asahi.comの特集記事二つ(http://www.asahi.com/national/update/0430/OSK201304290117.html、http://www.asahi.com/national/update/0430/OSK201304300095.html)。
いまやマスコミ自身が「言論の自由」「報道の自由」を狭めようとする時代である。
『●「ダムを壊したら魚がもどってきた」
『週刊金曜日』(2013年5月10日、942号)について』
「■『週刊金曜日』(2013年5月10日、942号) /
浅野健一さん【被疑者逮捕をショーにしたメディア
ボストン爆弾事件】。田島泰彦氏【『産経新聞』が表現の自由
制限する改憲案を提示】。天に唾する行為
(http://blog.goo.ne.jp/activated-sludge/e/f00bcec5ab16103b4852ed458cc72bf3)」
『●PC遠隔操作事件でまたしても暴走?』
「隠し撮りか何か知らないがあれだけ浮かれた報道をしたマスコミ、
警察との癒着が酷すぎるように見えてしょうがない」
「ジャーナリズム」なんて云う言葉は既に死語。「社会の木鐸」「正義」なんて言葉は・・・。
『●『別丁 石川真澄 という人がいた』読了(3/3)』
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【http://www.asahi.com/national/update/0430/OSK201304290117.html】
2013年4月30日6時23分
伝える仕事 記者の道へ(明日も喋ろう:4)
長崎市にある西日本新聞長崎総局。4月3日、記者の藤田沙智さん(26)は長崎県西海市長選の企画記事の取材中だった。記者になり、4年目に入った。「先輩に助けてもらってきたけど、後輩もできた。自分の視点をしっかり持って書きたい」と話す。
朝日新聞阪神支局襲撃事件が起きた1987年生まれ。支局がある兵庫県西宮市で育った。姉(28)は事件で犠牲になった小尻知博記者の長女と同学年だ。
「阪神支局に行くよ」。20歳だった2007年5月3日、小尻記者の母校の立命館大学の学生だったときに母親の邦子さん(56)に声をかけられた。資料室で小尻記者の母のみよ子さんの句に目がとまった。
「彼岸来て悲願つづけてまた彼岸」
息子の命を突然奪われた親の思いに胸が詰まった。事件を調べ、言葉で伝える仕事の大切さを知り、記者を志す気持ちが芽生えた。中国留学を終えた大学4年の秋、就職活動で飲食会社の内定をもらったが、新聞社への入社はかなわなかった。「このままだと後悔する」と就職浪人した。
09年の5月3日、阪神支局を再訪した。西日本新聞社の最終面接直前だった。就職活動中、記者になった先輩らから、事件の重大性を伝えるために、遺族ら関係者を回って被害者の顔写真を探すこともあると教えられ、「耐えられるの?」と聞かれたことがあった。
なぜ記者になり、何を書きたいのか。気持ちを整理したかった。みよ子さんの句を改めて眺め、見学者カードに「遺族を取材することになっても、この思いと胸の痛みを忘れずにジャーナリストになろうと思います」と書いて、誓った。
10年に西日本新聞社に入社し、主に県警を担当。翌11年に西海市で2人の女性が殺される事件があり、遺族を取材した。どう接するべきなのかを自問した。この春には原爆や平和問題の担当になった。戦後68年で被爆者の高齢化も進む。「体験談を話してもらえる最後の世代ともいわれる。68年間書き続けられた中で、新しい視点で何が書けるかを考えたい」。葛藤はこれからも続く。
◇
〈小尻知博記者の母みよ子さんの句〉 みよ子さんは阪神支局襲撃事件後に、他界した息子への思いなどを五七五の言葉に託し、書き続けた。支局の資料室には、句を手書きした短冊と、2002年に朝日新聞社から出版した「絆(きずな)――小尻みよ子句集」を展示している。
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【http://www.asahi.com/national/update/0430/OSK201304300095.html】
2013年5月1日5時33分
足運び 自分の目で見て(明日も喋ろう:5)
京都市内のゲストハウスで働く広瀬季恵娜(ケーナ)さん(23)=京都府在住=は、父親(61)に薦められ、小学生の頃から「インド独立の父」ガンジーや、米国の黒人公民権運動指導者キング牧師らを紹介する本に目を通してきた。「非暴力で弱い立場の人たちを守る姿が子ども心に残った」
父親の友人は米軍基地問題などに取り組む活動をしており、沖縄の基地問題を知らせる手紙や地元紙を自宅に送ってきた。中高生になって目を通すと、知らないことばかり。沖縄へ行きたい、と思い始めた。
17歳だった2007年5月3日、父親に誘われて朝日新聞阪神支局を訪れた。資料室で犯行声明文をみて、「これが本物か」と、その物々しさに怖さを感じた。
「民主主義が弾圧され、弱者にとって住みにくい社会となってきているのを感じます」と感想を書いた。
沖縄の大学に進んだ08年の秋、授業を受ける准教授に沖縄県北部の東村(ひがしそん)高江地区に連れていってもらうと、その思いに通じる現場を目の当たりにした。
約150人が住む集落を囲むように6カ所の米軍用ヘリコプター着陸帯を作る計画があり、住民らが反対の座り込みをしていた。
騒音や生活はどうなるのか――。「沖縄の人の目線に寄り添いながら根本的な解決の道を考えたい」と、座り込みに加わった。音楽を流して平和を訴えるパレードに参加したり、音楽会も企画したりした。
ただ、大学の日本人の学生とは、ほとんど基地問題の話ができなかった。政治的な問題に「距離を置く空気」があった。海外での若者のデモ活動を知る留学生の友人らは「なぜケーナしか参加しないの?」と若者の少なさを不思議がった。
高江地区では今も座り込みが続く。4月7、8両日、約1年ぶりに訪れた。沖縄に来て、弱い立場の人へのしわ寄せは意識して見ないと見えないと感じた。「知っているという気にならずに、一つの問題を裏側まで見ることや、まだ知らない世界があると意識して自分の目で見て足を運ぶことを心がけていきます」
◇
〈犯行声明文〉 「すべての朝日社員に□□を言いわたす」。事件の3日後に通信社に届いた犯行声明文には、7カ所に四角い穴が開いている。犯人が使ったワープロの機種の特定のため警察が文字の一部を切り取った。「□□」には「死刑」の2文字があった。
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