ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

「人間は平等」は正しいですか?

2015-11-27 06:26:41 | 世相
 駆けっこで1等の子がいてビリの子がいる。いいじゃないですか。それが当たり前だと思います。「人間は皆平等」は偽善です。この言葉にはマヤカシがあります。耳触りの良い言葉には気を付けましょう。

 私は1951年(昭和26年)生まれですから、敗戦後の空気や朝鮮戦争景気の活気がまだ濃く漂っていた時代に幼少期を過ごしました。“赤胴鈴之助”や “鞍馬天狗”などのチャンバラ物、海軍ゼロ戦飛行隊や陸軍隼飛行隊の戦争物、“月光仮面”や “エイトマン”などの漫画を見て育ちました。

 正義は弱い者の味方で、強くて勇気があり、悪者に必ず勝つというイメージがあります。正義の味方は憧れでした。もっとも後年、正義も弱者も立場によって変わる相対的なものと分かって来ましたが、“正義は勝つ” は今でも頭に刷り込まれています。しかし、下手をすると今では “勝った方が正義” と考える方が現実的か、と変わって来ているようです。正確に言うと、勝った方が “自分が正義だ” と主張するのも力関係からして尤もだ、と承服できるようになったのです。こうなると、正義も何かイカガワシく怪しげなものになりますね。

 明治維新以来、日本と日本人は欧米文明が進歩的で圧倒的に強力であることを目の当たりにし、欧米に追い着きたいを国是としてきたと思います。富岡製糸場や八幡製鉄所、鉄道敷設が象徴と思いますが、欧米文明を優れた模範とする富国強兵政策の精神が読み取れます。近代的な欧米流の軍隊を持ち、東アジアの満州で周回遅れの欧米流植民地争奪戦にも参加しました。世界に植民地を持つ欧米列強が東アジアに触手を伸ばして来ているのですから、国防上それに力で対抗しなければならないという理由付けは現実的判断で、もっともなことです。

 満州での権益を巡り、1923年関東大震災、’27年昭和金融恐慌、’29年世界恐慌、’31年満州事変という状況の変遷の中で、米国の対日経済封鎖を初めとするABCD包囲網を受けるに至って米国と直接交戦せざるを得なくなり、圧倒的な国力の差の前に日本は敗戦してしまいました。この敗戦は目標としてきた欧米文明の本家に敗れたこととも言えるでしょう。

「平和がいい。戦争はもうこりごり。」
「負けた、やっぱり本家の欧米文明には敵わなかった。」
「勝ったものが正義。」
「勝者・連合国軍総司令部(GHQ)の打ち出す政策は意外に悪くない。」
「日本国憲法は欧米思想の粋そのもの、GHQの押し付けでも受け入れるのは仕方ない。」
これが敗戦によって厭戦気分の支配した日本国民一般の偽らざる本音ではなかったでしょうか。

 実際、勝者GHQが打ち出した政策は、貴族制度の否定、農地改革(解放)、家制度廃止など封建制度の残滓の解消、男女平等(同等の権利)と女性参政権、財閥解体、勤労者の団結権・団体交渉権・団体行動権など労働三権(労働基本権)の導入など自由・民主主義的政策でしたが、同時に平等を重視する政策とみることもできます。これらの政策は、戦時全体主義的統制下にあって極端に自由を抑圧されてきた一般国民に解放感をもたらしたことは疑いありません。それまで法度として禁じられてきた諸々のものがほとんど誰でも自由に出来るようになったのですから当然です。

 今でこそ薄れてはきましたが、日本人には古くから舶来品崇拝気質が強く、さらに元来流行に後れたくないミーハー的気質もあります。明治維新以来欧米文明を国中に広め、優れた模範としてきた土壌も、日本人のそのような気質が助長したものでしょう。進駐軍がもたらした自由な解放感が日本人の舶来品崇拝気質とも相俟って、GHQの政策を一般国民が抵抗なく受け入れたのだと私は見ています。

 これらがGHQの表向きの政策とすれば、GHQが隠密裏にしかも強力に推し進めた政策がありました。War Guilt Information Program (WGIP) がそれです。戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画であり、徹底的な日本人洗脳計画でした。WGIPは敗戦直後の1945年10月2日に開始されたGHQの政策です。産経新聞によるとその原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)であり、その手法をGHQが取り入れたことにあったそうです。当時、米国政府内にもコミンテルンの工作員が多数浸透していた事実があったということから、戦勝国の傲慢さが左翼的政策を易々と取り入れる隙を与えたのだろうと考えられています。

 東京裁判(極東国際軍事裁判)がこの政策と同根の発想に基づいて行われた象徴ですし、言論統制のためプレスコードによる報道規制もこの政策に基づいて行われたのです。プレスコードは、日本は侵略戦争を遂行した極悪人であるとする贖罪意識と自虐史観を徹底させた報道検閲ですし、連合国ばかりでなく中国(人)や朝鮮半島(人)に対する批判も一切罷りならんという規制内容だったそうです。私は完全退職後のつい最近まで、WGIPやプレスコードの存在をまったく知りませんでした。何かにつけ反戦・平和を叫び、極端なまでに中韓両国に遠慮する、マスメディアで最近までも続く自虐史観報道をみるにつけ、占領政策の置き土産が戦後70年経った現在でも脈々と生き続けていると思えてなりません。

 戦後の平和で解放感に溢れた国民の空気とWGIP政策とが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」という前文を持つ日本国憲法を絶対視し、戦前・戦中のすべてを旧式で悪者とする、極端に自虐的な戦後民主主義思潮を生んだのではないでしょうか? 私は、戦後民主主義思潮の主流が自虐史観と平等主義にあったと考えています。

 確かにGHQの打ち出した政策は自由と民主主義が主眼とはいえ、平等が第一の社会主義的色彩が強いものとも見えます。社会主義的左翼思想の方が進歩的とさえみる戦後民主主義思潮。これが大江健三郎や吉永小百合など進歩的文化人とも言われる人々が信奉する戦後の思想風土であり、そのような教育環境の中で私は育ったと考えています。私も国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を柱とする日本国憲法に何ら違和感を持たず、当然のものと受け入れて来ました。

 戦後民主主義思潮が進歩的とみ、目標とさえしていた左翼思想。私にも同調しようとした時期が高校生時代に一時期ありました。ドストエフスキーの『悪霊』の影響もあったでしょうが、左翼人の “自分こそは正義” という文字通りの独り善がりや、インテリ知識人=エリート気取り、大学紛争での暴力ゴッコ、仲間内を粛清する連合赤軍、セクト間での殺し合いなどがどうにも鼻に付き、距離を置いていました。決定的だったのは、彼らの考えの底流に共通している “人間は平等” であるべき、という偽善に気付いたからでした。人は各々顔も、身体も、感じ方も、考え方も、能力も違う。これが現実です。他人とは違い(=差)があることが当たり前で、逆に自分には他人にない特長もあるのです。

 元々違いがある人々をどうやって “平等” にするのか? 力づくで強制的に平等にしてしまうしか方法がないのではないか、そう考えるに至りました。富める人から財を取り上げ、皆で分配すれば平等になります。行政権力を強大化し、個々人の権利の行使を最小限に抑え込めば、人為的に平等を実現することができるでしょう。教育を画一化して洗脳教育を強制的に徹底すれば、個々人の思想の均一化(=平等)が図れます。思想の自由は、言論の自由を徹底的に封殺すれば抑えることが可能でしょう。全能の神を想定した宗教は厄介ですが、宗教施設や文物を禁止するしかありません。

 これらのことを実行するには独裁的な権力の集中が必須となります。手足となる巨大な官僚機構も必要でしょう。平等社会を実現しようとすれば、これらの仕組の設置が必然的帰結となります。案の定、社会主義国から漏れてくる情報は、これらを裏付ける不自由な恐怖社会そのものを伝えていました。ソ連の強制収容所、中国の大躍進運動や文化大革命の内実は酷いものでした。

 さらに国民経済に目を向けると、計画経済では破綻するのが必定と見えるのです。計画経済の社会主義社会で経済を成長させようとしたら、一国の国内だけでは不可能です。必要なだけ生産するのでは、人口増以外に経済の拡大が見込めません。必ず国外に販路の拡大を求めるしかなくなります。畢竟、社会主義国の覇権主義は合目的的なことです。ソ連は衛星国をしっかり確保し、あろうことかアフガニスタン侵攻までやってのけました。

 “人間は皆平等” これは共産主義や社会主義を標榜する党派共通のイデオロギーです。日本共産党は密室的な民主集中制と上意下達システムを採っており、最終目標として平等な社会主義・共産主義社会の実現を捨てていません(日本共産党綱領2004年1月17日 第23回党大会で改定)。民主的を掲げ最も政党らしく装う政党ですが、民主主義とは相いれません。“人間は皆平等”の正体にご用心!

 味のある辛口で知られた評論家、山本夏彦は次のように述べています。
「持てるものから奪い、持たざるものに公平に分配するのは正義だというのは社会主義の正義で、その根底にあるのは嫉妬である。嫉妬は常に正義に変装してあらわれる。・・・私が正義をほとんど憎むのは、自分のことを棚に上げて初めて正義だからである。」

 現代では一方で、非力な市民を装って弱者支援をダシに反対機運を盛り上げることに血道を上げるイカガワシく怪しげな市民活動家・団体があります。他方で、快適な自分の生活を守ることだけに汲々とし、“自分だけは・・・” 面倒や災難に巻き込まれたくない自己都合中心の人々がいます。面倒や災難の兆しがあると、そこに怪しげな市民活動家・団体が力を貸す振りをして現れ、事を炎上させて事態を益々複雑にするというのが大方の市民反対運動の傾向のようです。

 彼ら市民活動家・団体の考えはこうです。「自分(たち)の政治的主義・主張だけが正義で、正義のためなら日本社会全体が壊れても構わない。正義に抗う政府を揺さぶれるなら反日を掲げる他国と連携することも厭わない。」これはテロリストに通じる無政府主義者と同じ考え方です。

 彼らに通底するのは、さもさも正義の味方を装い、耳触りの良い “人間は皆平等” を喧伝することです。その魂胆にあるのは、単に人々に潜む嫉妬心を煽ることであり、否応なしに人々を反対運動に巻き込み炎上させることだと見ています。少数意見を尊重するのが民主主義、彼らの常套句です。私はこのように理不尽な輩の存在と世相に腹立たしさを覚えて仕方ありません。彼らは権利行使だけの自由を弄ぶ、戦後民主主義(思潮)の鬼子ではないかと考えています。

 平等:その社会を構成する、すべての人を差別なく待遇すること。(新明解国語辞典)

 平等=“誰でも等しく” というニュアンスがあります。誰もが平等でありうるのは、権利を持っていること、義務を負うこと、死を迎えること、これらの3つだけに限られると思います。日本国憲法に平等の文字がある条文は、「すべての国民は法の下に平等(第14条)、婚姻で・・・個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚・・・(第24条の2)」の2ヵ所だけです。“機会均等”こそが平等のイメージに合致する概念と考えます。機会を活用できる権利は誰でも等しく持っているのですから・・・。

 もちろん、格差のある社会を放任してよいと言っているのではありません。大きな格差があるのは問題で、不当な格差は政策により縮小されるべきです。ただ、平等の言葉の持つニュアンスが、“結果平等” を匂わしていて怪しいのです。 “機会均等” の方が正しいと思います。平等の呪縛から解放され、他人とは違う長所を探し出す訓練が日本人には必要だと思います。出る杭を伸ばし、不揃いや多様性にこそ面白さを見出す、そのような文化をも育む日本でありたいと願ってやみません。

 山本夏彦はこうも言っています。
「私たちは偽善が大好きで、偽善なしではいられない。」
私たちはこの警句を常に噛みしめ、耳触りの良い言葉には気を付けるようにしましょう。人の考えの本音は行動に現れます。行動をじっくり見てから判断しても遅くはありません。


今回は2015年1月3日に投稿したものを全面的に改訂して再投稿しました。



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