ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

アルコール依存症へ辿った道筋(その27)酒害がジワジワ・・・

2015-05-01 19:47:48 | 自分史
 アルコール依存症と初めて診断された後、短い禁酒期間を経て再飲酒が始まったことはお話しました。当然のことですが、何かにつけ酒ばかり意識する生活に変わりました。

 休日には何の引け目も感じずに、当たり前のように昼間から飲み始めることが多くなり、そのまま深酒になることが普通になっていました。振戦も自覚せざるを得なくなり、その原因が深酒からではないかと見当をつけ、深酒にはならないよう休日の昼間は出来るだけ外出を心掛けるようにはしました。

 一方、週日の会社が引けた後の過ごし方にも変化がありました。新Ca拮抗薬Pの申請後、深夜までの残業が全くない内勤業務となり、やっと就業規則(時間)通りの普通のサラリーマン生活に変わっていました。残業していた時間がヒマになり、禁酒期間中に見つけた会社近くの居酒屋にほぼ毎晩通うようになったのです。

 その店は “旬香” といい、昼飯時の魚料理のメニューが良かったので、禁酒期間中にちょくちょく昼に利用していました。それで、再飲酒が始まった初夏の頃からは、会社が引けると夜にも直行で顔を出すようになったのです。もちろん夕食も兼ねてのことです。

 カウンターに8席、小上がり(狭い座敷)にテーブル2つというこじんまりした店でした。私より5歳ほど年下の夫婦でやっていて、亭主はすし職人上がりとのことでした。阪神大震災では同じ被災者だったことから話のウマが合ったのです。何のことはない、会社以外に自分の居場所を見つけたかったのかもしれません。

 程なくして “旬香” には昼も夜もの入り浸りとなり、一晩で3~4千円ほどの出費が毎日続くことになりました。酒の量はビールに始まり、焼酎のソーダ割りを3~4杯が普通だったと思います。客が他にいないときは、次の客が現れるまでと称して長居するようになるのは自然の流れです。会社に電話して客がいないからと同僚を呼び寄せたことも再三ありました。当然ながら、その分焼酎の量が増え、酩酊状態になることもしばしばありました。

 酩酊状態を見かねてのことでしょう、勧められるままに店主夫婦の自宅に泊めてもらったこともありました。それが契機で、寝ている間中、大きな鼾で始終息が止まっていたと言われました。睡眠時無呼吸症候群になっていたのです。当時独居の身でしたから、一人でいては決して分からなかったと思います。全くの偶然でした。

 通い始めて1年後の秋には、夫婦の自家用ワゴン車に乗せてもらい、大台ケ原~川湯温泉~熊野本宮大社~熊野速玉大社~熊野那智大社~串本・潮岬という紀伊半島を真っ直ぐ南下するコースを車中2泊で一緒に旅するようにもなっていました(雨で大台ケ原は急遽パス)。

 キャンプをした熊野川の河川敷ではブラックアウト事件もありました。飲んだ挙句に大の方の用足しに立って、川岸まで向かったところまでは覚えていますが、その後の記憶が消えてブラックアウトになってしまいました。用は足せたようですが、店主夫婦が一緒でなければ、危うく尻ポケットの財布を無くすところでした。予め財布を預かっていてくれたのです。自宅では飲んだら止まらなくなるのが普通でしたが、自宅外でも歯止めがきかず、飲み始めたら止まらなくなっていました。

 贔屓の店を一つに決め、毎晩ほぼ同一時刻にその店の暖簾をくぐる。居酒屋が潰れると、今度は立飲み屋へと、通う店は変わっても同じ時刻・同じ店に通い続けることが習い性となっていました。その後も長く続く私の典型的な飲酒パターンの始まりでした。依存の度合いが強く、すぐ習慣化してしまう性格がよく出ています。

 晩秋に受けた人間ドックで胃が荒れていると指摘され、年の瀬に初めて胃の内視鏡検査も受けました。毎日の酒が祟ってのことでしょう、胃潰瘍の瘢痕が見つかりましたが、幸いそれだけで放免となりました。血圧が高めで血糖値は基準値上限を超えるまでになっていました。

 新しい年になって、誕生日が来ると私は47歳、息子たちはそれぞれ長男が21歳、二男が17歳を迎えようとしていました。正月恒例の “十日戎” のお参りに二男と出掛けた際、ためしに進学先と将来就きたい職業を聞いてみました。二男は高校一年でした。

 「京大の法を狙ってみようと思う。」
 「目標を高く持つのは良いことだ。ただ、京大は現国が記述式で
  難しぃんじゃなかったかなぁ? そんな記憶があるが・・・。」
 「そうかぁ、数学は得意だけど、現国はなぁ・・・。」
 「自分の考えをいつでもメモする癖をつけるといいよ。
  まず書く癖をつけて、それを読み返すことから始めることだ。
  そうすると文章力が着く。要約してみるのがいいんだが・・・、
  時間はまだ十分ある。それで、仕事は何に?」
 「他人に使われるのはイヤだから、自営業に成りたいなぁ。
  国家資格の司法書士や公認会計士なんかどうかなぁ?」
 「国家試験は何とかなるだろうが・・・。自分だけの力でお客を
  呼び込むんだぞ、会社からの月給のように毎月の収入の保証は
  ないんだよ。お前に自営業が出来るかなぁ?」

 ある意味鷹揚(ホラ吹き)で他人付き合いの上手い性格の長男と違い、二男は他人付き合いが悪くはないものの、生真面目な性格です。ホラを吹いて煙に巻くことなど出来ません。公務員向きのところがあると思っていたので自営業志望には驚きました。

 二男は私と同じで営業的センスが乏しいのです。毎日夜の遅い帰宅で休日はほぼごろ寝の父親を見ていたので、会社勤めに魅力を感じなかったとしても不思議ではありませんが・・・。社長というたった一人の人物評価だけの、個人的な “好き嫌い” 人事をいつも気にしなければならないよりはマシかとも思いました。


 “十日戎” から少し経って、申請中の別化合物に対し、当局から旧GCP違反を事由として申請取下げの処分が下りました。治験実施計画書の立案時に、先行する治験中に発生した重大な安全性情報を加味しなかったため、患者の安全が確保されていなかったことが重大な違反とされました。これは安全性に対する会社の基本姿勢が問われた警告でした。新Ca拮抗薬Pも含め、他の申請中の化合物へ良からぬ影響が及ぶかもしれないと嫌な感じがしたものです。

 その処分から間もなく、新Ca拮抗薬Pへの照会事項(5回目の指示事項)がありました。

 「本薬は血中消失半減期が短い。本薬は1日1回の服用で十分なのか、用法の妥当性を血圧日内変動試験などの成績をもとにT/P比を算出するなどして回答すること」

 これがその内容です。吸収された新Ca拮抗薬Pは短時間しか血液中を循環しないので、作用の持続時間が短いと考えられる。一定の間隔で頻回に測定した血圧のデータ(血圧日内変動)から、1日1回の服用で十分血圧をコントロールできていることを説明せよということです。ついに私が一番恐れていた急所を突いてきたのです。


アルコール依存症へ辿った道筋(その28)につづく



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コメント (1)
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