方で、大手のチェーン展開もここに来て急速に広がり、競争が激化したためで、成長産業ともてはやされた外食産業は早くも「生き残り時代」に突入したようだ。大手企業のうち、1979(昭和54)年春以降メニューの値下げに踏み切ったのは、ハンバーガーの日本マクドナルドとファミリーレストランのすかいらーく。マクドナルドの値下げは1971(昭和46)年にハンバーガーに進出して以来始めてのことであった。それでも全体として成長してゆくが、1998 (平成10)年ごろからは、長く続く厳しい生活環境のなかで、全体としては、売り上げが減少してゆくが、2003(平成15)年では、まだ、外食産業全体で25兆円以上の販売額を示している。その内訳中、食堂・レストランなどの飲食店等が16兆円、居酒屋などの料飲主体では5兆4千億円を締めている。以下参考に記載の「食育・食生活指針の情報センター」の外食・中食産業の中の資料 「外食産業の市場規模〔PDF 112KB〕」を参照)
先に述べたように、広義の外食には中食(なかしょく)も含まれるわけであるが、ここに来ての全体的な外食産業の伸び悩みの中、中食などの調理食品への支出が増加しきている。
中食産業は、核家族化、個食化、家庭での料理の簡便化などから、また、外食ほど経費がかからないこともあり、年々市場規模を拡大してきているようで、2003(平成15)年には、推定で約6兆1千億円と、外食産業の4分の1の規模にまで達するようになったという。
以前、ある食品スーパーの社長から、聞いたことがある。今は、「外食産業とメーカーの競争の時代である」・・・と。今、冷凍技術なども非常に進歩し、高級レストランの味が冷凍食品でも味わえるようになってきた。私の街は昔は、神戸でも有数の商店街だったが今は他の都市と同じ様にダウンタウン化しているが、食べることに関しては非常に便利なところである。商店街には、非常に惣菜屋さんが多く、しかも安い。100円均一の惣菜屋も数件あり、それぞれが味を競っている。私等のように年をとった2人っきりの夫婦にとっては少量の食事を作るより買う方が安い。
今テレビの番組は、クイズとグルメの番組ばかりである。どちらも局にとっては金のかからない番組だろう。クイズなど視聴者が見ていても判らないような難しいクイズを出題していたら誰も見なくなってしまう。程ほどの簡単なクイズを見てそれを判ったといって視聴者は喜んでみている。そんな簡単なクイズに答えられない芸のないタレントなどがとんでもない答えをして失笑を買うと、私より馬鹿な人が大勢いると視聴者は少し賢くなった気持ちで楽しくなる。昔、まだ、日本でクイズ番組が余りなかった時代アメリカではクイズ全盛で、いずれ日本もクイズ番組ばかりになるだろうといわれていたがその通りになった。アメリカへ行って堕落した社会や現象を見て帰って来ると良い。かならず後追いで日本もそうなるから。少々頭の悪い芸のないタレントなどを安く使えて番組を作っている局も安上がりで番組が作れて儲かる。
私が、今では超一流のチェーストアーとなっている会社のえらいさんに、昔、聞いた話だが、高い高いコマーシャル料を払ってCMを流しているのはもっともつまらないという。本当に効果のある宣伝は、新聞の記事にしてもらったり、テレビの番組で放送してもらうことだ。グルメ番組で言えば、普通の人が羨むような高級料亭だとかレストランなどグルメを食べさせてくれるところは取材をして貰うだけで物凄い宣伝になる。その広告料をお金に変えれば幾らになるか・・・。番組の取材のために必要な経費ぐらい全てもってもCM料と思えばお釣りが来るだろう。番組に出演するレポーターは、何も味などわからなくても、ただ、目をむいて「美味しい!」とだけ、感嘆詞を述べればよいのである。それで、その後、どっと、客が増えるだろう。番組を作る曲も、「ただ美味い!」とだけ目をむきながら感嘆詞が述べれる出演料の安い名前だけ知られている人やベテラン俳優などでも本職の合間にちょっと美味しいものを食べてお小遣い稼ぎぐらいをしてくれる人を使えばよいのである。これで、番組を作る局側も、グルメを提供している料亭やレストランも、ちゃんと算盤が合うのである。そんなのを見ている人も満足しているのであれば・・。
最近大阪の名門料亭吉兆 の偽装問題がマスコミを賑わしている。吉兆 など私等貧乏人はなかなか行けないが、世の中のお金のある人はこのような料亭や祇園・赤坂などのお座敷や料亭で飲み食いは、先ず、核のある店で食べることイコール格のある人のい証であること。また、そういうお座敷での飲み食いは、その場でどんなことがあってもその秘密が外には洩れないことが一番の信用となる。だから、政治家などはそのような場所で密会をするのである。他にも、最近は食品関係に偽装問題が頻発しているが、それを食べている人たちは、何もそのことに気付かず美味しいと思って食べている。要するに、味など本当はわかっておらず、その店の名前や品名でで美味しいと思って食べている人が多いのである。
私が、現役時代、マクドナルドの社長であった藤田田氏の公演を聞いたことがある。現役時代の会社が毎年やっている幹部を対象にした勉強会に藤田氏が講師として呼ばれたときの話である。藤田氏曰く「私は、マクドナルドのハンバーグなど食べないよ。だって、本当は美味しいはずがない。そんな食べて美味しいような材料は使っていない。ただ、それを、食べて美味しいと思わせているんだよ。だから儲かるんだよ」・・・と言っていた。この話には飲食店の原点があるようだ。飲食の基本は何をどのようにして美味しく食べさせるかが問題で、100g1万円もするような肉を使っているステーキが不味かったら困るよ。それを食べたレポーターが「美味しい!」の感嘆しだけでは困る。我々庶民が食べているような100g何百円の肉のステーキと比較して、その値段差がどれくらい違うのかを述べてもらわないとこちらには味の差がわからない。私などに言わせれば、そんなに高級な材料を使わなくてもそれを調理する方法や技術によって、如何に美味しく食べさせてくれるか(感じさせてくれるか)。そして、如何に他より安く食べさせてくれるかが、外食をサービス業としてやっている人たちの本当の責務であろうと考えるのだが・・・。
今日本のグルメ番組は、なかなか庶民が口に出来ないような高級食材を使っての料理をおいしいといって紹介している。そんなことは紹介してもらわなくてもわかっている。
世界一の財政赤字(借金)国日本の国民にはそのうち、どっと、その借金返済のための税金が押し付けられるだろう。今、政府はその地ならしの工作を一生懸命やっている。前にも書いたが、死に掛けの年寄りから、今生まれたばかりの赤ちゃんを含め1人当り700万円近い借金を国にしていることを忘れないで、グルメを楽しんで置いてください。私等年金生活者はそのうち、外食どころか、家での食事も控えめにしなければならない時代が目の前に迫っている。でも、今日は勤労感謝の日日。私が現役を退き、勝手な毎日を過しているが、家人は、毎日家事、炊事と現役を続けている。今日は家人への勤労感謝の気持ちを込めて、せめて家の近くで、昼食ぐらいは普段よりちょっと良いものを食べることにしようかな。
〔画像は、1971年7月20日東京・銀座の三越1階にオープンしたマクドナルド1号店。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
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外食の日:参考

2007-11-23 | 記念日
参考:
日本フードサービス協会
http://www.jfnet.or.jp/
外食産業 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%A3%9F%E7%94%A3%E6%A5%AD
明暦の大火- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
「奈良のうまいもの」万葉弁当について
http://www.pref.nara.jp/norinbu/umaimono/recipe/manyou-bentou.html
留守居 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%99%E5%AE%88%E5%B1%85
[PDF] 「外食」の歴史
http://www.ndl.go.jp/jp/gallery/permanent/pdf/145.pdf
歴史の証人が語る日本の外食産業史
http://www.gaisyoku.biz/pages/serialize/fandr/fandr_01.cfm
近代日本における西洋文化の受容
http://www1.tcn-catv.ne.jp/rantei/syokubunka.htm
食育・食生活指針の情報センター
http://www.e-shokuiku.com/index.html
紀文・鍋歴史年表
http://www.kibun.co.jp/enter/nabe/n-rekisi_nenpyou.html
太田なわのれん
http://www.ohtanawanoren.jp/
廻る元禄寿司
http://www.mawaru-genrokuzusi.co.jp/top.htm
フランチャイズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%BA
不二家レストラン
http://www.fujiya-foodservice.jp/
歩行者天国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E8%A1%8C%E8%80%85%E5%A4%A9%E5%9B%BD
吉兆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%85%86

長野県りんごの日

2007-11-22 | 記念日
今日(11月22日)は、「長野県りんごの日」
JA長野県経済連(現在のJA全農長野)等が1999(平成11)年に制定。
長野県産林檎の主力品種が「ふじ」であることから「いい(11)ふじ(22)」の語呂合せと、「いい(11)ふうふ(22)」(いい夫婦)→「アダムとイヴ」→「林檎」との連想からとか・・。
長野県は、かつての信濃国にほぼ相当するので、「信州」(しんしゅう)と呼ばれることも多いが、面積は全国第4位だが、盆地・山が多いため、可住地面積では、海岸沿いの都市部の千葉県〔6位)と大差はない(長野県7位)。
信州の特産品というと、「信州蕎麦」や「信州味噌」を思い浮かべるが、りんごも特産品である。
♪りんごのふるさとは 北国の果て うらうらと山肌に 抱かれて夢を見た あの頃の想い出 ああ 今いずこに りんごのふるさとは 北国の果て ♪
「津軽のふるさと 」作詞:米山正夫・作曲:米山正夫 
二木紘三のうた物語: 津軽のふるさと
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_4159.html
この歌は昭和の大歌手美空ひばりの名曲『津軽のふるさと 』・・・。1953(昭和28)年、当時の映画『リンゴ園の少女』への挿入歌であるが、この歌には、同じ米山正夫の作曲になる『リンゴ追分』という名曲も使われている。津軽と言うのは、青森県西部の津軽平野のことであり、青森県は、日本最大のリンゴの栽培地であり、至る所にリンゴの果樹園がある。このような歌などでも有名なため、りんごと言えば青森などの東北地方を思い浮かべるが、信州長野のりんご収穫量は堂々2位なのである。(以下参考に記載の「生産地マップ・りんご」また「りんごに関する統計資料」参照)
2005(平成17)年の全国の品種別収穫量では「ふじ」「津軽」 「王林」「 ジョナゴールド」 「 陸奥」 「北斗 」「千秋 」「デリシャス系」「紅玉」 ・・といったところである。この中で、「ふじ」は、ずば抜けて生産量が多いが、この「ふじ 」は、1939(昭和14)年に青森県藤崎町にあった農林省園芸試験場東北支場(現在は1962年に移転統合され農林水産省果樹試験場盛岡支場)の主導で、弘前市の農業・斎藤昌美らの尽力で国光とデリシャスを交配させ生まれ、1958(昭和33)年に「東北七号」と仮称命名され、1962(昭和37)年に「ふじ」と命名されたものだそうだ。、現在では、生産量で世界一の品種となっている。品種名の由来は、藤崎町の「ふじ」からきているそうで、甘みが強く歯ごたえもよいし日持ちもする。日本で最も一般的に栽培され、日本国内のみならず海外にさかんに輸出されているが、世界的にも最も生産量の多い品種であることが2001年に米国人学者達による調査によって確認されたそうだ。この「ふじ」と「サンふじ」の違いは無袋で日光を十分に浴びさせて栽培されたものが「サンふじ」の名で出荷されており、品種そのものは全く同じである。最近は無袋栽培が盛んで、「サンふじ」は、外観や貯蔵性は「ふじ」に劣るが、甘さや香りにすぐれている。
私は、現役時代信州へは仕事で年に数回は出張していた。りんごは、土産には買ったことがなかったが、一度出張字に前夜に食べたものが合わなかったのか、その夜体調を崩し、下痢が止まらず、翌朝仕事先の紹介で診てもらった病院で、何も理由を言わずに強制的に入院させられたことがある。1日入院させられ何も食べさせてもらえなかったが、2日目には仕事仲間に引き取られ、解放されたが、どうも当時少し、流行っていた赤痢と間違えられたらしいが、誤診だったようだ。帰りに電車の中で、暫く何も食べていなかったので、果物屋さんでりんごを買って電車の中で食べたが、それがサンふじであった。お腹がすいていることもあったかもしれないが、このような美味しいりんごは初めて食べた感じであった。りんごは、仕事先の松本市で買ったが、果物屋が「松本産のりんごはダメですよ。これは信濃のりんごだから美味しいよ」と言っていたのを思い出す。それから 何回か仕事先の人に頼んでJAより直送で、時期のもぎ立てのりんごをを贈ってもらったが、本当に美味しかった。普通、りんごなども流通しているものは少し早めにもぎ取って、室で赤くして出荷する。私が頼んで贈ってもらったものは、完熟するギリギリまで木になっていたものを贈ってもらったので、家に送ってきたのは12月中旬以降であった。現役を退きもう送ってもらうのを頼める人もいなくなったが、今の時期になるとその完熟のりんごを思い出す。完熟のりんごは本当に美味しいよ。
旧約聖書に登場するアダムとイヴが、にそそのかされて、エデンの園にある禁断の果実(善悪の知識の木になる実)を食べてしまい、楽園から追放されたとあるが、その禁断の果実が「りんご」である。しかし、食べた果実がリンゴであるというのは、後の時代に創作された俗説である。当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、またその時代のリンゴは食用に適していなかったという。なお、あわてて飲み込もうとしたアダムが善悪を知る果実をのどにつかえさせ、これがのどぼとけの始まりであるとの故事から、男性ののどぼとけは「アダムのリンゴ」ともいわれる。 男子は思春期になると喉仏が目立つようになる。
りんごをイメージすると殆どの人は「赤いりんご」をイメージするのではないか。そして、「赤いりんご」・・と言えば、我々の年代のものなら、戦後の虚脱状態の中で並木路子が明るく歌いあげた大ヒット曲「リンゴの歌」を思い出すのではないか。
♪赤いリンゴに唇よせて だまってみている青い空 リンゴはなんにもいわないけれど リンゴの気持はよくわかる リンゴ可愛や可愛やリンゴ♪
作詞:サトウハチロー 、作曲:万城目 正
二木紘三のうた物語: リンゴの唄
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_5b00.html
この歌は、敗戦後2ヶ月目の1945(昭和20)年10月に封切られた戦後映画第l作。(GHQの検閲映画第1作でもある)「そよかぜ」(松竹・佐々木康監督作品)の主題歌である。私の親父が年中歌っていたので、私も覚えてしまった。
この曲を聴くと私は亡くなった親父の事をつい思い出してしまう。戦後の焼け野原になったなかで、将来の夢を見ながら必死に頑張って私達を育ててくれた。忘れられられない曲であり、明るい軽快なメロディーの曲ではあるが、私には何か切ない曲でもあるのである。今日は、我が家に法要のためお坊さんが来るが仏壇には他の果物と一緒に赤いりんごが供えられている。
(画像は、コレクションの雑誌「アサヒグラフ」美空ひばり追悼アルバム表紙より。画像は、ひばり主演の映画「リンゴ園の少女」1952年作のポスターだろう)
参考:
都道府県の面積一覧 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
長野県 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C
JA全農長野
http://www.nkeizairen.or.jp/
リンゴ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4
美空ひばり - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
二木紘三のうた物語: 津軽のふるさと
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_4159.html
二木紘三のうた物語: リンゴの唄
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/04/post_5b00.html
米山正夫 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E5%A4%AB
生産地マップ・りんご
http://www.kudamono200.or.jp/arekore/seisan-map/ringo/ringo.html
りんごに関する統計資料
http://www.ca-ringo.jp/toukei.htm
独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 果樹研究所
http://www.fruit.affrc.go.jp/index.html
リンゴ園の少女 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23580/index.html
Columbia Songs万城目正
http://www.columbia-songs.co.jp/composer/banjo.html