ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その17)連続飲酒から脱出・仕事再開!

2015-01-31 16:34:15 | 自分史
 「阪神電車は甲子園まで運転再開できているようなので、会社に出て来ませんか?」地震3日目(1月19日)、電話でこのように促されました。地震が発生した翌1月18日には早くも大阪・梅田~甲子園間の運転が再開されていたのです。1時間ほど歩いて甲子園駅に行き、電車で会社に向いました。

 阪神電車が甲子園駅まで運転再開したことは前日テレビで放送していました。「もうじき西宮まで通じるんじゃないか? 1時間も歩くのは面倒クサイなぁ・・・・。」これが最初に浮んで来た本音です。「よし、動いてみるか!」というヤル気はすでに薄れていて、足掛け3日の連続飲酒で自堕落に馴れかかっていたのです。

 沿線の風景は川を越えるごとに、異常な風景から普段の見慣れた風景へと変わって行きました。武庫川までは倒壊家屋が到る所に見られ、尼崎に入ると建物の亀裂や墓石の転倒ぐらいとなり、淀川を渡ると何もなかったかのように平穏そのものでした。

 それでも大阪梅田のデパートでは、地下食料品売り場のパンは被災地への見舞い品として売り切れ状態でしたし、外に出ると街には窓ガラスや外壁の側面にX字のヒビや亀裂の入ったビルもまれに見えました。私の住いから20kmほどしか離れていない大阪では、地震で受けた影響はこんな軽いものでした。

 会社に着いて状況報告をし始めた時、アルコールが頭に濃く残っていることに気付きました。頭が朦朧として反応が鈍いのです。素面の人たちと話してみて初めて分かりました。被災地の悲惨な状況が思うように伝わらないことにもどかしさを感じ、被害に遭わないで済んだ人々の「すごい地震だったねぇ。私の所も・・・」という言葉には白々しささえ感じたのです。舌がもつれた喋り方だったのかもしれません。もちろん、そんな自覚などナシでしたが・・・。

 こんな不埒な状態でしたから、会社が呼び出してくれてなかったらと思うとゾォーッとします。何よりも家族を元通りに戻さなければならないという使命感がありましたし、返済しなければならない住宅ローンを抱えていましたし、成就できるのを目前とした仕事がありましたし、・・・やらなきゃいけないことだらけで、絶望などしているヒマか(!)というわけでしたが、・・・。引き籠り状態のまま孤独死、とまでは行かなかったでしょう。が・・・、かなりヤバイ状態にはなっていたと思います。

 震災後、アルコール依存症の患者が増えたと聞きます。習慣的飲酒からすでに依存症になっていた人が、震災発生を契機に引き籠り状態のまま誰にも介入されなかったため、依存症が顕在化しただけのことと思います。連続飲酒で引き籠り状態になると、他人から見られることをとても嫌います。ところが、覗いてもらったり声を掛けてもらったりすると、気にかけてもらえたことで少し正気に戻るものなのですが・・・。

 会社が避難先のホテル代を負担するというので、同僚が辛うじて探し当てた梅田にあるビジネスホテルに向かってみました。飲み屋がひしめき合う盛り場の一角にホテルはありました。環境はイマイチですが、息子たちも呼び寄せることにしました。

 本宅マンションまで足を伸ばし、一緒にホテルへ来ないかと避難を勧めました。妻によると、酔っていて酒臭く、「ビールは水代わりだ。水がないんだから仕方ないだろう」とウソぶいていたそうです。会社にいた時も相当酒臭かったのだろうと思います。食卓の上にサランラップでくるんだ食器が並べられ、食べ物がその上に載っていました。「なるほど、こうすると食器洗いをせずに済み、サランラップを捨てるだけでいいんだ」と感心したことを覚えています。

 翌朝(1月20日)、息子たちがワンルームの自宅までキャリア付のバッグを引き摺りながら歩いてやって来ました。息子たち、特に長男は生活費を受け取るために、私の所に月一回は自転車で来ていたのですが、徒歩行は初めてでした。約束の時間より大分遅れていたので、休む間もなく甲子園駅までそのまま歩かせました。息子たちにとっては、本宅から計2時間半から3時間ぐらいの過酷な徒歩行となりました。

 ホテルに着くと、まず風呂に入らせ、その後食事に連れて行きました。最初の食事は牛丼だったと思います。翌日(1月21日)妻も合流しました。風呂を使わせ、一緒に食事をしました。隙を見せない強張った表情に変わりありません。食事した場所はオカズを自分で選ぶセルフ・サービスの食堂で、この辺ではメシ屋、あるいはゴハン屋といいます。「こういう食堂だったら安心だわ」と言って、妻は明るい内に帰って行きました。

 一日おいた月曜日、会社からホテルに戻ると、息子たちは本宅に帰った後でした。ホテルは歓楽街のど真ん中です。行く当てもなく、昼間二人だけで過ごすのは退屈でやり切れなかったのだと思います。地震発生から54日目(3月12日)に、ワンルームの自宅のガス・水道のライフラインが復旧しました。それまでの間、ホテルで一人だけの避難生活が始まりました。


 仕事では心電図データの確認作業が待っていました。調査に赴く病院数は延べ70施設、重複がありますから約60施設になります。病院訪問時はCRF(患者個人のデータ票)と心電図のコピーが必携でした。最初の内はA君とペアで訪問することにしました。医師への訪問の趣旨説明の切り出し方から確認作業までを二人で統一化するためです。

 最初の医師には心電図データの確認と言うべきところ、誤って心電図の再計測と言ってしまいました。医師が心電図のコピーを見て、本人が過去に記入したデータの数字が間違いないことを確認することと、心電図のコピーで再計測することとは全く違います。0.5mm程度の微妙な長さの問題ですし、コピーは実物とは微妙に違います。案の定(?)あっけなくCRFに訂正が入ってしまいました。

 これは大いに反省することとなりました。“やってはいけないこと” の典型で、見方によってはOJT(実地教育)での生きた教訓ともなります。地震のショックを引き摺っていたのか、アルコールの影響が残っていたのか、恐らく両者によるものだったのでしょう。

 手当たり次第に医師と約束をとり、A君と手分けして月曜から金曜まで避難先のホテルを起点にほぼ毎日出張しました。治験の実施から2~3年経つと、医師の中には医局の定期異動で他院へ転勤した方もいますし、院内の刑事事件で嫌疑をかけられ転籍した方もいました。そのような場合でも当然どこまでも追いかけました。

 寒い雪国、山形の南陽という所で、午後5時の約束が急患のために午後8時過ぎになり、医局前の暗い廊下で一人立ったまま待たされたこともあります。この時だけはさすがに心細くなったものです。バスで東京から茨城の鹿島まで医師を訪ねたこともありました。医師たちは概ね好意的でした。

 出張中の待ち時間に一人で窓の外の雪を眺めていたとき、不意に侘しさに襲われたりもしました。盛岡の県立中央病院の1階ロビーで、外のボタン雪を眺めているとき浮かんできた詩です。

 大きなボタン雪が
 騒音をひっそりと包み込んで
 ゆっくりと舞い降りている
 一人ぼっちの魂が
 舞い降りる雪に吸い込まれ
 止まった時間の中をゆっくり昇り始めた
 二度と戻らない日々を取り戻したいかのように
 ゆっくりと・・・
 時間がゆったりと流れていた 
 雪は地面に着くと消えた

 阪神大震災で直接被害を受けた医師二人を除き、3月下旬までに心電図データの確認作業を終えることができました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その18)につづく



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コメント (1)
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