今まで何回かAAの回復のプログラム『12のステップ』を記事に取り上げてきましたが、最近新たに気づいたことがあり、改めて取り上げてみようと思います。今回はステップ1~3について述べてみます。(『12のステップ』についてはこちらをご参照ください。)
『12のステップ』は、創始者2人が初対面でした体験とその後の経験の積み重ねから導き出された経験則で、強いて言うなら帰納法的教義(?)に当たると考えています。私が思うに、彼らの勧める方法は認知行動療法 “言語化” が基本であり、内観療法にも通じるものがあるようです。
“言語化” は、もやもやした胸の内を洗いざらい言葉でさらけ出し、煩悩(?)の正体を “見える化” する作業です。中には思い出したくないこともあるでしょうが、たとえ隠しておきたいマイナス感情(怒り、嫉み、恨み、羨みetc.)でも敢えて言葉で明るみに出す作業が “言語化” です。
私には、これまで “言語化” を実践してきたという自負がありますが、その経験から『12のステップ』をみると次のような解釈が成り立ちます。
まずステップ1~3ですが、自分自身に対してどこまで “正直に” なれるか、そう覚悟を決めるまでの心構えを述べた部分というのが私の解釈です。『12のステップ』の前段にある「・・・自分に正直になる能力さえあれば・・・回復する」という記述がこのことを如実に表わしています。しかも、“言語化” を実践するには、どうしても自分自身に対し “正直に” なることが必要なのです。
ステップ1.には次の記述があります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」
このステップ1こそ、“正直に” なろうと覚悟を決める前段階の心境を述べた部分と解釈できます。“無力” とは「もう(酒は)無理! 自分(の力)ではどうにもならない!」という心境のことで、“無力”=“どうにもならない” という意味に受け取れます。いわゆる “底着き” となったときの心境がこれに当たるのでしょうか。
人は、追い詰められなければ自分に “正直に” なって本音を語るなどしません。“どうにもならない” ところまで追い詰められた経験は人それぞれだと思います。ある人は酒で生死の境を彷徨ったとか、またある人は断酒後のクロス・アディクションに苛まれギャンブルや性的妄想などから抜け出せなかったとか、そんな経験をしたアルコール依存症(アル症)者はゴロゴロいます。
そんな心境となって初めて、「さぁ、どうにでもしてくれ!」と俎の鯉のように誰かに自分を委ねられるのだと思うのです。ステップ2~3はそのことを述べているのであって、AAではその誰かを “神” としているに過ぎません。
ここで “神” を持ち出していることに私には幾分違和感があり、別に “神” でなくてもいいのでは(?)という思いが拭えません。過酷な酒害体験が俎の鯉の心境に追い詰めたのであって、単にその開き直った思いから酒を断つ決心に至るのだと考えています。
AAのベテラン・メンバーの中には、ステップ1 だけでもSLIP(再飲酒)防止に十分と言う人が多くいます。何か怪しげな気分になったら、過酷だった “底着き体験” を思い出すことにしていると言うのです。慢心を自戒するにはもっともな話で、断酒歴の長い人に多いのも頷けます。
ところで私は、必ずしも “底着き体験” にこだわる必要はないと考えています。自分では2度も“底着き” を経験したと思っている私ですが、今ではややもすればその記憶も薄れかけています。こんなふうに “喉元過ぎれば熱さ忘れる” では到底当てにはできません。あくまでも “底着き体験” は個人の主観なので、ないよりもあるに超したことはないのですが・・・。それよりも自分自身に対して “正直に” なることの方が遙かに当てにできる。私はそう思っています。
AAの勧める生き方の基本は “ありのままの自分を ありのままに受け容れる” であって、これこそ否認の病と言われるアル症の回復への一歩に違いありません。
実は、この基本がそっくりそのまま “言語化” に当てはまります。ありのままの自分を “見える化” することが “言語化” ですから、自分に正直でなければ “言語化” の実践などできるはずがないのです。ちょっと諄すぎでしたか?
次の記事もご参照ください。
「 “自分に正直に・・・”って?(“認知のゆがみ” の矯正に)」(2017.6.09投稿)
「 自分に正直になるには “言語化”」(2017.2.24投稿)
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『12のステップ』は、創始者2人が初対面でした体験とその後の経験の積み重ねから導き出された経験則で、強いて言うなら帰納法的教義(?)に当たると考えています。私が思うに、彼らの勧める方法は認知行動療法 “言語化” が基本であり、内観療法にも通じるものがあるようです。
“言語化” は、もやもやした胸の内を洗いざらい言葉でさらけ出し、煩悩(?)の正体を “見える化” する作業です。中には思い出したくないこともあるでしょうが、たとえ隠しておきたいマイナス感情(怒り、嫉み、恨み、羨みetc.)でも敢えて言葉で明るみに出す作業が “言語化” です。
私には、これまで “言語化” を実践してきたという自負がありますが、その経験から『12のステップ』をみると次のような解釈が成り立ちます。
まずステップ1~3ですが、自分自身に対してどこまで “正直に” なれるか、そう覚悟を決めるまでの心構えを述べた部分というのが私の解釈です。『12のステップ』の前段にある「・・・自分に正直になる能力さえあれば・・・回復する」という記述がこのことを如実に表わしています。しかも、“言語化” を実践するには、どうしても自分自身に対し “正直に” なることが必要なのです。
ステップ1.には次の記述があります。
「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」
このステップ1こそ、“正直に” なろうと覚悟を決める前段階の心境を述べた部分と解釈できます。“無力” とは「もう(酒は)無理! 自分(の力)ではどうにもならない!」という心境のことで、“無力”=“どうにもならない” という意味に受け取れます。いわゆる “底着き” となったときの心境がこれに当たるのでしょうか。
人は、追い詰められなければ自分に “正直に” なって本音を語るなどしません。“どうにもならない” ところまで追い詰められた経験は人それぞれだと思います。ある人は酒で生死の境を彷徨ったとか、またある人は断酒後のクロス・アディクションに苛まれギャンブルや性的妄想などから抜け出せなかったとか、そんな経験をしたアルコール依存症(アル症)者はゴロゴロいます。
そんな心境となって初めて、「さぁ、どうにでもしてくれ!」と俎の鯉のように誰かに自分を委ねられるのだと思うのです。ステップ2~3はそのことを述べているのであって、AAではその誰かを “神” としているに過ぎません。
ここで “神” を持ち出していることに私には幾分違和感があり、別に “神” でなくてもいいのでは(?)という思いが拭えません。過酷な酒害体験が俎の鯉の心境に追い詰めたのであって、単にその開き直った思いから酒を断つ決心に至るのだと考えています。
AAのベテラン・メンバーの中には、ステップ1 だけでもSLIP(再飲酒)防止に十分と言う人が多くいます。何か怪しげな気分になったら、過酷だった “底着き体験” を思い出すことにしていると言うのです。慢心を自戒するにはもっともな話で、断酒歴の長い人に多いのも頷けます。
ところで私は、必ずしも “底着き体験” にこだわる必要はないと考えています。自分では2度も“底着き” を経験したと思っている私ですが、今ではややもすればその記憶も薄れかけています。こんなふうに “喉元過ぎれば熱さ忘れる” では到底当てにはできません。あくまでも “底着き体験” は個人の主観なので、ないよりもあるに超したことはないのですが・・・。それよりも自分自身に対して “正直に” なることの方が遙かに当てにできる。私はそう思っています。
AAの勧める生き方の基本は “ありのままの自分を ありのままに受け容れる” であって、これこそ否認の病と言われるアル症の回復への一歩に違いありません。
実は、この基本がそっくりそのまま “言語化” に当てはまります。ありのままの自分を “見える化” することが “言語化” ですから、自分に正直でなければ “言語化” の実践などできるはずがないのです。ちょっと諄すぎでしたか?
次の記事もご参照ください。
「 “自分に正直に・・・”って?(“認知のゆがみ” の矯正に)」(2017.6.09投稿)
「 自分に正直になるには “言語化”」(2017.2.24投稿)
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