今朝、朝食を摂りながら日経をペラペラめくっていると、ある意見広告に目が止まりました。
8月30日に投票日がやってくる衆議院選挙での「1票の格差」に関する意見広告です。
現在の小選挙区制度に変わる際に、だいぶ緩和されたとはいっても、いまだに選挙区ごとの有権者数には格差があるようです。そりゃ、各都道府県に1人づつの定員を割り当てて、それから選挙区ごとの有権者数が均等になるように選挙区割りをしているのですから、不平等が生じるのはやむを得ないとは思います。
でも、「各都道府県に1人づつの定員を割り当て」ることが妥当なことなのか、選挙区の定員総数と比例区の定員とのバランスは適当なのか、など、検討の余地はたっぷりと残っていると思います。
また、参議院にも、参議院の選挙制度はもちろんのこと、参議院の存在意義そのものにも見直すべき点がたっぷりとあると思っています。
そして、選挙制度を変えることが、日本の情けない政治風土を変えることに直結しているのではないかと考えている今日この頃です。

と、まぁ、選挙制度についていろいろ思うところのある私ですが、上の意見広告に注目したのは選挙制度云々が理由ではありません。もっとも注目したのは、意見広告の左下の部分。
ここ、
最高裁判所裁判官の国民審査です。
日本国憲法の第79条の2項に、
最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後10年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
とあります。
政府が任命した最高裁判所裁判官は、任命されてから最初に行われる衆議院議員総選挙で、国民の審査を受け、その後、10年毎に直近の総選挙の際に国民の審査を受ける規定になっています。そして、「罷免を可とする」投票が過半数を超えれば、罷免されます。
中学校でも習った「国民主権」「三権分立」を直に体験できる機会が近づいているわけですよ。
総選挙が行われる毎に、衆議院議員候補者の政権が書かれた公報と一緒に、審査を受ける最高裁判事の主な判断とか経歴も公報として配られて、投票所でも投票用紙が配られてはいるのですけれど、最高裁判事を審査している実感を持っている人が、今の日本にどれだけいるのでしょうか?
マスコミの無関心もあるでしょうが、私は、国民審査のやり方自体にも大いに問題があると思っています。
最高裁判事の国民審査について規定している「最高裁判所裁判官国民審査法」の第15条には、こんな記述があります。
審査人は、投票所において、罷免を可とする裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に自ら×の記号を記載し、罷免を可としない裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に何等の記載をしないで、これを投票箱に入れなければならない。
つまり、配られた投票用紙に何も書かずに投票箱に入れれば「この最高裁判事は罷免するべきではない」という意思を表明したことになるのですよ。
国民審査の結果を総務省のHPで見ると、信任の意思を持って×を書かなかった人はもちろんですが、「よく判らない…」と何も書かなかった人までひっくるめて、「否認を可としない」ですよ。こんなのアリですか?

この国民審査で「否認を可」とされた最高裁判事は一人もいません。完全に形骸化したこの制度、今のままでは、ただの税金のムダづかいです。私は「なんとかしなければ」と思うのですが、いかがでしょうか?
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