永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(166)

2017年02月06日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (166) 2017.2.6

「神無月、例の年よりもしぐれがちなるころなり、十よ日のほどに、例のものする山寺に『もみぢも見がてら』と、これかれ誘はるれば、ものす。今日しもしぐれ降りみ降らずみ、ひねもすに、この山いみじうおもしろきほどなり。」
 
◆◆十月、いつもの年よりしぐれがちな頃です。十日過ぎくらいに、いつも行く山寺に「紅葉でも見がてらにと、家の者達が誘われたのでわたしも出かけました。ちょうど今日はしぐれが降ったり止んだりして、一日中、この山はたいそう趣きのあるところでした。◆◆



「ついたちの日、『一条の太政の大臣失せ給ひぬ』とののしる。例の『あないみじ』など言ひて聞きあへる夜、初雪七八寸のほどたまれり。あはれ、いかで君達あゆみ給ふらんなど、わがする事もなきままに思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる。しはすの廿日あまりに見えたり。」

◆◆十一月一日の日、「一条の太政大臣様が亡くなられました」と大騒ぎです。だれもからえも「ああ、お気の毒に」などと話し合っていた夜、初雪が七、八寸ほど積もりました。ああ、お労しい、ご子息たちがこの雪の中をどのような気持ちで葬送に連なっていらっしゃることかと、私が所在なきままに思っていますと、例のようにあの人は、ますます威勢を増して、大変な勢いで大騒ぎをしていて、十二月の二十日過ぎにこちらに見えました。◆◆

■一条の太政の大臣=藤原伊尹(これまさ)、兼家の長兄。兼家を常に引き立てていた。
 
■七、八寸=約20センチ

■例の世の中いよいよ栄ののしる=伊尹の死後、兼家の地位が政界で重くなること。



【解説】 上村悦子著「蜻蛉日記」下より

 当時の上流女性で絵を描く趣味を持った方は時折ある。(中略)作者の父も絵心を有していたことは巻末歌集に陸奥守のとき陸奥国の景色を絵にかいて持ち帰っていることで伺われる。作者も父の血を引いたのか絵心を有したらしく、鳴滝参籠中にも「昔、わが身にあらむこととは夢に思はで、あはれに心すごきこととて、はた、高やかに、絵にもかき」とも書いている。(中略)おそらくつれづれには歌を詠み、絵を描くことで慰めていたのであろう。
 死の予告ははずれたが作者は幸福な人は薄命(今は美人薄命という言葉もあまり耳にしないが昭和初年ごろにはまだよく言われた)だが、自分は幸福には縁が遠いからまだなかなか死なないだろうと自嘲めいた言葉を漏らしている。(中略)
「思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる」と記しているが、史実を検討すると作者の子の小丹波はかならずしも真実を伝えていない。今まで四歳年下の実弟兼家に官職を越されていた次兄兼道が好機逸すべからずと、妹の村上天皇中宮安子(円融天皇生母)に生前懇願して書いてもらっていた、【関白は次弟のままにせさせ給へ】のお墨付を錦の御旗と振りかざし、円融天皇の御心を動かし、権中納言から一挙に関白内大臣に昇進してしまい、陰に陽に同母弟の兼家を圧迫したからである。…