2012. 10/27 1171
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その11
「殿は、なほいとあへなくいみじ、と聞き給ふにも、心憂かりけるところかな、鬼などや住むらむ、などて今までさるところにすゑたりつらむ、思はずなる筋のまぎれあるやうなりしも、かく放ち置きたるに心安くて、人も言ひ犯し給ふなりけむかし、と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみくやしく、御胸いたく覚え給ふ」
――薫は、なんと儚くあっけないことだとお聞きになるにつけても、何という厭な土地であろう。鬼でも住んでいるのだろうか。どうしてまたあのような場所に、自分は浮舟を囲っておいたのだろう。思いがけない方面の間違い(匂宮とのこと)があるようだったことも、自分がこうして放っておくので、安心して匂宮もご無体にも言い寄られたのであろうと思うにつけても、自分の迂闊で世間知らずな性分がただただ口惜しく、胸が痛むのでした――
「なやませ給ふあたりに、かかること思し乱るるもうたてあれば、京におはしぬ。宮の御方にもわたり給はず。『ことごとしき程にも侍らねど、ゆゆしきことを近う聞き侍れば、心の乱れ侍るほどもいまいましうてなむ』と聞え給ひて、つきせずはかなくいみじき世を嘆き給ふ」
――母君がご病気というのに、このような事に心を悩ますのも具合がわるいので、京へお帰りになりました。正妻の女二の宮の御殿へもお出でになりません。「大事件というほどのことでもございませんが、不吉なことを身近に聞きましたので、心が乱れております間は、慎まれまして、失礼いたします」とお耳にお入れしておいて、まことに儚く悲しき契りを、尽きせず嘆いておいでになります――
「ありしさま容貌、いと愛敬づき、をかしかりしけはひなどの、いみじく恋しく悲しければ、うつつの世には、などかくしも思ひ入れず、のどかにて過ぐしけむ、ただ今は、さらに思ひしづめむかたなきままに、くやしきことの数知らず、かかることの筋につけて、いみじうもの思ふべき宿世なりけり…」
――浮舟の生前の容姿の可愛らしく、風情のあった様子などが、大そう恋しく悲しいので、生きていた時にどうしてああも、夢中にならずに、のんびりと過ごしてしまったことだろうか、今となっては、どう心を鎮める術もないままに、口惜しい事が数多く思い出されて、自分は女の問題に関しては、ひどく苦労する生まれつきだったのだ…――
「さま異に志したりし身の、思ひの外に、かく例の人にてながらふるを、仏などもにくしと見給ふにや、人の心を起させむとて、仏のし給ふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ、と思ひつづけ給ひつつ、行ひをのみし給ふ」
――世間一般の人と違った仏道の方面に志した自分が、意外にもこのように俗人として生き長らえているのを、仏も憎いと御覧になるのだろうか。是非とも道心を起させようとの仏の方便(手段)は、わざと慈悲をも隠して、このように残酷なことをなさるのかも知れぬ、などと思い続けながら、ただひたすら、勤行ばかりなさっています――
◆わがたゆく(我が弛く)=自分の心の動きが鈍い。
では10/29に。
五十二帖 【蜻蛉(かげろう)の巻】 その11
「殿は、なほいとあへなくいみじ、と聞き給ふにも、心憂かりけるところかな、鬼などや住むらむ、などて今までさるところにすゑたりつらむ、思はずなる筋のまぎれあるやうなりしも、かく放ち置きたるに心安くて、人も言ひ犯し給ふなりけむかし、と思ふにも、わがたゆく世づかぬ心のみくやしく、御胸いたく覚え給ふ」
――薫は、なんと儚くあっけないことだとお聞きになるにつけても、何という厭な土地であろう。鬼でも住んでいるのだろうか。どうしてまたあのような場所に、自分は浮舟を囲っておいたのだろう。思いがけない方面の間違い(匂宮とのこと)があるようだったことも、自分がこうして放っておくので、安心して匂宮もご無体にも言い寄られたのであろうと思うにつけても、自分の迂闊で世間知らずな性分がただただ口惜しく、胸が痛むのでした――
「なやませ給ふあたりに、かかること思し乱るるもうたてあれば、京におはしぬ。宮の御方にもわたり給はず。『ことごとしき程にも侍らねど、ゆゆしきことを近う聞き侍れば、心の乱れ侍るほどもいまいましうてなむ』と聞え給ひて、つきせずはかなくいみじき世を嘆き給ふ」
――母君がご病気というのに、このような事に心を悩ますのも具合がわるいので、京へお帰りになりました。正妻の女二の宮の御殿へもお出でになりません。「大事件というほどのことでもございませんが、不吉なことを身近に聞きましたので、心が乱れております間は、慎まれまして、失礼いたします」とお耳にお入れしておいて、まことに儚く悲しき契りを、尽きせず嘆いておいでになります――
「ありしさま容貌、いと愛敬づき、をかしかりしけはひなどの、いみじく恋しく悲しければ、うつつの世には、などかくしも思ひ入れず、のどかにて過ぐしけむ、ただ今は、さらに思ひしづめむかたなきままに、くやしきことの数知らず、かかることの筋につけて、いみじうもの思ふべき宿世なりけり…」
――浮舟の生前の容姿の可愛らしく、風情のあった様子などが、大そう恋しく悲しいので、生きていた時にどうしてああも、夢中にならずに、のんびりと過ごしてしまったことだろうか、今となっては、どう心を鎮める術もないままに、口惜しい事が数多く思い出されて、自分は女の問題に関しては、ひどく苦労する生まれつきだったのだ…――
「さま異に志したりし身の、思ひの外に、かく例の人にてながらふるを、仏などもにくしと見給ふにや、人の心を起させむとて、仏のし給ふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ、と思ひつづけ給ひつつ、行ひをのみし給ふ」
――世間一般の人と違った仏道の方面に志した自分が、意外にもこのように俗人として生き長らえているのを、仏も憎いと御覧になるのだろうか。是非とも道心を起させようとの仏の方便(手段)は、わざと慈悲をも隠して、このように残酷なことをなさるのかも知れぬ、などと思い続けながら、ただひたすら、勤行ばかりなさっています――
◆わがたゆく(我が弛く)=自分の心の動きが鈍い。
では10/29に。