「選択と集中」,「無闇に手を広げすぎない」,という話をよくします。ただ,この言葉の受け止め方がいつも気になります。この言葉は,「手を広げすぎて全部中途半端になることを避ける」,という文脈で用いられるのが普通です。問題は「中途半端になる」,の捉え方です。
勉強は,「理解して記憶する」ことで完結します。理解が抜けても,記憶が抜けても「役に立ちません」。結局「中途半端」と言うことになります。ですから,「理解して記憶する」作業を完璧にこなせる範囲で勉強しましょう,という意味で用いられることになるのです。
あれもこれも手を広げても,結局やりっぱなしになるのであれば,やる意味がないからです。決して,「読むのが大変だから」,「面倒だから」,「楽したいから」,「なんとかやるべき範囲を狭めたいから」,という後ろ向きな理由ではありません。しかし,無意識にこのような文脈で「自己の勉強スタイルを正当化しよう」とする人も多いような気がします。「そこまではできないから(やりたくないから?)この程度で」,という実態を「手を広げすぎない」という言葉で覆い隠してしまうケースです。しかも,この手のタイプの人は,結局狭めた範囲ですらまともに記憶していないことが多いと思います(人間は目標水準までやり切れることは少ない。八掛けのイメージ)。
当たり前ですが,観念的に「合格する為に必要な知識の絶対量」というものがあります。これは主観的に増減できる話ではありません。勝手に水準を下げると当たり前ですがいつまでたっても受かりません。以前、極めて合格率の悪いロー内部の話を聞く機会がありましたが,彼らは合格者の話を聞いても,「そんな勉強は自分にはできない」,として勝手に勉強水準を下げてしまう受験生が多いとのことでした。そんなことでどうするつもりなんだろう、と本当に心配になってしまいました。本物の原始的不能パターンです。
どうしても来年受かりたい,という気持ちは分かりますが,だからといって「自分ができそうなことだけやる」というのも変な話です。「受かりたい」のであれば,「間に合わせる」しかありません。「納期」に「本旨弁済」すべくハイスピードでやり切るしかないのです。出来る範囲に水準を切り下げたりするのは本末転倒です。恐らく冷静に考えれば分かることだと思うんですが,「できないからやらなくて良い病」は意外に深刻なのです。