永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(203)

2017年07月07日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻 (203) 2017.7.7

「二十日あまりにいとめづらしき文にて、『助はいかにぞ。ここなる人はみなおこたりにたるに、いかなれば見えざらんとおぼつかなさになん。いとにくくしたまふめれば、疎むとはなうて、いどみなん過ぎにける。忘れぬことはありながら』とこまやかなるをあやしとぞおもふ。返りごと、問ひたる人のうへばかり書きて、はしに『まこと、忘るるは、さもや侍らん』と書きてものしつ」

◆◆20日すぎに珍しところから(兼家)手紙がきて、「助はどんな具合か。こちらでは皆快癒したのに、どういうわけで助が顔を見せないのか、気がかりでならない。(あなたが)私を大層嫌っているようなので、疎んじているわけではないけれど、意地を張り合って過ごしてしまった。忘れがたくおもいながら」などと、情のあるような内容なのを、何とも不思議なことだと思いました。返事には聞いてきたあの子の事だけを書いて、文面の端に、「それはそうと、忘れるとかおっしゃたことは、まったくその通りでございましょうね」と書いて送りました。◆◆


【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著から

 天延2年の皰瘡(もがさ)の流行蔓延はこの年の大事件で前述のように『日本紀略』『扶桑略記』その他の文献にも記載され、ことに太政大臣令息の二人の少将挙賢(これかた)・義孝(よしたか)の皰瘡による死去は『栄花物語』や『百錬抄』などにも記され、当時の話題をさらった事件であった。それだけに道綱が罹病して一時はどうなるかと案じとおした作者の心痛と治癒した時の喜びは察するに余りがある。
 
 それにしても、多妻下の折から、わが愛児が大病にかかって生死の境をさまよっても、心配を分け合い共に看病してくれるはずの夫が傍らに常住してくれない悲しさ、心細さはどんなであったろう。(中略)
 
 作者はここでも本邸に住んでいないわが身のつらさをいやというほどかみしめたであろう。兼家の「忘れぬことはありながら」と書いた手紙の返事にも「まこと忘るるは、さもや侍らむ」と書かずにいられなかったのも無理がないが、兼家が「いと憎くし給ふめれば、疎むとはなうて、いどみなむ過ぎにける」と、心こまやかに言ってきているので、もう少し他に手紙の書き方もありそうに思われる。作者の方が意地を張り過ぎて不幸を自ら招いているような感がする。