ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その14)賭場では大勝、でも貧乏な一人住い・・・

2015-01-09 19:03:25 | 自分史
 このブログを書き始めて間もなく、記憶に頼るだけでは出来事と時間軸との関係が覚束ないことに気付きました。そこで在職中の手帳を元に主だった出来事の年表を作ることにしました。
 38歳以前の記述については、あやふやとも言える記憶だけによっています。そんな訳で、38歳になる年(‘89年)の正月8日に昭和から平成に年号が変わったことや、同年にあった北京の天安門事件(6月4日)、ドイツのベルリンの壁崩壊(11月10日)など歴史的重大事件に触れずじまいのまま来てしまいました。
 特に昭和天皇薨去の日、会社に休日出勤しようと家を出たのですが、大阪北浜界隈のビルのどこもが半旗を掲げていたので引き返したこと、当時の小渕官房長官(後の首相)から年号が平成と発表されたことなどが鮮やかに蘇ってきます。遅ればせながら補足させていただきます。


 高血圧症の比較検証試験の開鍵で上々の結果が得られた後、私も先輩たちのように会社で歩く傲慢をやっていたのでしょうか? これでもう大丈夫、とよほど安心し浮かれていたのかもしれません。記憶が希薄であまり印象に残っていないのです。

 個人年表を改めて見てみると、ブラックアウト状態で財布を紛失し癇癪を起した頃は、狭心症の比較検証試験2本についても研究会を開き、開鍵に向け問題症例の採否を検討していた時期と気付きました。

 2試験の内の1本は狭心症の胸痛発作回数と発作時のニトログリセリン頓用錠数の変化を評価するもの(症状試験)、もう1本は心電図上に変化が起こるまでの運動持続時間の変化を評価するもの(運動耐容能試験)です。ニトログリセリン錠は発作時に痛み止めとして頓用するものですし、心電図上の変化とは虚血性ST偏位のことです。

 実は、これらの2試験の治験実施計画書立案時に代表世話人とひと悶着ありました。そのとき問題となったのは服薬期間の長さをどうするかでした。服薬期間を2週間にするのか、それとも倍の4週間にするのかです。当時の治験の服薬期間は4週間が普通でした。

 当時、狭心症の治療環境は変わりつつありました。それまでは薬物療法が主流で、重症例には冠動脈バイパス手術が普通でした。そこに新しい治療法、PTCA療法が専門病院では行われるようになっていました。
(薬物療法:Ca拮抗薬、β遮断薬、少量アスピリンの3剤併用を基本とし、発作時ニトログリセリン錠頓用; PTCA療法:股間から大動脈内にカテーテルを挿入し、冠動脈内でカテーテルの風船を膨らませ、狭窄した血管の血流を回復させる治療法)

 PTCA療法は簡便で入院期間も短くて済みます。PTCA療法待ちの患者に治験をお願いするとなると、服薬期間が短いほど協力が得やすいと思われたのです。

 そのため私としては、2週間の服薬期間を提案しました。一方代表世話人の方は、自身の診療経験から、服薬期間が長いほど薬本来の効果が安定しやすく、短い服薬期間は新Ca拮抗薬Pにとって不利という意見でした。結局、服薬期間を2週間とし、負けたら会社側の責任ということで了解してもらいました。これが比較検証試験開始前にあったひと悶着の内実です。

 二つの比較検証試験に参加した患者数は、症状試験で109例、運動耐容能試験で55例の計164例でした。164例ものデータの点検作業ならば、緊張感と重圧に再び圧し潰されそうな毎日だったはずですが、あまり記憶にありません。

 開鍵までの作業全般は高血圧症で経験済みでしたので、スタッフ全員が作業のコツを十分に分っていました。それで、症状試験の方は課長補佐のA君に、運動耐容能試験の方は係長のK君に、それぞれ指揮を任せていたようです。

 私自身は点検作業の機械的な確認や主だった医師との連絡係、つまり本来の管理職の仕事をしていたものと思われます。そんな魔が差しそうな時期に妻から離婚話があったのです。

 妻に離婚を通告されてから間もない年の瀬に、スタッフのI君と例のN子嬢の結婚式もありました。もちろん私を含め(?)、チームからは誰も招待されませんでした。

 私自身はN子嬢への “憑きモノ” のような性的妄想に耐えることに必死でしたし、チーム内には相当ギクシャクした空気が澱んでいました。それなのに誰も何も言いませんでした。チーム外でもギクシャクした雰囲気を察していたのでしょう、私が影の仲人と皮肉る者もいました。もちろん妻も、相当以前から薄々怪しい気配を感じ取っていたに違いありません。

 年が変わり私が42歳になる正月、離婚騒動の修羅場の真っ最中に狭心症の比較検証試験1本目の開鍵が行われました。狭心症の症状試験です。

 この時は、コントローラー(盲検化の管理者)が患者一例一例について、服用した薬剤の符号を読み上げる方式でした。最初の2~3例については記録しましたが、胸の鼓動が激しくなってその後は止めました。俎板の鯉の心境でした。

 結果は驚くべきものでした。新Ca拮抗薬Pの改善率の方が高く、両薬剤の改善率に有意差が出たのです。つまり、1日1回の服薬で済む新Ca拮抗薬Pの方が1日2回の服薬が必要な市販の対照薬より優れた新薬であるという、文句なしの成績が出たのです。こんなことはめったにない大勝利です。
(有意差:偶然から差の出た可能性が確率5%未満ということで、統計学的にみて偶然では起こり得ない差)

 家庭に修羅場を抱えていた手前、思わぬ大勝に喜んだ振りをするのが精一杯で、内心は離婚騒動による心の動揺がバレないよう必死でした。恥ずかしさから離婚騒動中とは誰にも言えなかったのです。出席者全員で、シャンパンで乾杯したのですが、味は全く覚えていません。

 別居する直前に、もう一つの運動耐容能試験についても開鍵が行われました。症状試験と同様に、こちらも文句なしに勝ちました。こうして新Ca拮抗薬Pは、高血圧症ばかりでなく狭心症についても承認が得られ、二つの適応症を持って市場に出るのは確実と思われました。


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 別居期限の1週間前になって近くの不動産屋に紹介され、6畳一間のワンルームを借りることに決めました。そのワンルームは、国道43号線(第二阪神)の交差点近くの小さな4階建ビルの3階にあり、各階とも階段の踊り場に向かい合って2部屋しかない内の一部屋でした。幹線道路脇ですから、昼間の車の騒音はそれなりに酷いのは当たり前で、我慢できるものと軽く考えていました。夜間の騒音までは思い至らず、入居数も少なかったので決めてしまったのです。

 別居先を決めた帰り道、夙川公園の土手のベンチに腰掛け、一人で散り際の桜を眺めました。侘しさに胸が一杯になり、弱々しい風に揺れる花が涙で滲んだことを覚えています。ふと狭い川を挟んだ対岸を見ると、会社の後輩らが花見の合コンをしていました。バツが悪かったので、手でチョット合図を送ってそこを立ち去りました。


 「会社人間」では決してなかった
 連日の深夜帰宅、休日出勤、会社で徹夜、出張の連続、休日のゴロ寝
 まさに「会社人間」
 ただ給料を上げたかった
 恵まれたかった
 家庭の温かさが代償の苦い取引だった
 決して「会社人間」であろうとしたのではない
 しかし、「会社人間」であった


そのときに浮かんできた私の本音です。

 いよいよ家族と離れての別居です。テレビと冷蔵庫、照明器具を新たに買い求めました。机と寝具、洋服ダンス、着替えの入った衣装ケース2つ、囲碁と将棋のセット、囲碁次の一手問題集、出張用カバン、『荘子』3冊と辞書、ワープロ、これらが私の家財道具のすべてでした。

 男一人住まいの家財道具はこんなにもコジンマリしたものです。本棚と書籍がない代わりに、その分洋服ダンスが加わっただけで、学生時代と何ら変わりません。赤帽の小型トラックに余裕で積むことができました。大部分の炊事道具や食器は引っ越し後に買い求めました。新たに電話も引きました。洗濯機は買わずにコインランドリーで済ませることにしました。

 国道43号線は神戸港に繋がる阪神間の産業道路と言われるぐらいですから、大型トラックの交通量が殊のほか多いので有名です。わずかな引っ越し荷物を片付け、弁当で食事を済ませて寝ることにしたのですが、明かりを消して横になってみて大変なことに気付かされました。

 交差点が間近にあり、信号が変わるたびにプシュー、プシューというエアー・ブレーキ音がうるさくて堪らないのです。阪神大震災前は片側4車線でしたので、大型車両の多さは想像を絶するものでした。信号は3分間隔で変わるようで、一晩中ほとんど絶え間なくエアー・ブレーキ音が聞こえていました。

 車の振動にも驚かされました。建物全体が小刻みに揺れるのです。横になって初めて揺れが分かりました。騒音と振動に馴れるまで半年以上かかったように思います。

 国道43号線の上は高架となっていて阪神高速道路が通っています。その照明が一晩中窓を照らしていました。視線の先が窓で、高速道路の照明が明るくて眠れず、早速カーテンを求めました。厚手のカーテンでもほんの気持ち程度しか光を遮らないのにはガッカリでした。ここを選んだのは失敗だったかと悔やみましたが、後の祭りでした。

 肝腎要の経済面は厳しいものでした。狭心症でも大成功を収めたのですが、昇進と昇給は翌年までお預けでした。手元には残金を全額引き出された後の銀行通帳しかありませんでした。無一文状態だったので、窮余の策で郷里の姉と妻方の義母から20万ずつ当座の借金をし、7月に支給されるボーナスまで凌ぎました。

 本宅(?)の息子たち用と自分用の決済口座を分離するため、自分用として新たに銀行口座を設け、給料の振込み先を二分しました。本宅用として毎月25万の定額振込みとし、残りは全て私の取り分としました。5万弱の家賃を除くと私の取り分は正味8万程度だったと思います。非常に厳しい財政でした。

 止むを得ず外食を控えるようにし、ボーナスが支給されるまでは自炊するか弁当を買って済ませました。貧乏とはこういうものかと苦笑いしたものです。ボーナスが支給されると、直ぐ姉と妻方の義母へ借金を返済しました。これで住宅ローンだけが借金として残ることになりました。

 別居して間もなく、結婚相談所から私宛に入会案内パンフレットが送られてきました。とても嫌味なタイミングでした。妻からはハガキで離婚を催促されました。惨めな状況ではありましたが、いつの日かきっと家に戻ると心に決め動きませんでした。

 家族が完全に崩壊するのは是非とも避けたかったのです。私には姉が二人いますが、両方とも離婚しています。私まで離婚するわけにはいきません。

 会社の方は、部門長で専務のK氏にだけ別居したと報告し、新Ca拮抗薬Pの申請時期が遅れるかもしれない旨を伝えました。申請時期の遅れは了解されましたが、しかつめらしい顔でこう言われたのには呆れてしまいました。「じゃ、ベッドも別々だったのか?」

 直接の上司のN先輩は自分の痛みは感じても、他人の痛みまで共感できる人ではありません。新聞報道事件以来、N先輩の歩く傲慢の影は薄れていましたが、どうせ嫌味を言われるだけと思い別居したことを伝えないままでいました。

 その年の初冬だったと思います。長男を呼び出して久しぶりに外で会うことにしました。中高一貫校のため、入試なしで高校1年生になっていました。長男に会うなり印象が全く変わっているのに驚きました。愚連(グレ)た不良少年特有の尖って荒んだ眼をしていたのです。

 何かあったに違いないと思ったのですが、詳しく聞き質すことは出来ませんでした。家族がバラバラになった原因は私自身に有ると、独り負い目を感じていたからです。お好み焼き屋に入ってもあまり話すことも無く、「お金をくれれば、それでいいよ」と言って長男は帰って行きました。

 「傷心の癒しには仕事が一番」かつて離婚した姉にはこう言って励ましていました。そのこともあって、チームのスタッフには別居を内緒にしたまま、膨大な申請資料の作成作業に一意専心、ひたすら取り組みました。どうにかそのお陰で、翌年3月には申請に辿り着くことができました。


アルコール依存症へ辿った道筋(その15)につづく



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コメント (4)
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