川向うって放送禁止用語なのよね
その経緯についてはもう今じゃ 歴史のごみに埋もれているだろうが
これを差別的に使った人を一人だけ知ってる
父が夫婦喧嘩のなかで母を川向うの育ち
と言ったのだ(だから幼児のまえでうっかりものを言ってはいけない)
これは 父が若者時代浅草に下宿したからでもある
浅草の人は自分の方がえらそうに そういう風潮があったらしい
(下町というと本所深川は川向うでも下町に入るという説が多い
寅さんの葛飾柴又は 諸説ある)
父は自分の生まれた横浜が一番都会的だと思って
自分はシティ・ボーイだったと思ってた風があった
(そういうところが実にくだらない と子供心に親をなめてたよ)
後に私も川向うの生まれ
深川住吉で生まれたと知ることになる
戦争の真っただ中 私をおなかに宿したせいで
母は病気になり 寝たきりで
運よくお産婆さんが裏に住んでいて産前産後 面倒を見てもらったそうだ
(母は親がなく伯父の家で育ってそこのおばさんとは折り合いが悪く
実の姉は富山にお嫁に行っちゃって頼る人もなかったのだ)
その深川に母の妹がいた(母は12人きょうだいで両親が早くに亡くなって
バラバラに育った その妹という人は養女に行って 戦後10年にして
初めて姉妹の対面をした)
その私から見ると叔母さん(今も千葉で健在)が群馬にお嫁に行って
深川にいた養母が病気で入院
養父にあたるおじいさんが一人で暮らさねばならなくなって
叔母さんが心配して
わたしにその家から高校に通って
おじいさんのご飯作ってあげて
ということになった
で どのくらい一緒に暮らしただろうか?
ちょっと待てよ 私 その時ご飯作ったんだ!
すごいな 家ではご飯作ったことなんかないよ
おじいさんは日課でよくお散歩に歩いた
わたしも歩いた
しまいにはおじいさんは一人歩かせて心配ないので
わたしは私の散歩
界隈を探検した
小名木川にかかる高橋とか
きれいな清洲橋とかがあるあたり
この橋は関東大震災の後の復興事業で作られたのだよ
だから 母よりちょっとだけ若い
ほとんど同い年の橋だ
上の写真は竣工当時のもの
その家には下宿がついていて
夜間高校に通う同い年の女の子がいた
すごくしっかりとした賢い女の子で
働きながら高校に通う 自活してる
すごい人と知り合ったことになる
お部屋に入り込んで色々おしゃべりもした
その深川界隈は小説にもよく出てくるし
現代美術館の近くでもある
↓ 深川めし