ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その13)妻の反乱・・・

2015-01-02 16:35:19 | 自分史
 深酒によるブラックアウトで記憶が途切れてしまい、財布を無くして癇癪を起した事件から間もなくのことです。41歳時の晩秋、妻の凄まじいばかりの反乱が勃発したのです。

 銀杏の葉が黄色に色づき始める頃、毎年11月には定期的に人間ドックを受診していました。人間ドックを受ける健康保険センターは大阪港に間近の病院付属のものです。冷たい風が吹いている病院前の大通りの歩道で、不意に妻からこう告げられました。「私たち離婚しましょう。・・・同情での結婚は間違いだったわ。」初め言葉の意味が呑み込めず、「えっ?」と声を出しただけでした。気まずい空気が流れ、私はうろたえてしまいました。

 妻は自分の決意を直ぐに行動に移しました。自宅から病院まで二人で車で来ていたのですが、帰りは私一人が残されました。食事も息子たちとは別で、私だけ一人でとるようにされ、当然ながら寝室も即日別々にされました。妻の外出や外泊も多くなりました。

 あまりにも急激な妻の変わり様にただ狼狽するばかりでした。ふと、しばらく前の休日に「ボーリングに行ってみない?」と珍しく妻から声が掛ったことを思い出しました。ボーリングなど何年も行ったことがなかったのです。アルコール症者に特有(?)の身体の気怠さと面倒くささから、体よく断ってしまったのですが、あれが最後通牒代わりの伏線だったのかと思い至りました。

 結婚を間近に控えた部下のO君に夫婦のあり方を聞かれ、妻のことを “空気みたいな存在” と答えたことも思い出しました。その時は存在感が薄いというよりも、“無ければ困る存在” という意味で答えたのですが、仕事にかまけてばかりいて、妻の普段の素振りから気にならない存在と感じていたのは事実だったのです。

 恐らく妻の方こそ私を見放していたのでしょう。38歳頃から再び仕事が猛烈となり、心身ともに忙しいことを言い訳に、息子二人と遊ぶ時間も作ってやれなかったことも思い出しました。家のことは全て妻に任せきりで、まるで母子家庭と何ら変わらなかったのです。

 このように、次から次へと記憶に浮かんで来たものの、何が極めつきの原因なのかサッパリ思い当たりませんでした。今となって長年に渡る複雑な要因絡みのものと分かって来たのですが、当時は分からなくて当然のことです。

 何か事情を知っているかもしれないと、時間を工面して妻が親しくしていたシングルマザーのママ友の所へ相談にも行きました。妻とはお互いの家を始終行き来している仲の人です。何か心当たりを知っているに違いないと踏んでいましたが、当たり障りのない応対をされただけでした。それで、彼女が自宅に遊びに来た折に無意識か意識的にか彼女を軽くあしらっていたことに思い当たりました。新築マンションの住民となったばかりで驕っていたのです。なるほど、こんなふうにしっぺ返しを食らうのかと妙に納得したものです。

 年末年始は東京の妻の実家で過ごすのが定番でした。当然のように妻は何も告げず、大分早くに息子たちを連れて先に帰っていました。どうしたものか迷いましたが、やはり話し合おうと考え、暮れの31日の遅くに家族を追いかけました。

 翌元旦の朝、部屋で二人だけとなって直接妻に離婚の理由を問い質してみました。酒の問題と夫婦交換遊び(swapping)の提案があったから、と怒気を孕んだ強張った顔つきで妻が答えました。

「酒飲み始めたら止まらないっ!だから、ズル休みが多いじゃないっ!」と酒飲みのだらしなさを非難されました。飲酒問題は、直近にブラックアウト状態が原因で財布を無くしたことに癇癪を起してしまった手前、もっともなことと納得できたのですが、swappingの提案が原因だとは意外でした。「swapping なんて“穢らわしい”! “最低” の人間よ!」と罵倒されました。夫婦の睦み事の際の戯言のつもりでしたし、実を言うともっと際どい提案だったからです。“穢らわしい” という言葉が、不思議と今でも心に残っています。

 結局、話合いとは程遠く、お互い物の言い方が悪いと罵り合うばかりになり、今後は禁酒すると約束を言い残して私だけ自宅に戻りました。元旦早々、妻の実家は修羅場となってしまいました。仲の良い娘夫婦とずっと思っていただけに、義両親はさすがにうろたえてしまい、おろおろしていました。

 東京からの帰路、離婚理由に挙げられたswappingの提案の経緯について、道すがらずうっと思い出してみました。さらに連想の赴くままに習慣的飲酒が始まった以降、妻に愛想を尽かされるようなことが他に無かったのかについても思いを巡らせました。離婚という思いもしなかったことで頭が一杯で、正月気分など全くない新年となりました。


 私たち夫婦共通の友人にKがいました。Kは私にとって予備校の寄宿舎時代からの親しい友人の一人で、妻とは大学に入ってからスキーを通じて交際を始めていました。私と妻とはその後Kを通じて知り合ったのです。

 Kは末っ子特有の人懐こいアッケラカンとした陽気な男で、妻はそこが気に入ったらしく、いつの間にかKに恋をしていました。妻は結婚適齢期でもあり、家庭の事情から結婚を焦っていました。その妻がKに結婚話を持ち掛けたところが断られ、傷心の彼女の話を親身になって聴いているうちに、ミイラ採りがミイラになって出来てしまったのが私たち夫婦です。

 Kの方はその後、北関東の同郷で同姓の女性と結婚し、婚家に入って事業を手伝うことになりました。婚家の事業のために各種免許も取ったと自慢げに話していたこともあります。今回の離婚騒動の始まる1年ほど前に、共通の友人からKが大学病院の精神科に入院している話を聞き、出張がてら治験先でもある入院先の病院に見舞いに行ったことがあります。私と同様、仕事が多忙で結婚生活にも倦んでいる年齢であり、婚家とトラブルがあって精神を病んでしまったようです。妻にもこのことは報告しました。

 夫婦の睦み事の際、妻にKと遊んでみたらどうかと1~2度言ってみたことがありました。ちょっと刺激的な戯言のつもりでした。妻が非難したswappingの提案とはこのことです。

 そのことで思い出しました。swappingの提案をした後のことですが、「夫婦って元々赤の他人なんだよね」と妻が言い出したのです。どこか冷たく蔑むような言い方でした。たまにする夫婦の睦み事も嫌々ながらのやっつけ仕事のようでした。何か変だなとは思ったのですが、深く考えもせず放置したままでした。離婚の理由を聞き出した際、妻が何故Kの名前を直截出さなかったのか(?)、そのときは頭に血が上っていて特に不審に思ったりはしませんでした。

 また、短期間とはいえ郷里の父を同居させることになったことも、愛想を尽かされた要因かもしれないと考えました。出張ついでに郷里帰りした際、両親の夫婦喧嘩の現場に居合わせてしまったことが災いし、一時父を引き取るハメになったのです。

 それでなくとも母子家庭状態の所に義父の面倒まで負わされるのは納得できなかったでしょう。しかも、電話で一方的に通告されただけで、事前にじっくり相談されたわけでもなかったのですから尚の事です。結果的に一ヵ月半ほどの同居で済みましたが、その間どうしても目障りな他人である義父と、四六時中一つ屋根の下で過ごすことがどんなに辛いことか想像に難くありません。

 父の方も、知らない土地で何もすることがない生活は監獄のようだったに違いありません。7年後に帰省したとき、痴呆状態の父から「どちらさんでしたか?」と会うなり訊かれたのはショックでした。同居していた当時、無聊のまま放置されたも同然の扱いを受けたことへの復讐かと一瞬頭を過りました。

 結果として妻にしても父にしても、何の喜びもない同居の日々だったと思います。15年ほど後で新聞のネット版を見ていたとき、“妻に相談なく田舎出身の夫の独断で夫親との同居が決まってしまった” という問題が人生相談に類する掲示板で炎上し、離婚するのが当然だとの意見が圧倒的多数を占めていたのに驚きました。田舎で培った結婚観を引き摺る私と、都会育ちの妻の結婚観は全く違うのだろうと初めて納得できました。

 さらに、妊娠中絶させてしまったことも思い出しました。38歳の時、妻に3番目の子を妊娠させてしまいました。子供が二十歳になるとき、自分たちは還暦を迎える歳なのにまだローンの借金を背負ったままだとか、地球規模の人口爆発問題の片棒担ぎになるだとか、今思えば屁理屈を捏ねて堕胎してもらうことにしたのです。

 妻は同意してくれ、私が付添いすることもなく独りで処置を受けてくれました。同意の上とはいえ、多分愛想を尽かしたのだと思います。悪阻(つわり)もなかったので胎児は娘だったかもしれません。酷いことをしたものです。貴い生命への慮りのない、自分の都合だけの自己中心的思考の典型です。


 東京から戻った妻の私に対する仕打ちは文字通り陰湿で酷なものでした。まずされたのは、育児放棄に似た私へのネグレクト(黙殺・支援放棄)です。朝挨拶しても返事をしてくれない、食事の用意をしてくれない、洗濯をしてくれない、Yシャツのアイロン掛けをしてくれないetc、です。妻の外泊が殊の外多くなりました。

 祝日前夜、遅くなって会社から帰宅したら玄関のドアにチェーンが掛っていて入れず、公衆電話から電話しても誰も出ないこともありました。しかたなく隣町のラブホテルに泊まったのですが、妻が外泊して息子たち二人だけとなって用心のためにチェーンをしていたためでした。妻は翌祝日夜9時頃帰って来ました。

 人が怒気を孕んでいるときは、それが空気となって肌で感じ取るものです。

 たまたま飲酒した翌朝体調が悪くて会社を休んだ時は、
「約束を1ヵ月も守れない奴。疲れで死ぬわけがない。死ぬこともできないくせに・・・死んだ方がむしろ良い。このままだと自分が殺しかねない」と聞えよがしに詰(なじ)られたこともあります。長男も母親の肩を持ち「約束破った」と非難する始末です。極めつきは近くにいたときの
「死ねーっ、死ねーっ、死ねーっ」という聞えよがしの独り言でした。まさに針の筵、修羅場の毎日でした。

 息子たちも完全に言いくるめられていたらしく、3ヵ月後には二人揃って私の前に直立して並び、
「父さん。このままでは母さんが家を出ると言っているので、父さん当分の間家を出て行ってください」と長男から言われてしまいました。二男はこの時不安気な顔をしていました。

 粘り腰で頑張ってみた私も万策尽き果て、降参することにしました。こうして3ヵ月余精一杯の禁酒(飲酒4回/月)で頑張ってみたのですが、甲斐もなく別居せざるを得ませんでした。これらのことは手帳に記録していたメモから抜粋したものです。

 妻がここまで鬼と化すというのは全く想像を絶することでした。妻は亡姉に可愛がられ、何かと亡姉を頼って育って来たので、何かにつけ人に頼る所がありました。家庭を破壊するような強気の行動を独りで出来るはずがない、誰か黒幕がいるに違いないと思いました。思い当たるのはシングルマザーのママ友だけで、恐らく彼女が教唆しているのではと思っていました。

 ともかく、至極平凡だった17年間の結婚生活は、こうして幕を閉じました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その14)につづく



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コメント (1)
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